第131話 幸運の女神が微笑む

「し、志穂君! 志穂君!!! とうとうプリンちゃんがデビューするのだぞ!!! 志穂君!!!」

「だからうるさいって! こっちでも見てるから!」


 一月二週。祝日と合わせて三連休開催になる初日の土曜日、中山競馬場。

 第3レース、三歳新馬戦はフルゲート十六頭立ての大所帯で発走することになっていた。


 現地の馬主席ではなく、観客スタンドにいる五所川原とビデオ通話で話しながら、志穂はタブレットで映像を見る。他場開催のレースが終わって、いよいよ第3レースの新馬たちが本馬場へと歩みを進めていた。


「ハル見て。プリンが走るよ」

『そうなの……?』


 温かなサンシャインパドックに置いたキャンプデスクの上のタブレットをハルとともに志穂が見つめる。そこへ宏樹とセブンスワンダーも近づいてきて、洞爺の観客スタンドはぎゅうぎゅう詰めの満員御礼だ。


「狭い! スワンちょっと間空けて!」

『おじさんノケモノにするとかドイヒー。とほほ〜』

「かわいそうなこと言うなよ!?」


 宏樹の抗議をよそに、志穂もハルもタブレットの中継映像を見つめる。

 ただそれより現地からのビデオ通話の方が早く、ゴール前最前列の柵にへばりつく五所川原の大歓声がスマホから聞こえてきた。


「見たまえ志穂君、プリンちゃんだ! とうとう……とうとうプリンちゃんが走っている! なんと、他馬がいるのに怯える様子もない!!! か、可憐だ……! 陽光を受けて月毛がキラキラと輝いている!!! これはもう白昼の空に浮かぶ儚き月のごとし! 美しいぞ強いぞプリンちゃん!!! プリンちゃああぁあぁあぁあん!!!」

「だからうっさい!!! 寧々さんそいつ黙らせて!!!」

「無理かな〜」


 中山競馬場は千葉県の船橋市。都心からもほど近いため、五所川原の幼馴染、競馬好きの晴海寧々も義足で観戦を楽しんでいるようだった。

 レース前から目元を真っ赤に腫らしている五所川原のはしゃぎぶりには呆れるほかないが、裏を返せばそれだけプリンを愛している馬主ということ。

 五所川原はきっと幸せだ。その幸せがプリンにも伝わればいい。

 だからこそ、志穂は電話口に向けて叫ぶ。


「黙れないなら私のぶんも応援して、五所川原さんの声なら届くから!」

「ハハハッ! もちろん心得た!!! プリンぢゃあああぁああぁぁあぁ——ゲッホ、ゴホ!!!」


 盛大にむせ込む五所川原から遅れること数十秒、タブレットにも本馬場入りするプリンの月毛の馬体が映し出されていた。


「プリンだ! 五所川原さんと寧々さんの後頭部も映ってるのウケる!」

「さっきの馬主さんの声、微妙に拾ってるな……」


 宏樹の指摘通り、五所川原の叫びが小さく放送に乗っていた。あまり大音量だと馬を怯えさせそうなものなのでボリュームを落とした方がよい気もするが、もう今さらだ。

 そして半信半疑だったハルも、月毛の姿に声を上げた。


『わっ! プリンだ! ねえシホ、これプリンだよね!?』

「だからそう言ってんじゃん。これからプリンが走るんだよ!」

『レース……』


 ハルはやはり、黙り込んでしまう。

 ハルがレースに前向きな気持ちは、かまくら坂路の追い切りからも変わらない。姉と走りたいという大きな夢は捨てるどころかどんどん大きくなっている。だが、入厩しないとレースには出られない。

 姉と走るか、親元を去るか。二者択一を迫られているハルの想いは、志穂にもわかっている。


「今はとにかく応援しよ。プリンも勝ち上がってファルサリアに会いに行きたいみたいだし」

『……うん。ボクプリンの夢、応援する! プリンがんばれーっ!』


 ハルはいななき、地団駄を踏む。近くにいた宏樹は危ないから距離を取りつつも、志穂とハル、ふたりの間にある見えない絆に想いを馳せていた。


「おれらも応援しよう、セブンスワンダー」


 宏樹もまた、セブンスワンダーの馬体を撫でながらタブレットを見つめる。

 全員が見つめる小さな画面に映し出された月毛の三歳牝馬は、直後に切り替わる。次々と現れる新馬たちは初々しい返し馬を行いながら、正面スタンド左奥の芝千六百メートルスタート地点へ向かっていた。

