第107話 夜行馬運車二十時間
着替えや日用品を詰め込んだトランクケースを傍らに、志穂はすこやかファーム正面玄関に入ってくる馬運車を見守っていた。
十一月末、木曜日の深夜。
プリンがすこやかファームを発つ日だ。
「クリスとハルの餌やり忘れんなよ、親父」
「おう、留守は任せとけ」
賑々しくプリンと志穂を見送るのは、すこやかファームの従業員たちばかりではない。この間のローカルニュースで取材に来たディレクターも、ハンディカメラ片手に様子を撮影していた。従業員たちが「プリンちゃんがんばれ!」と横断幕を掲げて盛り上がっているその隣で、ハルも大きくいなないている。
『プリン、先に行ってて! ボクもすぐ追いつくよ! 一緒に走ろ!』
一方のプリンは別れを惜しむように周囲を見渡し、首を志穂に寄せていた。小さく震える彼女を落ち着かせようと、志穂はふかふかした胴に抱きつく。
「大丈夫だって。私も着いてくからさ」
今回のプリンの輸送に厩務員として同乗することにした志穂は、財前が用意した航空券を往路のみキャンセルしてもらった。ちなみに例の秘書に馬運車での関東入りを伝えると、財前は実に愉快と頬を綻ばせていたらしい。ついでにお小遣いでもくれないかと志穂は密やかに期待している。
しばらく撫で続けていると、プリンはゆっくりと歩みを進めてくれた。
『ごめんなさい。みんなとさよならするのが寂しくて……』
「違うっしょ? ここはプリンの第二の故郷。いつでも帰ってこれるからね」
『……そうだね』
馬運車のステップに脚をかけて、プリンはもう一度振り返った。
横断幕を手にする従業員、腕組みする父親、楽しげにその場でくるくると回るハル。そして馬房から首だけ出して見送るインドア派のクリス。その奥には、みんなで駆けた偽ロンシャンの丘が小高く聳えている。
『さよならじゃなくて、行ってきます……!』
プリンは決意を新たに、馬運車内のゲートのような枠におさまった。あとは固定治具を取り付けたり、脚のサポーターの確認、輸送中の食事や水を積み込んで、ようやく志穂の番になる。馬運車の奥に折り畳みのキャンピングチェアと簡易ベッド、最後にトランクケースを積み込んだ。
「よし、出発!」
そして志穂は馬運車の荷台へ。密着取材中のディレクターは、様子を撮影してから助手席へ。
志穂がプリンの間近に広げた簡易ベッドに腰を落ち着けたところで、車体はゆっくりと動き出す。
これは寒くて長い代わりに、揺れのない快適な夜行馬運車。
行き先は茨城県、美浦村だ。
いかに空路での輸送技術が発達していても、馬用のエアチケットはバカみたいに高い。だから
今回のような洞爺からの輸送の場合、最初の目的地は函館競馬場だ。輸送のダメージを軽減するため、まずは函館で人馬ともにひと息入れて、そこから海路で本州へ向かう。
「んー! ちょっと休憩」
馬運車のハッチが開くと、白んだ空が見えた。
JRA函館競馬場。
撮影されながら、志穂はプリンをいったん馬運車から降ろす。窮屈な馬運車から出たプリンは大きく伸びをして、芝地にごろんと横になった。
『なんだかすごく遠いね……』
「プリンは長旅初めてだもんなー」
プリンは両親こそ外国馬ながらも、生まれも育ちも北海道だ。こんなに長距離の輸送は経験がないのか普段よりも疲れが見える。輸送のストレスは人間も同じで、近くでは運転手がストレッチを、隣では撮影中のディレクターも大きく伸びをしていた。
「まだまだここから海を越えるからね」
『海……?』
「世界中に広がるクソデカ水たまり。冬の津軽海峡はかなり酔うよ」
制振性に優れた馬運車と違い、船にはそんな気遣いなどない。ゆえに船での馬匹輸送は鬼門だ。わざわざ釧路発東京行のフェリーで直送せずに陸路を走るのは、ダメージの大きい海上輸送を最低限に留めるためにある。
『世界は大きいんだね……』
「それな。私も行ったことないけど」
小一時間ほど休憩して、馬運車は再び動き出す。函館競馬場から函館港。馬運車はカーフェリーに収まった。フェリー内の船室へ仮眠へ向かったドライバーと別れ、志穂はディレクターとともに馬運車に残ることにした。
出航。同時にこれまでの比ではないくらいに馬運車は揺れ始める。今日の津軽海峡は荒れていた。
『し、シホ……! 世界が壊れるよおっ……!?』
「酔い止め飲み忘れた……おえー」
大地が揺れる天変地異に、プリンはしっかりと耳を引き絞っていた。ただそれより悲惨なのが志穂とディレクターである。カクテルでも作るかのように胃の中身をシェイクされること四時間。ふたりしてエチケット袋とともに荒波に揉まれて、青森港に着く頃にはゲッソリと
ゲロまみれになりつつも、馬運車はなんとか本州入りを果たした。
