第135話 復活の偽ロンシャン
愛馬セブンスワンダーを撫でながら、沼田宏樹は数奇なる運命を振り返っていた。
小学生の頃。誕生日プレゼントとして出会ったのは仔馬だった。
ペットというには高すぎるし、一緒に住めないほど遠すぎる。当初こそ仔馬は、困った祖父のプレゼントだった。
一年に数度は祖父に連れられ、牧場へ足を運んできた。仔馬は会うたびに大きく強く成長していた。さらには宏樹を見つけると、放牧地へ出ていても真っ先に柵の前まで駆けてくるほど懐いてくれた。お目当てのゲームソフトではなくて小学生の宏樹は泣き叫んだが、とうとう名前すらつけるほどになっていた。
馬は賢く、強く、雄大で、そして可愛い。情など移らないはずがない。
宏樹はセブンスワンダーに魅了された。
そしてこの可愛い愛馬の、並いる名馬に比肩するほどの活躍が見たくなった。
だが、そうそう都合よく勝ち星を積み重ねられるほど競馬の世界は甘くない。
無事に一勝、勝ち上がれたのはよかったものの、そこから先の勝ち星は遠かった。必勝祈願のお守りは八つ。九つ目を作ろうとした頃には、宏樹は自身を抑えきれずに人生を棒に振ってしまった。
大好きだった馬すら恨んだ。
「妙な縁だよな、またお前に会えてるなんてさ」
その後の人生は悲惨のひと言だ。両親はひとり暮らしする家の名義だけは貸してくれたが、身銭を切ることはしなかった。期待に背いてしまったのだから仕方がない。以来祖父を含め家族とは疎遠になり、厳しい社会の洗礼を浴びた。
行く先々で嘲笑を浴びながらも、ただただ働いた。忙しい日々に身を置けば、過去を忘れられると思ったからだ。愛馬セブンスワンダーのことはずっと頭にあったが、思い出されるのはあの暴力事件だ。だからこそ記憶に蓋をして、競馬そのものを忘れようとした。
どうせ競馬は斜陽の文化。そのうち滅ぶのだ。
目を背ける必要もないくらい、宏樹からは縁遠いものになっていく。
——しかし、競馬は不死鳥のごとく蘇った。
中央・地方競馬の地道なイメージアップ活動。さらにアプリゲームを呼び水として巻き起こった、第四次競馬ブーム。それを証明するかのように数々の名馬、名レースが生まれた。一度は競馬から離れた者を呼び戻し、次いで興味がなかった者たちを、さらには偏見の目で見ていた者すらもその熱狂に取り込んでいった。
世間に競馬が再び浸透する。
そうなれば、宏樹はもう目を背けることもできなかった。
「……実はさ。俺、去年の有馬当てられたんだよな」
歌舞伎町のキャバクラで女王たちにたかられたときの宏樹の予想は、ピタリと一致していた。
昨年の有馬記念。ディスティンクトがスローで逃げることは想定していた。となれば追い込みには不利だが、スローに合わせて作戦を変えられる器用な追い込み馬が二頭いた。シルヴァグレンツェとクリュサーオルだ。
そんな情報を分析できる程度には、宏樹も競馬に戻っていた。
そうなれば、脳裏をよぎるのはセブンスワンダーのことだった。
「お前があの後も走り続けて、六勝もしてたなんて知らなかったよ」
宏樹が暴力事件を起こして家を出た直後、セブンスワンダーは二勝目を飾った。その後、一年に一勝するペースで勝ち星を積み重ね、とうとうオープンクラスの頂まで登り詰めた。重賞にこそ手は届かないが、準重賞であるリステッドすら勝っている。
「……見捨ててごめんな。セブンスワンダー」
宏樹はセブンスワンダーの体に抱きついた。雄大な馬体は冬場でも暖かい。土埃と獣の匂いを、肺の中いっぱいに吸い込む。
競馬はギャンブルだ。レジェンド騎手、横山典弘は過去にそう寄せた。
しかしてそのシンプルな言葉は、示唆に富んでいる。知れば知るほどその意味合いは沼のように深くなり、いったいどれほど多くの担い手たちがこの文化の維持に、発展に携わってきたかが容易に想像できる。
だからこそ、宏樹は今では思う。
「俺もどんなカタチでもいい。競馬を担っていこうと思う。できると思うか、セブンスワンダー」
セブンスワンダーは何も答えない。ただ静かに耳を立てて、宏樹の決意表明を聞いていた。
