第133話 諦めずにがんばった
クイーンズギャンビットの2022。それが悪魔の名をつけられた、グラシャラボラスの幼名だった。
彼の母は折に触れて、まだ幼かったグラシャラボラスに伝えていた。
それは母親の一番仔のこと。まったく同じ血統構成で、《ドゥラメンテ》を父に持つ彼の
『あなたのお兄様は素晴らしい素質を持っているのですよ』
母クイーンズギャンビットは、何度も彼に全兄の才能を伝えていた。二歳の時点で頭角を現していたディスティンクトに厩務員たちは沸き立つ。人間の言葉を理解できなくとも、厩務員のはしゃぎようと嬉しそうな笑顔で、送り出した息子の勝利はわかるのだ。
だからこそ母は、まだ幼いグラシャラボラスに伝える。
『あなたはお兄様と同じ血が流れている。だからあなたも優秀なのです、心配はいりません』
そう教えられてきたグラシャラボラスは、ただただ嬉しく、誇らしかった。
優秀な兄と同じ血が流れている。大好きな母や厩務員たちが、期待をかけてくれている。だからこそ自然と、彼の走る目的は決まっていた。
『俺もいつか、母様が自慢できるような走りをします!』
『期待していますよ』
そして親元を離れ、一歳。全兄ディスティンクトが皐月賞を勝った頃には、グラシャラボラスは同期の群れの中でも比肩する者のない存在となっていた。この頃からは彼自身でも、厩務員たちが寄せてくる期待を日に日に感じ取ることになる。
グラシャラボラスは奮起した。偉大な兄に並ぶ馬になろうと放牧地を走り回った。
『俺は兄のような偉大な馬になる!』
偉大な者となるために、彼は同期たちを従えていた。放牧地の西で泣いている者がいれば慰めて、東にケンカがあれば仲裁した。噛みついてくる者がいれば諌め、イジメられている者がいれば鼻先を差し向ける。
一身に同期たちの尊敬を集めていた当時の彼はまさに、馬たちの上に立つに値する者だったのだ。
だが、そんな彼に悲劇が起こる。
彼がプリンと出会う前、二歳の頃だ。
『そんな……。うまく、走れない……!?』
彼を襲ったのは、
平たく言えば、馬の歩き方——歩様が乱れる症状のこと。人間に喩えれば、左右の歩行バランスが崩れることである。原因は筋肉痛からなる足の引き摺り、痛む関節炎を庇おうと他の脚に重心をかけてしまう。あるいは、脚以外の内臓疾患など。
二足歩行の人間ですら跛行すれば歩きにくいのだから、四本脚の馬ともなるとその症状は甚大だ。特に仔馬の頃の発症となると、これから成長していく馬体に甚大な悪影響を及ぼすことになる。
ゆえに、グラシャラボラスは集団放牧から引き離されてしまうこととなった。これまでとは異なる、風雲急を告げる異常事態。
彼が一気に、不安とパニック状態に突き落とされたのは語るまでもない
『どうして走れないんだ! どうして!?』
牧場厩務員も獣医師も、原因究明と治療に当たった。一時は原因不明とさえ言われながらも、懸命な治療と馬体の成長の甲斐もあって、グラシャラボラスはどうにか無事に跛行を乗り越える。
これでようやく、以前のように走れる。偉大な者として皆を率いる地位に戻れる。
乱れた歩様が元に戻り、落ち着きを取り戻したグラシャラボラスだったものの、彼はすべてを取り戻すことはできなかった。
地位が、偉大であろうとするプライドが揺らいでいた。
『居ない……。アイツらが居なくなっている……』
出遅れてしまったのだ。数ヶ月に及ぶ跛行の治療を続けているうちに、同期の大半が牧場を巣立っていた。残っている者も、もはやグラシャラボラスに尊敬と畏怖が混じった目を向けることはない。なぜなら彼らは数ヶ月のうちに成長していたからである。満足に運動ができず、大事な育成期間を棒に振ってしまったグラシャラボラスを無視して。
『偉大な馬になると母様に、約束したのに……』
彼は失意に暮れた。同期たちは一度失脚したボスには厳しかった。あれだけ期待の目を向けていた人間たちもひとりふたりと減っていき、いよいよ面倒を見てくれる者は、たったひとりになってしまった。
悔しさと惨めさを紛らわせようと、放牧地の柵を何度となく噛み締める。
これなら初めから期待などされないほうがまだマシだ。一度尊敬を味わったからこそ、失った時の落差が大きい。それは大きな心の傷となって、グラシャラボラスの高潔な精神にヒビを入れていく。
いかに優秀な血が流れていようと、偉大な兄がいようと、馬にも人間にも期待すらされない。
そんな時だった。月毛の臆病な二歳牝馬、プリンと出会ったのは。
『あの仔、イジメられてたらしいよ。まあ変な色だもん、しょうがないよね』
同期の噂話を耳にしながら、彼はプリンを見ていた。いや、見守っていた。
イジメなどあってはならないと、彼女を庇うような者でなければならないと決意していたのだ。
だが——
『あの変な色の仔、また人間に泣きついてる〜』
『人間がえこ贔屓してるよね〜。あの仔の周りだけ人ばっかりだし〜』
——グラシャラボラスにはそれが許せなかった。
『なんであんなのが……人間に期待されているんだ……』
