第129話 人生取り戻せばいい

 宏樹はやはりあんぐり口を開けていたが、すぐにことの重大性に気づいて叫ぶ。


「いやいや無茶だろ!? おれは素人——」

「私も最初はそうだったけど、なんとかなってるし大丈夫」

「そんな簡単に育てられる訳が——」

「重賞馬の担当もしたよ。ひとりは秋華賞、もうひとりはジャパンカップと有馬で三着」

「んなバカなことあるか!?」


 石崎やその配信コメントから、常識的に考えれば信じられないことだとは志穂もわかっていた。実際のところ、志穂も何故うまくいっているのか理解できないのだからなおさらである。

 それでも証拠とばかりに二頭の調教資料を見せてやると、宏樹は立ちくらみを起こして雪の中に倒れ込んでいた。


『嬢ちゃん。ボウヤが倒れちゃったぞ? 生きてんの?』

「ま、普通は腰抜かすよね」


 セブンスワンダーに鼻先で突かれる宏樹の口元はわなわなと震えていた。


「あり得ない……」

「でも実際起きたことだから、そこは呑んでもろて」


 志穂は宏樹に手を差し伸べる。


「バカにしてきたヤツらブン殴るくらい馬のこと好きなんでしょ? だったらアンタもホースマンやれるよ。私でもやれてるんだから」

「……おれは競馬に人生を無茶苦茶にされたんだ」

「なら競馬で人生取り戻せばいいじゃん。スワンもなついてるし。でしょ?」

『いやー、懐かしいね! こりゃあおじさん年甲斐もなくハッスルしちゃうヨ!』


 宏樹は俯く。そして顔を伏せたまま、近寄ってくるセブンスワンダーの鼻息を浴びていた。獣特有の臭気は宏樹にも懐かしいものだろう。


「やるかやらないか、二択だよ。やるなら私の手を取って」


 志穂が伸べた手を、宏樹が握り返すことはなかった。

 ただ小さな声だけが聞こえてくる。


「……世話はしてやりたいけど、おれにはカネもないし家もない」

「それは——」

「話は聞かせてもらった!」


 途端、父親がズカズカと放牧地に乗り込んできた。背後には暇しているすこやかファームの従業員たちが五名。男三人、女二人。いずれも筋骨隆々。馬のことはさっぱりだが、農業には腕に覚えのある働き盛りの精強な若者たちばかりだ。


「宏樹くん、ウチで働く気はないか!?」

「あんたは……?」

「私の親父でここの社長。ついでに言うと馬主」


 途端、従業員たちが宏樹を取り囲む。そしてすぐさま倒れ込んだ宏樹を抱え起こしていた。この屈強な農家五人集に敵う者はそうそういないだろう。

 一様に笑顔を見せる従業員に取り囲まれた宏樹はあからさまに怯えていた。筋肉モリモリマッチョマンとマッチョウーマンに取り囲まれているのだから無理もない。


「学歴は不問、前科があろうと関係ない。人は変われる。やる気のある者なら歓迎だ。なんせ人間こそが財産だからな」


 親父ことすこやかファーム社長、加賀屋浩二によれば日給は八千円。

 従業員宿舎に住み込めば家賃も水道光熱費もタダ。ネットも無料で使える。さらに三食ついているし、農閑期はいくらでも副業可能。仮に農繁期であっても九時五時のように決まった時間働く訳ではない。農家は自然界には追われるが、人間を縛る時間には追われないのだ。


「東京よりは安いかもしれないが、ほぼタダで生活できる。どうだ?」

「おれは……」


 宏樹がちらりと志穂に視線をやる。好意に甘えていいものかと判断を仰いでいるのだろう。

 志穂自身、宏樹への給料は財前からもらったお金で賄おうと思っていた。働く以上は給料があって然るべきだ。だが父親が雇って会社の財布から出すというなら、志穂にも願ったり叶ったり。


