第134話 心配してこそ一人前

 中山3レース。プリンは辛くも新馬戦を勝ち切り、幸先のいい最高のスタートを飾ることとなった。


「よしっ! 勝った!」

『プリンすごい! おめでとーっ!!!』


 洞爺の応援スタンドでは、志穂もハルも大喜びだ。喜びの舞を踊るハルに合わせて、志穂もその場でくるくると回る。喜びは全身で表現した方が気持ちよいのだ。

 そして当然のようにスマホが鳴り響く。ビデオ通話を始めた途端、映し出されたのは寧々の顔だった。


「初勝利おめでとう! 五所川原さんは生きてる?」

「大の字になって泣いてる。だからもう恥ずかしくて……」


 寧々がカメラの向きを変えると、ゴール前の観客スタンドにスーツ姿の五所川原が両手両足を投げ出して倒れていた。目元こそ腕で覆われていて伺えないが、それこそが確固たる証拠。

 愛馬の勝利で感情をむき出しにして喜べる五所川原に、志穂は吹き出しつつも涙ぐむ。面倒を見ていたからこそ志穂も喜びはひとしおなのだ。

 だが、勝ち馬の馬主には大切な仕事がある。


「五所川原さん、これから口取式だよ。がんばったプリンをちゃんと出迎えてあげて」

「志穂君のおかげだ! 君のおかげで勝てたのだぁ! うおおぉおぉぉん! プリンぢゃあぁん……」


 後始末は寧々に任せて、志穂はビデオ通話を切った。そうしないと、志穂もまた嗚咽を漏らしてしまいそうだったからだ。湿っぽいため息を吐いて、志穂は自分の体を抱くように小さくなる。

 体が震えていた。


「はぁ〜……」


 変人馬主、五所川原。彼が勢いで三千万円をはたいたプリンは、すこやかファームにとって初めてのお客さんだった。

 もちろん、高い馬なら走るとは限らない。落札価格三億円でも未だ賞金ゼロのレインがいれば、庭先取引で六百万円ぽっちなのに二億円以上稼いだスランネージュもいる。

 馬は走ってみなければわからない。それは馬券師もホースマンも口を揃えて言うことだが、だからと言って負けていい訳じゃない。


 半人前の実力、不十分な設備。それがすこやかファームだ。

 プリンの勝利は、取り上げて二歳まで丹精込めて育て上げた超一流牧場と、香元厩舎、そしてプリン本人の努力の賜物だ。そこにほんの少しでも貢献できたことが、志穂には鳥肌が立つほど嬉しかった。


「無事でよかった、勝ってくれた……」

『シホ、だいじょうぶ?』

「ん……」


 先ほど喜びで舞い踊ったところだというのに、今度は全身から力が抜ける。ようやく、プリンを預かってからずっと緊張していたことに気づいた。


 世のホースマンたちは皆、不安に押し潰されそうになりながらも、我が子の勝利を願っている。馬を送り出す牧場も、馬を預かる厩務員も立場は違えどその苦労は変わらない。だからこそ無事是名馬、完走しただけで嬉しいし、勝とうものなら至上の喜びになる。


「だから賞金で胃薬買い込むって言ってたんだ……」


 心配して差し向けられてきたハルの鼻先を撫でていると、いつだったかの羽柴の言葉を。そして大村に教わった言葉が脳裏をよぎる。

 「幸せか?」と問われた志穂は、「不安で心配」だと答えた。それに大村は柔らかく微笑んだのだ。


 ——ならホースマンとしての資質は充分だよ。


 あの時の大村の言葉を、志穂は今になってようやく理解した。腑に落ちたのだ。


「……好きだからこそ不安なんだな」


 愛しているほど不安になる。

 震えと不安は、ホースマンを続ける以上ずっとつきまとうのだ。

 だがそれでも。

 きちんと不安を感じていられるからこそ、志穂はわずかに安心した。


 なぜなら心配は。

 心配こそが、一人前の証なのだ。


 *


 滋賀県、大津市。

 年末の激走を果たしたクリュサーオルは、冬を雪の影響の少ない西日本で過ごしていた。

 ここは、数年前に完成したばかりの関西最大の外厩。主に系列牧場の生産馬を受け入れているが、お高めの預託料さえ払えば非系列牧場の生まれでも最新鋭の設備と、全国各地から集まった優秀な厩務員たちが育成に放牧にと粉骨砕身してくれる。