青森からのルートは東北道をひたすら南下する。新幹線であれば三時間ほどの道程も、陸路だと十時間を越えるものになる。読書をすることもなく、スマホで動画を見ることもなく、ひたすら横になって志穂は長い長い時間が早く過ぎることを願っていた。
そして。
「やっと着いた……。もう二度と馬運車なんか使わない……」
「あはは! まだ美浦でよかったですね。栗東だともっと遠いですから!」
洞爺からおよそ約二十時間。馬運車はとうとう美浦トレセンに到着した。
ハッチが空くと同時に、羽柴や香元、その他厩舎関係者が長旅を終えたプリンを出迎えてくれている。プリンに安心するよう告げて、志穂は初めてトレセン厩舎エリアに足を踏み入れた。
整然と並ぶ厩舎は、まるで団地だ。割り当てられた香元厩舎の馬房にはそれぞれ預託馬が収まっていて、志穂もプリンともども挨拶をして回る。やはりクリュサーオルが志穂の存在を触れ回っていたようで、ウマ語を喋れる志穂は希望通りに背中を掻いたり首筋を撫でたりと大忙しだ。
そして、プリンの入厩する馬房に到着した。
『ここが、新しい家……?』
「そ。安全だしみんな優しいから、ゆっくり休んで」
『……ありがとう、シホ』
よほど疲れたのか、プリンはすぐ寝藁の上に横になった。馬は立ったまま寝られると言っても、二十時間近く立ちっぱなしだ。本来なら安全を確認すべくもう少し警戒するものだが、すぐにまぶたを閉じていた。
「こっから、プリンの競走馬としての生活が始まるんだよ」
『うん……』
言って、プリンはまぶたを開く。そして志穂に鼻先を伸ばしてくる。湿った鼻息を手のひらに感じながら、志穂は落ち着けるように優しく撫であげた。
「不安?」
『うん、だけど……強くなりたい……』
煌々と灯るオレンジの電球の下で、月毛がきらきらと輝く。
疲れていてもその口ぶりには、出会った頃にはなかった決意がこもっていたように感じた。
『あの人みたいに強くなって、あの子に会いに行きたい……』
「あの子って、イジめなかったっていう?」
『会って、お礼を言いたいから……』
プリンに優しかった黒鹿毛の二歳牝馬。その正体に志穂はもう気づいていた。話してくれた内容、その口ぶりからして該当する馬はおそらく彼女しかいない。あんなのが他にもいたら困る。
「プリンが探してる子、たぶんファルサリアって子だよ」
『ふぁるさりあ……。きれいな響きだね……』
「ただ、
『……頑張る。ハルとも約束したから』
「ん」
五所川原に聞かせたら感激して号泣しそうだ。なんて思いながらプリンを撫でていると、羽柴がひょっこり顔を覗かせていた。
「志穂ちゃん、クリュサーオルにも会ってあげてください。そろそろ府中に出発するんです!」
名残惜しくもプリンと別れ、志穂はクリュサーオルの馬房へ向かった。
彼を一目見ただけで、志穂は格の違いを感じて息を呑んだ。すでに脚には厳重にプロテクターが巻かれ輸送の準備が整えられているが、それに怯える様子もなく、かといって驕っている様子もない。
今年の初めまで一勝クラスで燻っていたとは思えない落ち着きよう。勝つだけで難しい競馬の世界で、重賞を獲ることの意味を知った志穂だからこそ、クリュサーオルのすごみがよりいっそう理解できる。
『おン? ンなトコに来るなんて珍しいじゃねェか。さてはオレ様の見送りか?』
「アンタの見送りはついでだよ」
『ハッ! 素直じゃねェなァ! ゲハハハハッ!』
本当にプリンのついでなのだが、クリュサーオルが喜んでいるので黙っておくことにした。
話したいことはいっぱいある。プリンの入厩にシルヴァグレンツェと会ったこと。金の蹄鉄を貰って一人前のホースマンとして認められたこと。すこやかファームにクリュサーオルの目指す凱旋門賞の偽物を作ったこと。
ただそんなことより、今かけてあげたい言葉はひとつ。
「頑張ったじゃん。おかげでジャパンカップ出られるよ」
『まァ、オレ様にとっちゃ当然だな!』
「勝ちとかこだわんなくていいから、とにかく無事で帰ってくること」
『ンな臆病風吹かすんじゃねェよ。そこは勝ってこいでいいだろ?』
「だって私マリー派だし。一着はマリー、アンタは二着で」
『テメエはよォ……』
クリュサーオルに鼻先で小突かれるも、その温かさが嬉しかった。お返しとばかりに首筋をぽこんと一発殴って、志穂は笑う。
「これでリラックスできたっしょ。斉藤さんの分もドレス着て応援したげるから頑張りな」
『おうよ。そいつァ楽しみだ!』
言葉少なに理解し合う。本音を言わずともお互いに意志は伝わっていると信じて、志穂はクリュサーオルの馬運車を見送った。
そして志穂は羽柴の運転で最寄駅へ。財前の秘書に抑えてもらった東京のホテルへ向かう。
いよいよ明後日、国内最強の馬が決まる。
長旅でひどく疲れて眠いのに、志穂のまぶたは閉ざされることなく期待に見開かれていた。
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