第130話 明けて勝負の新年へ
「えー、従業員一同! 皆の努力あって去年のすこやかファームは飛躍の年となりました。そして今年、農業部門も馬産部門も勝負の年! 気合入れていこう! あけましておめでとう!」
「おめでとう」の歓声が口々に響き渡ると同時に、ビールの栓がそこかしこで抜かれた。その後、父親の乾杯の音頭で、おせち料理とお雑煮を囲んだ新年会が賑々しく始まった。
明けて二千二十五年。令和七年。
事務所兼リビングで新年早々ドンチャン騒ぎをするのは、父親と従業員五名。それに年末に越してきた新人、沼田宏樹だ。
突然すこやかファームに飛び込んだ宏樹を心配していた志穂だったが、どうやらその心配は杞憂らしい。屈強な従業員たち相手にビールを注ぎながらうまく立ち回りつつも、話の花を咲かせている。
「さすが元水商売だわ……」
志穂は宏樹の立ち回りにただただ感心していた。会話の切れ目を作らないようにしつつ他人の話を引き出して、全員と距離を詰めている。懐に入り込む技術、コミュニケーション能力の高さを感じずにはいられない。
思い出せば、祖父の財前も夜の街から一代で財を築いた人物だ。血は争えないのだろう。
「私も水商売でバイトでもするべきか……」
ホースマンとしての志穂はまだ技術不足だが、それ以上にコミュニケーション能力はからっきしだ。馬とは大いに喋れても、学校では小野寺くらいとしか喋らない。それ以外はすこやかファームの面々や競馬サークルの人間ばかり、つまりはオトナたちである。
オトナの転がし方を知っておいた方が馬産には有利。なんせ馬を買ったり預けたりするのはオトナたちなのだ。
そんなことを考えていると、会話の輪から離れた宏樹がジュースを片手にやってくる。
「ずいぶん賑やかなんだな、志穂ちゃんの実家は」
「アンタもまあ馴染んでる方だと思うけどね」
「そうかな」と宏樹は寝起きの髪のままくすぐったそうに笑った。初めてやってきたときはワックスで遊ばせていた髪も、今はボサボサ。身なりを整えたところで意味がないことを悟ったのだろう。
盛り上がる宴会場を尻目に、志穂が年始の挨拶を馬事研チャットに打ち込んでいると、宏樹がおもむろに口を開いた。
「じいちゃんから連絡があったんだ。面倒見てやれってさ」
「よかったじゃん」
「だから教えてくれるか志穂ちゃん……いや、牧場長。引退レースに向けてメイチで仕上げてやりたいんだ」
宏樹の声色に嘘はない。父親が告げた条件の通り、やる気に満ちている。
ただ新年早々のそんなやる気は、志穂には少し煩わしいこともあって。
「新年なんだしちょっとは休んだら? 昨日まで買い出しとか忙しかったんだし」
「おれは大丈夫だ。やらせてくれ」
理由をつけて断ろうとしても、宏樹は譲らない。少年のようにらんらんと輝く瞳が眩しかった。
「ホントにスワンのこと好きだったんだねえ……」
「名義上はじいちゃんの馬でも、名付け親だからさ」
「しゃーない。やるかあ!」
そもそも彼を焚き付けたのは志穂だ。であれば無碍にすることもできない。志穂は大きく伸びをして、宏樹を引き連れて雪深い放牧地へと出たのだった。
元旦を迎えると同時に、馬はひとつ齢をとる。
「クリス、ハル。あけおめ〜」
当然、馬には新年の概念なんてないので適当に説明しつつ、馬体の状態を確認する。大事なのは春に出産を控えた二十歳のクリスだ。予定日は種付けから十一ヶ月後、四月末。そろそろ安定期も終わるので、クリス以上に志穂も神経質になっている。
『最近よくお腹が動いてるのぉ〜。ずいぶん元気な仔みたいねぇ〜』
「あんましんどいようならお医者さん呼ぶけど平気?」
『お産のときはいつもこんな感じだからぁ〜』
「母は強しだね」
クリスの言葉は信用しつつも、志穂も入念に馬体に異常がないか確認する。毛並みのみならず、感染症が出やすい瞳や唇など粘膜が露出した部分、蹄が割れていないかなど。獣医ほど詳しいワケではないにせよ、つぶさな健康診断は何より大事だ。
それはもちろん、隣の馬房に入ったハルも同じ。
「ハルはどう?」
『……へいき』
ハルはまだ入厩をスネていたが、少しは口を聞いてくれるようになっていた。
そんなハルも、とうとう暦の上では三歳馬。三歳デビューからのG1を狙うジャッカりの誓いのためにも、志穂も気持ちを新たにする。
『今日もあのトンネル走る……?』
「走るよ、三本。ついでにコースの雪かきもしようと思ってる」
『いつもの丘走ってもいいの!?』
「いや今日は無理だけどさ」
『走りたい! はやく雪かきして!』
数日ぶりに味わう、ぐいぐい突いてくるハルの鼻先が懐かしい。それよりも、どんなにニンジンで釣っても靡かなかったハルが、偽ロンシャンを復活させると言った途端甘えてくるのがおかしかった。
新年一発目からの重労働は決まったが、もう一頭、確認しなければならない馬がいる。
コースの雪かきはハルのためだけでもない。引退レースを控えたセブンスワンダーにとっても大事なことだ。
「元気そうだな、セブンスワンダー! ちゃんとエサも食べたんだな……!」
一番の馬房。馬柵から首を出したセブンスワンダーに、宏樹が熱心に話しかけていた。当然話は通じていないようだったが、やはりなついているのだろう。セブンスワンダーは宏樹の手を受け入れている。