プリンのそばには大勢の人間がひっきりなしに現れた。かつてのグラシャラボラスも味わった期待や祝福、やさしい愛撫を一身に独り占めにしていた。
もちろん、厩務員たちがプリンにつきっきりなのは、彼女がイジメられてしまうからだ。プリンが特別期待されている訳じゃない。そしてグラシャラボラスの元から人々が離れたのは、跛行の治療が完了し、心配がなくなったからだ。
だが、グラシャラボラス自身がそんな真相を知るよしもない。
『そこは俺の居場所だ……。あんな弱虫の場所じゃない……!』
愛されているのは、期待されているのはプリンだ。自分じゃない。
『やめとけばあ? 月毛の子と仲良くしとけば、人間の奴隷がたくさん手に入るのにぃ?』
『お前には関係ない、どけ!』
『つまんないプライドでムキになっちゃってウケる〜! キャハハハ!』
偉大な兄のようになり、母の自慢の息子となること。
そんな高潔な精神は、数々の不幸の積み重ねとすれ違いのせいで瓦解する。
黒鹿毛の同期牝馬にプライドを笑われようと、彼には他に道がなかった。
グラシャラボラスはとうとう、その名の通りの悪魔となったのだ。
*
中山競馬場、ゴールまであと二百メートル。
プリンは息を整え、最後の力を振り絞っていた。後続との差は三馬身。もはや上位入着は確実だ。
一着となるか、二着となるか。
その勝敗を握るのは坂を登るプリンの脚と、隣をひた走るグラシャラボラスの脚だった。
『お前、なんで諦めないんだッ!?』
必死に走りながらも、プリンは横目にグラシャラボラスの姿を捉えた。牧場時代に何度となく噛みついてきたイジメっ仔の一頭。もちろんプリンをいじめてきた者は大勢いるが、彼だけは怒りの方向が奇妙だったからプリンもよく覚えている。
グラシャラボラスは他の馬たちのように、ただうさ晴らしがしたかったようには思えなかった。
『わたしを応援してくれる人間がいる……! だから、諦めないっ!』
『ふざけんなァッ! お前さえいなければ、俺はぁッ……!』
『きみだって昔は、たくさんの人に応援されてた。黒い毛の女の子から聞いたよ……!』
『それを奪い取ったのがお前だろうがァッ!!!』
グラシャラボラスは怒りを全身に込めて踏み込む。
『愛されてるのはいつもお前だ! 俺だって昔のように期待されたかった! 兄のように偉大な者となりたかった!!! だが俺にはもう、どうしようもないんだッ!!!』
プリンはようやく、彼が自分の何に怒っていたのか理解した。
ひと言で片付けるなら、このすれ違いはただの逆恨みだ。だけれど幼少期のグラシャラボラスが、イジメなどしない高潔な精神の持ち主であることはプリンも馬伝手に聞いている。
だからこそ、プリンはつぶやく。
『かわいそうだね……』
『な、に……!?』
『見放されちゃうツラさ、わたしにはわかるよ』
プリンは横目の視線を前方へ戻す。そのとき視界に、何度か見たうるさい人間の姿を見据えた。必死で叫んでいるのか顔面はひどい表情になっているが、その顔を見間違うことはない。
志穂によれば彼は、苦労する過去でも諦めずに戦い抜いた人。そしてこれからも誰かのために戦い続ける人。
そして、まだ弱いプリン自身が、そうありたいと憧れる人だ。
『だけど、諦めちゃダメ。あの人が諦めないなら、わたしも諦めないッ……!』
『お前ッ……ぐうッ……!!!』
プリンは全身を伸ばす。疲れて上下に振ってしまっている首を必死に前へ前へと伸ばして、声援がもっとも分厚いゴールへと飛び込んだ。
「ゴールイン! 勝ったのは2番プリンチャン! ハナ差で13番グラシャラボラスが二着! 三馬身あいて三着馬は接戦、5番8番のどちらかというところ。着順が確定するまでお手持ちの投票券は——」
騎手に首を撫でられると、歓声は波のように引いていった。何が起こったのか理解できなかったプリンだが、ざわめきをつんざくように聞こえてきた大声で、期待に応えられたことは理解できた。
「ありがとう!!! ありがとう!!! プリンちゃあああぁあああぁああ!!!」
志穂の言葉のようにすべてを理解することはできないけれど、自身の名前を呼ばれていること、そしてそれに込められた感情は馬であるプリンにも伝わる。
『……よかった。喜んでくれた……』
惰性での走りを終えて、今度は引き返そうと歩き出す。するとプリンの視界の死角にいたグラシャラボラスが目に留まって、プリンは思わずのけぞった。そのままいなないて、騎手を振り落とさんばかりに暴れてしまったが。
『あ、あれ……?』
必死にしがみついてきた騎手は無事。そしてプリンが襲われることもなかった。
『……今日はお前の勝ちだ』
『え、う……うん……』
『覚えておく。諦めちゃダメだってな』
ひと言そう言い残し、グラシャラボラスは去って行く。
とりあえず、プリンはようやく安堵できた。ふらつく足取りで引かれていくと、泣きはらしてめちゃくちゃになったあの人が両手を広げて待っていたのだった。
『わたし、諦めないでがんばったよ……!』
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