馬と話せたらいいのにと宏樹は一瞬思うが、彼は引退レースを控えたアスリートだ。そんな相手に、つまらない人間の決意など聞かせて、気を遣わせるのもくだらない。
「志穂ちゃんとお前にもらった、人生をやり直すチャンス。モノにしてみせるよ。心配しないでくれ」
宏樹は笑って、セブンスワンダーの馬房清掃に戻っていく。汚れたすこやかファームのツナギは、働き者の勲章だ。決意表明をしたためかいつも以上に張り切って、宏樹は馬房を清めていった。
その様子を、物陰からすこやかファームのウマ娘が見守っているとも知らずに。
「……花道、飾らせてやんないとね」
*
あくる日。
志穂を含めたすこやかファーム一同は、またしてもかまくらを作っていた。ただ今度のかまくらは、雪ではない。土を掘り返して大きな穴を掘り、床と側壁を固めて均していく。そこへ隙間なく並べるものが、志穂が切り出しサイズを合わせた無数の薪だ。
「いいじゃないか! オトナの遊びって感じだな!」
「いいから黙って薪を並べる。クソコースを冬場でも走れるようにするよ!」
ネットを調べながら作業する志穂の号令に従って、屈強な従業員たちも楽しそうに作業を続ける。一方の宏樹は、買えば済むモノをわざわざ手作りするケチ——節約家の志穂に呆れ半分驚き半分だ。
「炭を焼く馬産家なんて初めて見たよ……」
「放牧地を邪魔する雪は消しとばす。これ、北国の知恵。覚えておいて」
「お前も今年が初めての北国だろ、ガハハハッ」
父親には笑われたが、志穂は薪を隙間なく並べ続けていた。
かまくら坂路では雪と友達になった志穂だったが、偽ロンシャンを覆う雪は宿敵だ。ハルやスワンのためにもコースを開放したい志穂にとって雪かきは大事な仕事だが、退けても退けても雪は降る。冬場の雪かきはイタチごっこだ。
であれば一番簡単な方法は、融雪剤を巻くこと。北国では当たり前に手に入るそれをひとたび巻けば、雪はたちどころに消えていく優れものだ。
ただ、融雪剤には致命的な欠点がある。
「調べたんだけど、市販の融雪剤って塩分が含まれてんの。そんなモン放牧地に巻いたらダートになる。それにまかり間違ってハルが食べたら塩分過多で高血圧まっしぐらだし」
融雪剤の主成分は塩化物。さらにはナトリウムが含まれているものも多い。草地に塩を巻けばどうなるかは自明だ。それゆえ自然に還っても問題なく、ついでに土壌も回復させる融雪剤が必要になる。
「だから私は考えた。木炭を作って撒けばいい!」
木炭は黒い。すなわち太陽熱を吸収しやすい。細かく砕いて放牧地に撒けば、融雪剤ほどの威力はないにせよ、お日さまが雪を溶かしてくれるのだ。
「どうよ、これぞ北国の知恵。大自然の有効活用!」
「別に作らなくても買えば済むんじゃないか?」
「…………」
志穂は黙ってしまった。せっかく頑張っているところを宏樹に興を削がれたからではない。
「……考えもしなかったわ。確かに買った方がはるかに楽じゃん……」
これもひとえに、身に染み付いたドゥーイットユアセルフ精神のせいだ。それによく考えれば、土壌改良用の木炭なら農業部門でも必要のはずだ。父親に適当言って分けて貰えば話ははるかに早かったのかもしれない。
「まあいいじゃないか! 自分で焼いた炭でバーベキューなんて男のロマンだろ!」
「社長、やっぱりウチもユーチューブやりましょうよ」
「そりゃいいな! よーし、カメラ買ってくる!」
そんな父親の適当な言動に、従業員一同も張り切るばかり。志穂にとっては仕事でも、彼らにとっては退屈な冬休みのアウトドア活動なのである。
「言っとくけど、炭が余らなかったらバーベキューなしだから!」
「おお、我が娘はなんてケチなんだ!」
「「「「「ケチー!」」」」」
「うっせー!」
そんな一同の様子と薪を並べながら、宏樹もまた楽しくて笑っていた。
すこやかファームは常識外れだ。だが常識外れだからこそ、できることがある。
かくして、偽ロンシャンを雪の魔の手から開放する、炭焼き窯に火がくべられた。
偽ロンシャンが再始動したのはここから一週間後、一月末のことである。
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