第137話 可愛い子は旅をする

 除雪した偽ロンシャンで、志穂はハルの調教を再開した。

 二月の初旬。あとひと月ほどで洞爺の平均気温も零度を上回り、雪解けの季節がやってくる。それは春の到来であり、ハルの旅立ちだ。


「うんうん、ハルちゃんは順調ですね」


 わざわざ洞爺までやってきた羽柴は、ハルの馬体を確認した後、ふわふわの髪の毛を満足げに揺らしていた。


「馬体重は変動なしですか?」

「や、こないだ測ったら四百二十キロまで育ってたよ。でもやっぱ小さめだよね?」

「ですね〜。この馬格だとマイル以下は難しそうです。まあ血統的にも中長距離馬ですから。にしても筋肉のつきがいいですね。特に前。それと蹄の形から見るに——」

『ねー、シホ。このふわふわおねーさんなんて言ってるの?』

「元気でよかったね、って感じ」

『うんボク元気! そして速い!』


 ふんす、と自慢げに鼻息を鳴らして、ハルはその場でステップを踏んでいた。じっとしているよう言っておいたのに、直後に例の大暴れ——喜びの舞に発展してしまったが。


「あはは、ハルちゃんは元気いっぱいですね!」

「ごめんハッシー……。暴れ癖だけはどうにもなんなくて……」

「やんちゃな馬は元気の証ですよ!」


 そうしてハルを見て、触ってと確認しながら、羽柴は細やかにメモを取っていた。


 今日羽柴がやってきたのは他でもない。一ヶ月後に迫った香元厩舎への入厩に備えて、事前に馬体を調べておくことにある。

 ハルの大目標はクラシック最終戦・秋華賞。トーホウジャッカルを目指すジャッカりの誓いを叶えるためには、大いなる出遅れをどうにか埋めなければいけない。それはハルを鍛えて成長を促すこと以外に、有利な条件のレースに出走させるローテ管理や、鞍上を誰に頼むかなど、陣営での強固なバックアップが必須だ。


「じゃ、ちょっと走ってみてくれます? 走りを確認したいので」

「ん。ハル、行くよ」

『わかった!』


 ハルに跨ったシホは、偽ロンシャン前に設置したお手製ゲートに収まった。

 ちなみに羽柴は、すこやかファームの手作りぶりに感心こそすれ、呆れるようなことはなかった。特に七色に光るLEDが幻想的なかまくら坂路は「デートスポットにはぴったりですね!」と興奮しきりである。「相手いるの?」と志穂が尋ねると「クリュサーオルです!」と返ってくるくらい、羽柴は馬ひとすじだったが。


 そんなことを思い出しながら、志穂はハルの背からゲートの先に伸びる偽ロンシャンを眺めた。ハルのために作ったこのポンコツクソコースも、いよいよハルと走れる機会は残りわずかだ。


 春先のデビューまでには時間がない。急がなければならない。

 だけど別れを思うと寂しい。この時間がずっと続いてほしい。

 矛盾した気持ちのなか手綱を握って、志穂はハルに語りかけた。


「ハル、集中して。行くよ」

『その前にね、ボク……シホに言いたいことがある』

「何?」


 口調はハルにしては珍しく、弱々しいものだった。好奇心旺盛で普段からピンと立っている耳も自信なさげに絞られていて、ただ乗っているだけの馬体も普段より揺れている。

 やっぱり、走りたくないのだろうか。そんな不安が志穂の脳裏をよぎるも、ハルの答えは違っていた。


『ボクね、やっぱりシホと離れ離れになるのは寂しい。シホを乗せて、お姉ちゃんと一緒に走りたい……』

「ハル……」

『でも、スワンおじさんから聞いた。おじさんとあの男の子みたいに、いつかまた会えるんだよね……?』


 志穂はようやく、セブンスワンダーの思惑に気づいた。馬のことは馬に任せろと言うだけ言ってなんの変化もなかったが、あれは彼なりに伝えるタイミングを考えていたということなのかもしれない。


