第138話 羽柴先生の実力考査

 道悪の偽ロンシャン。手作りゲートに収まった二頭の馬とその鞍上は、遠く、高くそびえる千メートル向こうの丘を睨みつけていた。


「ハル、きょうは勝つよ」

『うん! 勝負だよ、スワンおじさん!』


 最内枠に収まるのはハル、鞍上は志穂。隣のゲートに収まるのはセブンスワンダーだ。


『キャピキャピの女の子と走れるなんておじさんモテちゃって困るね! って違うか!』

「馬じゃなかったら蹴ってるわ……」

「なるほどなるほど、スワンは愉快な子らしいですね! 楽しみです!」


 そしてセブンスワンダーの鞍上は羽柴。洞爺に来たついでに騎乗を頼んだら、二つ返事で引き受けてくれた。かくして三歳馬と八歳馬、レース勘を養いたいハルにはありがたい実戦形式の併せ馬が実現したのだ。

 もちろん、これはただの併せ馬ではない。


「さて。志穂ちゃんがどれくらい成長したか、確かめさせてもらいますね」

「テストってワケね。受けて立つよ」


 そう、この実戦はハルとセブンスワンダーの調教だけではない。

 乗り役、そして外厩調教師としての、志穂の能力を測る実力テストだ。


「その意気やよしです! こっちは準備オッケーですよ」

「私も問題なし。宏樹くん、スタートよろしく!」


 気合いを入れる羽柴、志穂をゲートの外で見つめる宏樹は、スターターとしてゲートの紐を引く係を任されていた。手に紐を持ちながらも、心配そうにハルの背に座す志穂を見上げている。


「志穂ちゃんはレースまで乗るのか? それに鞭も持たず……」

「鞭なんて持ったら落馬するよ。代わりにハルは呼べば答えてくれるから」

「ホースマンはすごいな……」

「こんなことできるの志穂ちゃんだけですよ! 絆のなせるワザですね!」


 宏樹は感嘆を漏らし、羽柴はニコニコしているが、ふたりともある意味で常識外れだ。調教まわりの知識がない宏樹はともかく、現役調教助手が中学生の騎乗を許すことは普通はまずない。

 だがそれは羽柴が志穂を信頼し、能力を買ってくれているからだ。先ほどハルを軽く走らせたときも、騎乗フォームについての指導を志穂は受けている。

 いわく志穂の課題は「まだ腰が引けている」というもの。息を入れたり速度を緩めるときはそれでもいいが、出足や終いではもっと重心を前に傾けて、走りやすいようにしたほうがよいという。


「ハッシーに言われたこと試してみるよ。今以上に前傾するとかすっ転びそうだけど」

「無理しない程度にお願いしますね? 私のせいでケガしたら、クビになっちゃいますから」

「つまりハッシーをクビにしたかったら、あえて落馬すればいいワケだ?」

「さすが、イジワルさんですね!」


 自らの進退がかかっているのに、羽柴は保身もせずケロリと笑ってのけた。彼女はやっぱり常識の外の人間だ。よく調教助手になれたものだと志穂は思うが、そんな出し惜しみしない性格のおかげで志穂が上達してきたのも事実。


「ネージュのときは負けたけど、今日は勝つよ。私らの成長よく見てて」

『うん! 今度こそ勝つッ!』

『気合い充分だネ! おじさんも元気ビンビンさ!』

「じゃ、ふたりの成長見せてもらいますよ!」


 そして、構える。ハルとセブンスワンダー、志穂と羽柴。人馬一体、二騎とも問題なし。

 手にしたストップウォッチを押すと同時に、宏樹はゲートを開ける紐を引く。

 引かれた紐は、手作りゲートの天井に設置された滑車へ。そこから二股、さらに二股と合計四本に分岐して、左右両開きのゲートを開くカラクリを作動させた。


「スタート!!!」


 開くと同時に、志穂は全体重を思いっきり前方に傾けた。つんのめってそのまま顔面から地面に着地してしまいそうになるが心配は無用。相棒ハルの出足の速さは、世界で一番志穂が知っている。