「いいんじゃね? 馬以外にも引っ張り出されるだろうけど」

「その通り! 農業と馬産の二毛作だ! 相当キツいぞ! ガハハハハッ!」


 実際、来年度からはビニールハウスでの栽培試験もある。働き手が足りないのは事実だ。志穂としてもある程度馬の世話を任せられるような人間は欲しいのだ。


「ただし、条件がある!」


 親父は眉を結んで、宏樹の顔面を直視して告げた。


「志穂に手を出したら殺す!!!」

「出す訳がない……いだだだだだ!?」


 同時に宏樹は、屈強な青年たちに締め上げられていた。「お嬢に手を出したらこうなる」と体に教える連中から視線を逸らして、志穂はただただ呆れるばかりだ。


「で、どうすんの? 面倒みるの? 無視すんの?」

「わ、わかったやる! やるし手は出さないから離してくれーッ!!!」


 こうして、すこやかファームは新たな従業員を迎えることとなった。

 初となる馬産と農業の二毛作を担当するのは十九歳の青年、沼田宏樹。

 線が細く髪を遊ばせている水商売のキャッチ、はた目に見れば馬産とも農業とも無縁の彼には、すでに担当馬がいる。


「おっし、引退レースがんばるよ! スワン!」

『ガッテン承知の介!』


 相変わらずどこで覚えたのかわからない返答をよこしていたが、セブンスワンダーもやる気に満ちているようだった。

 いまだに痛めつけられている宏樹を横目に、志穂はこれからの調教プランと、今度は教える側に回る苦労を思いため息をつく。

 それでも、志穂の顔は幸せそうに微笑んでいた。


 *


 東京へ帰るなり、宏樹はすぐさま店長に電話を掛けていた。「辞めます」とひと言言った途端の反応は、淡々としたものだ。烈火のごとく怒り狂うかと思った宏樹はすぐさま電話を切って、大掃除を始めた。

 今年も残り数日、年の瀬の引越しだ。だが、家具や家電の類はほぼ必要ない。着替えや非常食、本などの持ち物を段ボールに詰め込んで、新居となる洞爺のすこやかファームへ送るだけ。残りの家具家電は、廃品回収業者に任せるだけである。


「いやにあっけないな……」


 空っぽになったワンルームを眺めて、宏樹は小さく息を吐いた。残った荷物はスマホや財布、そして近々で必要な身の回りのものを入れたリュックだけ。リュックのファスナーには、八つの必勝守を束にしてぶら下げている。

 その必勝守を手に取って眺めていた宏樹の瞳は、ふいに涙で潤んだ。


「また、あいつを応援していいんだ……」


 必勝守を握りしめ、掃除の終わった部屋を後にする。

 高校を中退、実家を飛び出してから四年間暮らした家賃八万円のワンルーム。その最後の施錠をして、宏樹は歩き出す。不動産屋に鍵を返せば諸々の契約は終了、東京での人生は終わるのだ。

 そして、これまでずっと無視してきた相手に連絡を入れた。

 人は変わることができる。それを宣言して、自分を鼓舞したかった。


「関口さん、久しぶり。……じいちゃんに伝えてくれ。おれ、あの馬の面倒みるってさ」


 旅立ちは不安だったが、この先には新しい人生が待っている。

 棒に振ってしまった絶望の人生をやり直せる希望が待っている。

 

 *


 一方、歌舞伎町の店は混迷の最中にあった。

 キャッチが足りず、求人を出しても代打は来ない。挙げ句に——


「ちょっとさァ? なんでアタシの上客にモナがついてるワケ?」

「えーハヅキの客だったのー? モナ知らなかったー」


 ——女王たちの間には、険悪な空気が流れていた。

 客の顔を覚え、女王たちを差配し、ついでにご機嫌も取っていた者がいなくなってしまった途端、「アットホームな職場」と謳われていた店には大きなヒビ割れが生じたのだ。軋轢の中で潤滑油として、あるいはサンドバッグの役割を買って出ていた者が消えた今、待っているのは混沌である。

 

「どっちでもいいから相手してこい!」


 店長が怒鳴り散らし、女王が吠える。中には仕事を拒否する者まで現れる。

 こんなはずではなかったと、誰しもが考える。そして全員が、去ってしまった者がこれまで背負っていた役割の貴重さに気づくも、すでに遅きに失している。

 呼び戻すという発想もあった。だが、プライドが許されなかったのだ。

 あんな使えない男——沼田宏樹のおかげで、店が回っていたと認めることになるのだから。


「店長、ヤバいっすよ! 呼び戻せないんですか!?」

「あんなヤツいなくてもなんとかしろ!」

「でも売上に響きますって! 実際、客がかなり怒ってますよ!?」

「それはお前のせいだろ! オーナーに報告しとくからな!」

「勘弁してくださいよ、俺じゃないっスよ!?」


 屋台骨を失った店は傾き始めていたが、そんなことは宏樹の知るところではない。

 札幌行きの夜行バス車内で、宏樹は久しぶりにぐっすりと眠っていたのだった。

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