「当たり前でしょ。レースが終わったってハルは私の家族なんだから」

『おかーちゃんにも会えるかな?』

「大丈夫。ちゃんと待ってるよ」


 クリスはすこやかファームの竈馬かつ功労馬だ。仮にママ業を引退したとしても、すこやかに過ごすことは決まっている。手放すようなことは絶対にない。

 ハルのたてがみを撫でながら、志穂は優しい口調で言い聞かせる。


「人間の言葉に、可愛い子には旅をさせよってのがあるの。可愛いハルだからこそ、外の世界を知って成長してほしい。プリンやレインもね」

『人間って厳しいなあ!』

「野生はもっと厳しいよ」

『そうなの!?』


 そんなハルのとぼけた様子に、志穂はただ笑っていた。

 馬匹改良の末に辿り着いたサラブレッドは、もはや人間の世話がなければ自然界では生きられない。大きく速くなるということは栄養素を求め続けないと飢えてしまうし、速く走るための蹄は人間が手入れをしないと簡単に割れて走れなくなってしまう。

 もはや人間なしには生きていけない体にされたのがサラブレッドだ。だからこそ志穂は、その生を最後までまっとうさせる義務がある。自分の家族だけではない、目に入るすべての馬は幸せにしたい。


「だからハルが出てっても、私もクリスも待ってるよ。お姉ちゃんと走っておいで」

『ホント? ホントに待っててくれる……?』


 志穂が気になるのは、馬産を続けているかどうかではない。クリスの馬齢だ。

 今年クリスは二十歳。サラブレッドの平均寿命である二十五歳が近づいている。

 人間と、サラブレッドの時間スケールは違うのだ。


「待ってるよ。いなくなったりしないって」


 そうは言いつつも、寿命の違いを思うと志穂の心臓はきゅうっと縮んだ。

 いまのところ志穂は幸運にも、馬の死に目には会っていない。ただ、ホースマンを続けていれば、いつかは絶対目にすることになる。犬や猫を飼うのと同じ、ロスの消失感だ。

 母親をロスしていても何も思わないのに、世話してきた馬のロスを想像すると胸が痛いのは現金すぎて、志穂自身呆れてしまったが。


「だからハルは、私の気持ちを乗せて走ってよ」

『シホ泣いてる?』

「……泣く訳ないじゃん。こっからハルの物語が始まるんだからさ!」


 瞳を潤ませる涙を引っ込めて、気つけとばかりに大きく息を吐く。

 可愛い子には旅をさせよ。その言葉通り、志穂もまた送り出す側として気合いを入れなければならない。

 入厩までの残り一ヶ月間。調教師としての腕はまるで足りないし設備もどうしようもないが、ハルのためにできることをやる。それだけを胸に、志穂は手作りゲートを開ける紐を引いた。


「さあ! ハッシーにハルのすごさを見せてやるよ!」

『うんッ! 一緒に走ろう、シホ!』


 ゲートが開き、ハルが一気呵成に飛び出した。


 除雪と融雪剤の木炭で、雪解けの偽ロンシャン。馬場は最悪の不良馬場だ。柔らかな土、冬枯れた草地は、もはや沼のようにハルの足を取る。ゆえに昨年の秋に測ったような時計は絶対に出ない。これは現役競走馬でも同じことだ。

 日本の馬場が超高速馬場と呼ばれるのは、その走破タイムの早さである。日本でのチャンピオンディスタンス、東京競馬場芝二千四百メートルはおおよそ二分二十秒台での決着となるが、同じ芝二千四百でも凱旋門賞の行われるパリロンシャンでは二分三十五秒ほどと、実に十五秒近い差が生じる。

 これが、日本と欧州の競馬が別の競技だとさえ言われる所以だ。原因はコース形態、芝室、水分含有量と様々あり、現在も日本のホースマンたちは日夜、凱旋門で勝てる馬の研究を進めている。


「にしても、すごいコースですねえ」


 ハルと志穂の走りを観察しながら、羽柴は息を呑んでいた。

 それと同時に、お隣の洞爺温泉牧場が本気で凱旋門賞を狙っていることが見て取れる。


「……このコースで鍛えたら、本当に勝てるかもしれません」


 羽柴は自身のノートに、細かく情報を書き加えた。

 すこやかファームの偽ロンシャンを、香元厩舎だけじゃない。ロンシャンを目指す他の陣営にも役立ててもらえるよう、宣伝できるように。

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