 その後、五所川原から通話が聞こえてきた。


「志穂君。調教師の香元先生から聞いたのだ、プリンちゃんは相当運がいいそうだな!?」

「新馬戦の抽選の話でしょ? 私もハッシーから聞いたよ」


 新馬戦。それは未出走の馬のみに出走の機会が与えられる限定競争。

 もちろん未勝利戦などの他レースでデビューを飾ることもできるが、相手は最低でも一度はレースに出走した者たち、いわば慣れた者たちとの戦いだ。

 一方、新馬戦は全頭がレース未経験。初心者の馬たちにとって条件はイーブン。となれば数多くの陣営がここでのデビューを目指すのは自明だろう。

 そうなるとどうなるか。

 レースの出走枠をかけた、無情なる抽選が行われるのである。


「今日の新馬戦、六十四頭が登録してて、四十八頭が除外なんだって。倍率四倍だよ」

「幸運の女神すら魅了してしまうか! さすがはプリンちゃんだ!」


 五所川原の言う通り、プリンはかなりの幸運に恵まれていた。

 全頭イーブンな条件で争える新馬戦は、二月には終わってしまう。しかも一月の新馬戦シーズンはギリギリでクラシックの緒戦、皐月賞や桜花賞に間に合うタイミング。ゆえに登録が殺到し、抽選漏れで除外されると出走はまた次の機会。実はプリンも一度除外を食らっているが、除外されると次走での優先出走権が与えられるのだ。

 羽柴がしめしめと語っていたことを思い出す。


 ——除外狙いでダートの新馬戦に登録したのがうまくいきましたね。優先出走権ゲットです!


「うまくいかなかったらどうするつもりだったんだろ……」


 狙ったレースに出すための厩舎の奇策にはハラハラするばかりだ。頭のネジが飛んでいるふわふわの羽柴だからこそできるギャンブルなのかもしれない。

 そんな厩舎側の思惑を五所川原に説明していると、一般レースのファンファーレが聞こえてきた。G1とは違って短くシンプルなものだが、聞こえてくると思わず志穂の背筋が伸びる。


「いよいよだね、五所川原さんの馬主デビュー」

「ああ……。ここまできただけで感無量だ、もはや死んでもいい……」

「生きなきゃ夢叶えらんないよ?」


 苦笑する志穂も、五所川原の気持ちはわかる。

 彼とプリンの過ごした時間は遥かに短い。それでも彼はプリンのエピソードを聞き、財前との激闘の末に競り落とした。すこやかファームでの繋養時も、毎日のようにプリンの写真やエピソードをせがんできた。

 五所川原は、愛馬プリンに夢を見たのだ。

 「みんなの希望になる」なんていう大層な夢を掲げて、それをプリンと二人三脚で背負っていこうとしているのだ。


「そうだな、プリンちゃんには勝ってほしい。いや、無事に完走するだけでいい。それだけでも希望の灯をともすことはできるのだ。私が願うのは、ただそれだけだ……」

無事是名馬ぶじこれめいばだよ。覚えといて」

「ああ、ぶじこれ……うああぁあぁ……!!!」

「ごめん、志穂ちゃん。慎二くんの顔面見苦しいし、もうまともに喋れる感じじゃないから切るね?」


 スマホの画面いっぱいに映っていた涙と鼻水でドロドロの五所川原の顔は、寧々の気遣いで途絶えた。その瞬間、今度はタブレットからもファンファーレが聞こえてくる。電話と放送にはタイムラグがある。五所川原の反応を見るのも楽しかったが、せっかくのデビュー戦。どうせ見るなら集中したい。

 そうして、タブレットから実況が聞こえてきた。


「中山第3レース、三歳新馬戦。芝千六百メートル外回り、フルゲート十六頭で争われます」


 実況に耳をそばだてていると、宏樹の注釈が聞こえてくる。

 いわく、中山競馬場はトリッキー。高低差は中央競馬の全十場で最大、ビル二階分に相当する五メートル近い急勾配が配されている。

 ただし、今回の外回りのマイルコースは、いびつなおにぎりのような三角形のレイアウト。ほぼ全経路に渡って下り坂で、上り坂はゴール二百メートル前の急坂のみ。


「先行策が有利ってことね?」

「さすが牧場長、詳しいな」

「まあ私もホースマン二年目だし?」


 宏樹相手にふふんと鼻を鳴らしたところで、大外16番がゲート入りを完了。

 そしていよいよ、プリンのデビュー戦が始まった。


「プリン、行けーッ!」


 三歳新馬十六頭、まばらにゲートを飛び出した。

 真っ先に先頭に立ったのは、月毛の悪魔。プリンチャンだ。

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