第136話 冬来りなばハル近し
顆粒状に砕かれた炭の粉末が撒かれ、最内枠の雪だけが溶けた偽ロンシャン。その丘の頂上に立って銀世界を見渡したハルは、大きく首をもたげて残念そうにつぶやいた。
『お姉ちゃんとシホなんて選べないよ……』
悩むのは、競馬界のルールを理解してしまったから。
姉の待つ中央で競走馬として走るには、東西どちらかのトレセンに入厩しなければならない。それはどんな馬でも絶対だ。志穂はそう説明していたし、ハルがともに走った先輩馬も皆ルールを守っている。
姉と走るためには、牧場を去らなければならない。
しかしそれは、志穂や母のクリスと会えなくなるということ。
『シホとおかーちゃんがついてくればいいのに……』
何度も志穂に頼んでも、志穂は「いいよ」とは言ってくれなかった。
大抵のことは叶えてくれるし、練習ばかりか応援もしてくれるのに、それだけは聞いてもらえない。「私にもどうしようもないから」と志穂は寂しげに言うし、クリスからは『ワガママ言わない』とたしなめられるばかりだ。
ぬかるんだ地面に転がって、冷たい泥を浴びた。
もしレースを選んだら、志穂が作ってくれた大好きな偽ロンシャンともお別れだ。毎日何度も走り回って、坂の登りも勢いつけた下りも、最後の
『みんな、さみしくないのかなあ……』
黒い毛に泥を擦り付けているのは、馬としての癖か本能。落ち着くために行うことだが、ハルの場合はそれに加えて、志穂が洗い流して拭き上げてくれるからだ。汚せば汚したぶんだけ「走り回ったね」と褒めてくれる志穂がいるから疲れるまで走り回っていたというのに、それはもう叶わない。
項垂れて伏せっていると、同じく放牧中のセブンスワンダーが丘を登ってきた。『おじさんにはキツい坂だねえ』なんてたははと笑いながらハルのそばに立っている。
『おっと。ちゃんハルは悩みごとかい?』
『うん……。シホを連れてく方法ないかな……』
『レース観に来てって言えばいいんじゃない?』
『レースだけじゃなくて、今まで通りがいい……』
『そうさねえ』
『よっこいしょこら』とハルの隣に寝転がって、セブンスワンダーは大きくあくびをしつつ告げた。
『ちゃんシホは特別だからねえ。もう嬢ちゃんのことを知らない馬はいないくらいだヨ』
『シホのこと知ってる子多いんだよね? だったらついてきたらいいのに、みんな喜ぶよ?』
『ところがどっこい、そうはいかないんだね。おじさんもボーヤには会えなかったからネ』
そしてセブンスワンダーは、ボーヤこと宏樹との日々を懐かしそうに語り始めた。
仔馬のときに出会って以来、折に触れて会いにきた少年。次第に大きく、顔立ちは変わっても、嬉しそうな表情だけは変わらなかったが、
『牧場には牧場の人間、練習場所には練習場所の人間。あと、レースのときはレースの人間。人間はそれぞれ役割が決まっているんだね』
『でも同じ人間だよ? だったらシホだって練習もレースも一緒にいられるよ?』
『んー。でもねえ。おじさんはこうも思うんだよねえ』
『なに?』
『ちゃんシホは頑張ってるよね。でもまだまだ、トーシロな部分もあるよねぇ』
『そんなことないよ! シホはすごいんだよ!? おじさんひどい!』
『嫌われちゃったかぁ、たはは……』
セブンスワンダーはあくまでも、バカにはしていないと強調してからひとりごとのようにつぶやいた。
『話が通じるからいろいろやってくれるけど、世話以外はまだまだ足りないネ。特に練習もだし、レースで乗る人間のほうが走りやすいな』
例のかまくら坂路での調教は、セブンスワンダーも行っていた。鞍上は志穂だ。現役調教助手である羽柴仕込みの騎乗で、かつ様々な有力馬に乗ってきたと言っても、プロには敵うはずもない。二歳の現役スタートから六年間、さまざまなプロ調教師やプロ騎手を乗せてきたセブンスワンダーだからこそわかることだ。