 それゆえクリュサーオルがここに預けられたのは、馬主である洞爺温泉牧場の——もっと言えば、牧場長・北野義徳の期待の現れだ。


 馬房は快適だ。掃除は行き届き、暖房も適温に保たれている。だが慣れない場所ゆえに、クリュサーオルは馬房の隅に体を擦り付けるように立ち尽くしていた。

 もちろん、厩務員たちもそれに気づかないほど愚かではない。クリュサーオルが快適に過ごせるよう手を変え品を変え試している。春先までの放牧を指示されているので、リラックスさせたいのだ。

 だが、クリュサーオルはただひたすら立ち尽くしていた。父譲りの闘争心からくる警戒心の現れなのだろう。


「洞爺温泉牧場のスタッフはどうやってたんだろうな……」


 もはや匙を投げたとばかりに、厩務員のひとりが同僚に愚痴をこぼす。様々な馬を見てきた彼らでも、ここまで頑固な馬は相手をしたことがなかったのだ。

 それに同調するように、同僚が項垂れる。


「あそこのスタッフと言えば大村先生だぜ?」

「そりゃあ俺たちじゃ無理だ。馬の気持ちがわかる人間がいるとすりゃ、あの人くらいだろう」

「話聞いてみたいなあ、大村さん。そういや、女子中学生の弟子がいるんだっけか」

「読んだよ。志穂ちゃんだろ? セレクトセールのときに名刺貰ったし、ちょっと電話してみるか」


 そうして、厩務員ふたりは電話をかける。相手はすこやかファームのウマ娘、加賀屋志穂だ。

 数コールのうちに繋がったが、返答はひと言。「いま国語の授業中だから掛け直す」というもの。


「ホントに中学生なのか……」

「いろいろと規格外すぎる……」


 あまりに常識外れ過ぎて笑うしかない厩務員ふたり。その後、授業が終わったのか、志穂から折り返しの連絡があった。

 厩務員が伝えたのは「クリュサーオルがリラックスしてくれない」というもの。すると電話口の志穂は告げる。


「いろいろやってもらってるだろうから効くかわかんないけど、用意してほしいものがあるの」


 志穂が用立ててほしいと言った内容に、厩務員は疑問符を浮かべていた。ただ言われた通り、クリュサーオルの馬房の前にセットする。

 それはスマホ用のスピーカー。それに接続したスマホで、流してほしい音楽があるという。


「ショパンの……なんだ? この曲名……」

「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ。ちゃんと斉藤萌子演奏版にしてる?」

「ああ、たぶんこれだが……」


 スピーカーが、ピアノの音を奏で始めた。

 《アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ》。

 ピアノ協奏曲で、二部構成。第一部はなだらかな田園風景を思わせる優しい牧歌的な響き。だが第二部はオーケストラ編成で煌びやかな大ポロネーズに変化する。

 そんなクラシック楽曲を耳にした途端、あれだけ微動だにしなかったクリュサーオルは、部屋の隅からのそりを動き出した。


「おおっ……!」

「役に立てたようならよかったよ」


 そう言って、志穂は電話を切った。

 クリュサーオルはようやく安堵したのか、馬房の真ん中にとうとう背中をつけて落ち着く様子を見せていた。


「すげえなあ、さすが大村先生の弟子だ……」

「でもなんでピアノなんだ? 斉藤萌子って誰?」

「まあ……クリュサーオルの大事な人なのかもなあ……」

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