第108話 カネヅルおじさん♪

 財前が用意してくれたのは、ツナギを着てきたことを後悔するほどの破格の好待遇だった。


 東京駅からひと駅。日比谷公園そばに建つド名門ホテルは、洞爺の中学生にはあまりに場違い。吹き抜けの大広間、伸びる絨毯ともはや異世界だ。にこやかな笑顔で対応してくれたホテルマンも、内心では「なんだこの汚らしいガキは」と思っていただろうことは想像にも難くない。

 せめてもう少し確認しておけば。馬主の財力をナメるべきではなかったと志穂は肩を落とす。

 分不相応なホテルに気疲れしながらも、セミスイートルームで荷を解く。とりあえず宿についたことを父親と財前の秘書に連絡して、ツナギも脱ぎっぱなしてふかふかのベッドに横になったのだった。


 そして翌朝、土曜日。

 この日はこの日で大事な仕事がある。


 向かったのは、待ち合わせ場所に選んだド名門ホテル内の喫茶店。

 翌日のジャパンカップのことを考えながら待っていると、予定時刻から三十分遅れて、秘書を連れた男が現れた。

 還暦間近で脂ぎった男の名前は石崎。無礼極まる牧場買収交渉を持ちかけてきたあの男だ。

 だが志穂は石崎をもう恨んでなどいない。むしろ心の中で彼をこう呼んでいた。

 ——カネヅルおじさん、と。


「これはこれは。賢明な選択をしてくれると思っていたよ」


 石崎が上機嫌なのは、志穂が「牧場の今後について考えたい」と、まるで売却に前向きな姿勢を電話で伝えていたからだ。ハルやクリスごと売ってくれると思い込んでいるからか、予想通りのこのこと誘いには乗ってくれた。志穂側には、強力な味方であるマスコミがついているとも知らずにである。


「うん。あれからいろいろ考えてさ」


 軽く握手をして、志穂はさっそく商談を開始する。

 志穂はまず、スマホを取り出して茜音が送ってくれた動画を再生することにした。


「この動画、覚えあるよね?」

「ああ、確かにこれは私だな。だがそれが何か?」


 突きつけたものの、石崎は意に介する様子もない。当然だとばかりに、注文したコーヒーを啜っている。


「うちのこと、ずいぶん悪く言ってるみたいだけど」

「いやいや、よく見てほしい。私は、君の負担を思って買収を持ちかけているんだよ。子どもにはわからないかもしれないがな」


 ニヤニヤと笑みを貼り付けて、石崎はさも心配そうに腕組みして志穂の未来を思っている風だった。そんなことを微塵も考えていないことは志穂でも充分にわかっている。

 そもそも馬産はたしかに負担だが、他人に任せるような気はない。


「私にとってはクリスもハルも、牧場も含めて家族なんだよ。だから負担なんて考えないようにしてたんだけどね……」


 あまりにも石崎が嘘を突き通すのが面白くなって、志穂もさも寄り添うような嘘をついていく。

 なんせ志穂側には密着取材のカメラマンがついているのだ。彼はあの二十時間にも及ぶ夜行馬運車で揺られた仲。それでも音を上げずしっかり様子を撮影していた彼に、撮れ高のひとつも作ってあげたい。


「たしかに負担に感じることはあるよ。経済的なこととかね」

「君の家族は私が責任を持って買い取らせてもらう。ぜひとも協力させてくれ」

「うん、じゃあ協力して。まず五百万ちょうだい」

「は?」


 志穂の予想した通り、石崎はぽかんと口を空けていた。

 どうせ理解できないだろう。志穂はすぐさま動画を早送りして、該当部分を再生してやった。

 例の動画で、石崎は高らかに語っている。


 ——あの中学生の管理馬が勝ったら、一勝ごとに百万円資金援助してやろう。


「数えてみたんだけどさ、私の管理馬ってもう五勝してたんだよね」

「なにを……言っているんだ……? 冗談にしてはタチが悪いぞ……?」


 石崎は露骨に狼狽えていた。どうせ大して調べもせず、バカな配信を行ったのだろう。こんな人間の配信を好き好んで見ている層にも腹が立つが、好みは人ぞれそれ。それに彼らがヨイショと持ち上げてくれたおかげで、いい具合に調子に乗ってくれたのだ。

 であれば志穂は、下の立場から襲いかかる。


「クリュサーオルって馬知ってる? 明日のジャパンカップに出るんだけど」


 石崎は急いで、秘書にスマホで調べさせていた。

 一勝クラス、二勝クラス、札幌日経オープンと三連勝を飾った晩成型の上がり馬。京都大賞典は惜しくも二位だったが、その後のアルゼンチン共和国杯で重賞初制覇を飾っている。

 秘書が出してきた馬柱を見て、石崎は告げる。平静を装ってはいるが、その声はどこか震えていた。


「この馬がなんだ……?」

「あの子を管理してたの私なんだよ。洞爺温泉牧場の外厩で世話した。私ひとりでね」

「は、ハハハ……! 面白い冗談だな!? 女子中学生が重賞馬を育てただと!?」

「G1馬の管理もしたよ。さすがに知ってるでしょ、芦毛の二歳女王スランネージュって」

「な……!?」


 スランネージュに至っては、秋華賞を同着で飾っている。

 外厩としてはビールを飲ませるくらいしかしていない気もするが、せっかくだし勝ち星に加えておく。


「クリュサーオルで四勝、スランネージュで一勝。というわけで五百万ちょうだい。あ、そうそう。おじさん算数できるよね?」


 石崎は固まっていた。口元はわなわなと震えており、秘書の額には冷や汗が見える。

 ただ、志穂も理解はしている。

 その場で五百万円ポンと渡してくれるような好人物なら、あんな恩着せがましい買収話は持ちかけてこない。必ず何かしらの言い訳をしてくるはずなのだ。

 だからこそ、先に退路を塞ぎにいく。クリアファイルから出したのは、ネットメディアのコラム記事だ。


「はいこれ、外厩で働いてた証拠ね。月刊馬事に書いてもらっててさ。これがクリュサーオルと映ったやつ。こっちはスランネージュもいるね」


 実は花村は、定期的に志穂の記事を連載していた。

 相変わらずホースマン以外への訴求力は皆無の記事だが、最初のレインを救った記事に始まり、数本の記事はすべて外厩厩務員として活動する加賀屋志穂の奮闘を記したもの。いずれにも馬房の清掃に始まり、餌やりや騎乗して馴致調教を行っている志穂の写真がこれでもかと載っている。


「こんなものはいくらでも捏造できるだろう……?」

「なら記事のURL調べてみなよ。同じもの載ってるから」


 秘書はすぐさま検索する。そんなことをしても無駄なのに、どうにか逃げ道を探そうとしているのだ。


 だが、そうはさせない。

 資金難にあえぐすこやかファームにはありがたい、五百万円もの大金だ。種付け料の借金三百万を払ってもなお余りある資金。

 カネが絡んだときの志穂は、優しさなど欠片も持ち合わせぬ非情な悪魔へと豹変するのである。


「あれ? あんだけ大々的に宣言したのに払ってくれないんだ〜?」

「まあ待ってくれ。いま確認させる!」

「どうぞ、穴が空くまで調べなよ」


 石崎は隣の秘書を小突いて急かすが、秘書は首を横に振った。当然だ。志穂は嘘などついていない。


「さ、五百万円耳揃えて払ってもらうよ。カネヅルおじさん♪ あ、パパ活って言った方がいい?」


 立場は逆転した。

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