『ちゃんシホは、ちゃんハルに勝ってほしい。ここまではわかるかい?』
『それくらいはわかるけど! 走るならシホと走ってテッペンまで行きたい!』
『ちゃんシホも同じさ。だからこそ、ちゃんハルを他の人間に任せたいんだよ』
『なんで!?』
『足りないことをちゃんシホは自覚してるからねえ。腕の確かな人間に預けて、ちゃんハルの夢を叶えてあげること。それがちゃんシホの願いなんだとおじさんは思うな』
『シホの願い……』
ハルは遠く、厩舎に新しい寝藁を運んでいる志穂の姿を見つめる。こちらに気づいて手を振っている姿に、ハルは反射的に立ち上がっていた。それだけハルにとって志穂は大事な家族だし、切っても切れない絆がある。
『……でもボク、シホと一緒にいたい。ボクが大事なら一緒に来てほしい……』
『本当にちゃんシホが好きなんだねえ。おじさん尊さで爆発しちゃうヨ』
『だって、だってだって……!』
地団駄を踏んでワガママを言うハルも、これが叶わないワガママだとはわかっていた。
なぜなら志穂は、馬と喋れるというどこを探しても見つからないような特別な人間だ。志穂と喋りたい者は大勢いるし、困ったことを打ち明けたい者もたくさんいる。
ハルは洞爺温泉牧場で何度も見ていたのだ。仔馬たちや母馬たち、外厩で休んでいる現役馬や引退して再調教を受けている乗馬たちが志穂に親しげに話しかけているところを。かゆいところに手が届く志穂の存在がありがたくて、みんなに感謝されているところを。
『ちゃんシホが一番大切にしてるのはちゃんハルだよ。嫌われたワケじゃないさ』
『うう……』
セブンスワンダーも、自身の過去を振り返りながら思う。
あるときを境に宏樹が会いにくることはなくなったが、それでも今こうして会えた。だから彼は、セブンスワンダーのことを嫌いになった訳ではない。ただ少しの間、離れ離れになっていただけだ。だからこそ今はこうして、再会を果たすことができた。
きっと人間という生き物は自分たちを、自分たちが思う以上に想って、愛してくれている。
『ちゃんハルが寂しいなら、ちゃんシホも寂しいんだよ。それでも、大切なちゃんハルだから他人に任せるんだ』
『…………』
『ちゃんシホは一緒に行けないし、乗れない。だったら、想いを乗せて走ればいいのサ』
想いを乗せて走る。似たようなことをクリュサーオルが言っていたことをハルは思い出す。
『……モタおじさん言ってた。あいつは死んでも、オレ様の背に乗ってる気がするって』
そして似たようなことは、尊敬する先輩馬たちも言っていた。
『レインお兄ちゃんも、ファンの想いを乗せるって言ってた。ネージュお姉ちゃんはそれバカにしてたけど……でも、牧場のために走るって言ってた……』
『なら、ちゃんハルは誰の想いを乗せたい?』
『ボクは……』
遠くで寝藁の交換を終えた志穂が大きく伸びをしている。毎朝毎晩、こまめに面倒を見てくれる志穂は、泣き言ひとつ言わずに働いている。すこやかファームのみならずお隣さん、それ以外のハルにはわからない仕事にも引っ張りだこだ。
だけれど、いつも一番に想ってくれている。それはハルにも伝わっている。
『……ボク、行ってくる』
『滑りやすいから気をつけてな〜』
そしてハルは丘を駆け降り、志穂の待つ馬房前へ突進していく。構えた志穂に向けて見事な体当たり、吹き飛ばした志穂の隣に落ち着いて、撫でられるのを待っている。
その様子を眺めながら、セブンスワンダーはくつくつと笑っていた。
『そうそう、甘えられるうちに甘えておくことだよ。青春だねぇ……』
季節は冬真っ盛り。春には程遠い銀世界の中ながらも、セブンスワンダーは春の訪れを少し楽しみにするのだった。
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