「スワンもあけおめ。調子よさそうだね」
『嬢ちゃんもボウヤもね。いやー、ここは暖かくて快適だヨ! おじさん体が火照っちゃって元気ビンビン! って違うか!』
「ハルやクリスに手出したら殺すよ?」
「お、おい。馬を脅すなよ……!?」
明けて八歳馬の股間には見ないふりを決め込んで、馬柵を潜って馬房の中に入った。そして健康診断ついでに、宏樹に諸々教えていく。
「今朝は私がやったけど、明日からは宏樹くんにもやってもらうから覚えて」
「寝藁の交換と飼い葉だろ?」
宏樹はやはり馬主の孫、厩務作業についてもある程度知識はあるようだった。
ホースマンの朝は早い。午前四時に起き出して寝藁の交換と、糞便での健康状態の確認。朝の餌やりをしつつ馬体の確認をして、今度は歩様に異常がないか確認する。
ホースマンの仕事はとにかく確認第一。自分で異常を訴えることのできない馬の観察に始まって、観察に終わると言っても過言ではない。
「とにかく確認が一番大事。異常なくらい神経質になって観察すること」
「なるほど。勉強になるよ」
「ま、普通のホースマンはね」
もちろん、イカれた会話能力がある志穂でも目視での確認は欠かせない。
なんせ馬はわりとウソをつくのだ。たとえばどこぞの芦毛馬のように。
宏樹とともにセブンスワンダーの馬体を確認して異常がないことを確認すると、とりあえずすこやかファームでの朝の仕事は完了。
ひと休みしている宏樹を置いて、志穂はハルに馬具を取り付けていく。
「お、次は乗り調教?」
「その前に、洞爺温泉牧場のバイト。いつもハルに乗って行ってるから」
「いや、馬で車道に!? 危ないだろ」
「車なんてほぼ通らないからね。行くよ、ハル」
宣言通りに歩いて行った志穂を見送った宏樹は、あまりの常識はずれぶりにため息をつく。
「あれが普通のホースマンなのか……」
そして盛大に誤解したまま、楽しげに首を振るセブンスワンダーをぼんやり見つめていたのだった。
*
「おー、志穂ちゃん。あけましておめでとう。お年玉をあげよう」
「わーいじいちゃんありがとうー」
志穂が元旦から洞爺温泉牧場に訪れるのは、なにもバイトのためだけじゃない。子どもの特権であるお年玉を徴収するためだ。
大村や牧場スタッフに愛想よく丁寧に挨拶をしてカネを巻き上げる。もちろん一度は断る姿勢を忘れてはいけない。「日頃お世話になってるのにお年玉までもらえない!」と気遣いのできる子どもをアピールしておくと、オトナたちは余計に優しく接してくれるのだ。
「志穂、お年玉だよ」
「そんな! 翠さんにはお世話になってるし、借金まであるのに!」
「そうかい? じゃあお年玉は借金の返済に当てとくよ。レインの預託料と合わせて残り三百九十九万円だね」
「うぐ……!」
とはいえ、そんな小細工が通じない者もいる。
志穂の考えなどお見通しとばかりに翠は笑っていた。オトナをうまく転がすには、見極めが大事らしい。
「あっはは! アンタはとにかくわざとらしいからねえ! ガキならガキらしくおべっか使わず貰っときゃいいんだよ」
「じゃあお年玉ちょうだい!」
「素直でよろしい」
ぽさっと、翠が持ったポチ袋が志穂の頭に降ってきた。
北野家からは一万円。牧場を巡って挨拶し続け、どうにか十万円が集まった。
「ふふふ、儲かった儲かった」
『シホさんがまた悪い顔してます……』
外厩に預けたレインの馬体を確認した後、ポチ袋の中身を計算して志穂はほくそ笑んでいた。
ただし、せっかくもらった十万円の使い道はすでに決まっている。今年からは馬産のみならず、馬主としても何かと入り用なことが多いのだ。
財布を出て行くカネを皮算用していると、レインがおずおずと語り出した。
『あの、シホさん。ぼくの脚はどうですか……?』
レインの前足は、もう確認するまでもない。なんせ獣医師坂本のお墨付きはもうもらっているのだ。
「それはね……」
『ごくり……』
「……完治とはいかないけど、問題ないってさ。リハビリ頑張ったね!」
レインはびくりと飛び退いていた。
『じゃ、じゃあ……! ぼくはまた走れるんですか!?』
「そ。馬主すこやかファーム第一号はアフターザレイン! がんばって走りなよ?」
『やっ……やったーっ!!!』
痩せ衰えていた馬体も今では生命力あふれる四歳馬だ。以前教えた通りの前足を浮かせるポーズで喜びを表現して、志穂に体を寄せてくる。押し潰されそうになりながらも、志穂は雄大に育った馬体を撫でていた。
レインの滑らかな毛並み、温かな体温。今の彼があるのは、理解のない馬主や病気と戦ってきたからだろう。
その苦労を思うと志穂の目頭は熱くなるが、まだ涙を流すには速い。
「次に喜ぶのは勝ったときだよ」
『はいっ!』
こうして、志穂の新年は幕を開ける。
令和七年、すこやかファームにとって勝負の年。緒戦は年明け早々始まった。
中山競馬場、芝千六百メートル外回り。
五所川原の預託馬プリンチャン、その新馬戦だ。
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