 これはハルへの信頼だ。そしてハルもまた、志穂の信頼に応えてくれる。


「いいですよ! 出足バッチリです!」


 ひと息遅れてゲートを出たセブンスワンダー鞍上羽柴の声を背中で聞きながら、志穂はつんのめった姿勢のまま、ハルの動きに息を合わせた。


「坂まで一気に加速! 先頭ハナ取って行くよ!」

『もちろんそのつもり! いっくよーッ!!!』


 ハルは脚を細かく捌きながら、猛然とロケットスタートを決めてみせた。ゲートを出てからの加速を殺すことなく、一気にトップスピードまでギアを上げていく。

 だが、やはり道悪。キックバックの強い——蹴り上げた地面がえぐれて後方に飛んでいく馬場では、なかなか速度は出せない。偽ロンシャンはどこまでも、欧州型のパワーとスタミナを要するタフなコースだ。二千四百メートルの中長距離であっても、体力の消耗度は馬場の悪い長距離に匹敵する。


「ハル、体力は!?」

『フフフ! まだまだあり余ってる!』

「ならもう少しそのまま! リードを取る!」


 偽ロンシャン最初の千メートル、5ハロン。平坦なのは前半の2ハロン程度で、後半3ハロンは急峻な登りだ。ハルのような前目で走る馬は、なるべくフラットなうちにリードを作っておきたい。

 そのとき、志穂は気づいた。まっすぐ走らせていても左右によれることの多かったハルが、今日はぴったりラチ沿いにつけて走っている。乗っていても左右への揺れがほとんどないのだ。


「ハル、綺麗に走るじゃん!? なんで!?」

『ずっとまっすぐ走ってきたから!』

「そっか、あのかまくら坂路か!」


 除雪部分以外は真っ白なすこやかファーム放牧地。そこに作り上げられたかまくら坂路は、横幅二メートルと非常に狭いコース。毎日三本の坂路調教を行ううちに、ハルの走りはブレなく走れるように磨かれていたのだ。

 これは、かまくら坂路の知られざる効能。春先には消えてなくなるのが惜しいほどだ。


「そのまままっすぐ! だけど坂入るから緩めるよ!」


 言って志穂は腰を引く。それが前へ前へ走ろうとするハルへの減速の合図だ。背に乗った騎手が重心を後ろに下げれば、馬も速度を出せなくなる。

 ハルが脚を動かすリズムが緩んだ。そして勾配に差し掛かる。登りは3ハロン。初めは緩やかに登り、その後急峻に十メートルの丘を駆け上がるもの。

 志穂はちらりと振り向き、背後を確認する。目視で五馬身ほど後方に、追ってくるセブンスワンダーの姿が見えた。あちらも坂に入って速度を緩めたからかリードは変わらない。ゆっくりと坂を登っていく。


「ロンシャンがきつい理由わかった、息入れる暇ないんだ!」


 たとえば東京の二千四百では、最初の3ハロンで好位を確保した後速度を落として休憩するのが定石だ。多少の起伏があっても楽なペースで走れば終盤の末脚勝負まで体力を残せる。

 だがロンシャンは違う。スタートダッシュの直後、息を入れたいタイミングで一番スタミナとパワーを消耗する急坂が待ち受けているのだ。ゆえにロンシャンの走破タイムはとにかく遅い。

 そしてそれこそが、自然を生かしたがゆえにめちゃくちゃなコースを走る欧州競馬の特徴だ。


 前半戦をいかにスローで乗り切るか。中盤でいかに好位置を取るか。

 そして後半戦、残した体力をどのタイミングで振り絞るか。

 行った行ったのアメリカ競馬とは真逆の、展開重視の欧州競馬。

 これこそが、日本の馬やホースマンたちが跳ね返される真相である。


『もうすぐ頂上! やっほーッ!!!』


 だが、ハルは消耗などカケラも感じさせなかった。ハルにとっては勝手知ったる散歩道。志穂を乗せて、あるいは空馬で毎日飽きもせず走り回って、コツはすべて熟知している。


『そしてここからスピードアップ!!!』


 右回りの下り坂にかかって、ハルは重力の力を借りて加速する。

 地吹雪の冷たい風を顔と体いっぱいに浴びて、志穂も袖でゴーグルを拭った。

 この坂を下り切れば、いよいよ後半戦。

 ハルが走りやすいよう前傾姿勢を取り続ける志穂の太ももは、もう痛いなんてものじゃない。筋肉痛がすぎて感覚がなくなる一歩手前。息も上がっているし、いつ落馬してしまうかもわからない。

 痛み、恐れ。それらすべてをアドレナリンで消し去って、志穂は手綱を強く握った。


「今日は本気でガシガシ追うよ。私とハルのスタミナ勝負だ!」

『うん、勝負! 負けないよ!』

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