第98話 お慕い申し上げます

 G2アルゼンチン共和国杯。

 それはアルゼンチンとの親善友好の一環として創設されたレースにして、クリュサーオルにとっては三週間後に迫るジャパンカップ制覇のための最後の砦だ。


「ハッシー、モタの様子はどう?」

「元気そうですよ? 声聞かせますね〜」


 そのレース週、土曜日。気が気でなかった志穂は、忙しいとは思いつつも羽柴に連絡を取ることにした。簡単にLINEで済ませようと思ったが「通話できますよ」とのこと。羽柴の優しさに甘える格好だ。

 電話口からは、鼻を鳴らしたりいななくクリュサーオルの声が聞こえてくる。距離も離れているし直接会っている訳ではないから言葉はわからないが、元気そうで志穂は胸を撫で下ろす。


「とにかくがんばって。ここ勝てば世界に一歩近づくよ」


 あちらも理解できてはいないのだろうが、やや遅れて荒い鼻息が聞こえてくる。直接応援ができなくてヤキモキするが、志穂には志穂で洞爺での仕事があるのだ。


「ハッシーありがと。行けるなら行きたいんだけどさ」

「大丈夫、志穂ちゃんは自分の仕事に集中してください! 我が子のがんばりを見守ってあげるのも親心ですよ!」

「無理ー! 耐えられないー!」


 そわそわした気持ちはまるでギャンブル中毒者の禁断症状だ。羽柴と軽く笑い合っていると、話題はジャパンカップの展望に移る。

 フルゲート十八頭で行われる世界レベルの競争。その前哨戦、限られた出走枠をかけた争いは、着々とその席次が決まりつつあった。


「まずですね、海外からの登録馬がすでに八頭います。府中に国際厩舎を作って呼び込んだ甲斐がありましたね!」


 ジャパンカップでの海外・地方遠征馬の優先出走枠は六頭だ。まず登録した八頭の成績上位順にこの枠が埋まり、漏れた二頭は国内馬とのレーティング順で出走が決まることになる。ただ羽柴によれば「うち二頭は登録だけだと思います」とのこと。この他にも地方競馬からの登録馬も一頭いるので、優先出走の六枠が割れることはないだろう


「で、残り十二枠は以前お話した通り。国内の一線級が集うお祭りになりそうですね」


 メモを見ながら志穂も馬名を答えていく。

 今年のダービー馬、クーニヒルーナ。

 昨年のジャパンカップ覇者、ヴェルデイルベント。

 三連覇のかかるエリザベス女王杯と両睨みのグノーシア。

 ちんこがかゆい去年のダービー馬、シルヴァグレンツェ。

 海外G1を二勝した三バカのひとり、マリカアーティク。

 そして古馬最強の呼び声高いG1四連勝中の怪物、ディスティンクト。


「ここにマリーとユキナ……プレミエトワールとスランネージュでしょ?」

「スランネージュはエリザベス女王杯優先ですね。志穂ちゃん、会ってみてどうでした?」


 外厩でのスランネージュは見事なまでの飲んだくれな日々だったが、気は休まっていたのだろう。その結果が秋華賞の同着なのだとしたら効果はあったと思える。


「調子はよさそうだし、出られるなら元気な姿見せてほしいけど……」


 牝馬路線を出てきたふたりも、めまいがしそうなG1馬たちと肩を並べる存在だ。

 令和六年クラシックの主役。三冠牝馬、プレミエトワール。

 それに毎度肉薄して秋華賞を分けたアイドル、スランネージュ。


「……残りは四枠か。モタは収得賞金順だとどうなの?」

「今は七位ですね。次走で一着なら繰り上がって出走確実ですが、二着だと危ない状況です。次走にはクリュサーオルと同じく、ジャパンカップを狙ってる子がいるんですよ」

「名前は?」

「アンティックガール。ダートでそこそこ賞金を積みながら、芝に路線変更した五歳の牝馬です」

「どこかで聞き覚えが……」


 そういえば札幌日経オープンのとき、古谷先生が「名前が好きだ」とか言っていた馬だ。

 あれはダートから芝に変わった初戦。ゆえにそこまで人気してはいなかったがクリュサーオルの二着。次走の京都大賞典では五着の実力馬。最後の四枠をかけたレースに臨んでいる。


「札幌と京都でモタと走ってるんだ? だったら知ってる顔だろうしモタも気が楽かもね」

「そうとも言い切れませんよ。もしアンティックガールが一着だと、二着につけてもクリュサーオルの賞金順は四枠中の四位。他馬の活躍次第では、出走枠を押し出される可能性があります」

「モタは一着獲るしかないワケか……」

「ええ、私たちも背水の陣です! がんばってほしい〜ッ!」


 電話を切って、ハルやプリンとともに偽ロンシャンの丘に寝転んだ。

 明日はクリュサーオルの正念場。凱旋門を目指すためにも、シルヴァグレンツェら三バカとの約束を果たすためにもどうか勝ち切ってほしい。

 志穂は東京行きの航空券の値段と、口座の残高をにらめっこしてスマホを投げ出した。さすがに財前や五所川原に頼むのは遠慮がなさすぎる。そもそもクリュサーオルは志穂が馬主であるワケでもないのだ。


「応援行きてー!」

『ボクもー!』

『は、ハルが行くならわたしも……でも、怖い……』


 行きたいのはやまやまだけど行けない。そのもどかしさからゴロゴロ寝返りをうちながら、志穂は遥か南の空へ向けて「行きてー!」と叫び続けるのだった。


 *


 わたくしには、お慕い申す殿方がおります。

 以前、少し涼しい地。これまでの砂地ではなく、はじめて芝地を走った際にお見かけした、美しい栗毛の殿方。

 本来であれば、お名前などわかるはずのない馬の身。

 わたくし自身ですら、世話をしてくださる人間に呼びかけられる響きを認識しているだけで、それがどのようなお言葉かは図りかねております。それでも敢えて言葉にするならば……『アン』とでもしておきましょう。


 嗚呼、それは何度思い起こしても大変な驚きでした。

 まさか我々、馬の言葉を理解する人間の少女がいようとは。口調も態度は褒められたものではない、蓮っ葉にして下品なものでしたが、彼女のおかげでわたくしは知れたのです。お慕いする殿方のお名前を、そしてわたくし自身にも名前という、自らを識別する概念があることを。


 わたくし、アンにはお慕いする殿方がおります。

 あの、競争の前に皆で並んで円形にくるくると回る場所。

 そこで『メスガキ』というお名前の少女が、彼のことを『モタ』と。そう呼ばれるお姿を拝見したのです。


 ええ、わたくしが行ったのは盗み聞き。褒められた行為ではありません。

 ですがわたくしは、あの日より走りに目的が生まれました。


 モタ様に、わたくしアンの名を知っていただきたい。

 モタ様に、振り向いていただきたい。

 モタ様に居並ぶにふさわしい、女馬となりたい。


 そのために、芝の地を懸命に踏み締めて、モタ様に会おうと奮戦いたしました。

 モタ様と会えたのは最初の芝の地と、その次の二戦だけ。

 いつもの家でも、他馬が集う練習の場でも、そのお姿を拝見することはありません。


 嗚呼、どこへ行ってしまったのでしょう、モタ様。

 よもやわたくしを置いて、亡くなってしまったのでは。

 想い、恋焦がれ、愛は止まらぬもの。

 何度となく夢に見て寝藁を涙で濡らすほどに、会えない日々は遠いのです。


 そして車に揺られ、わたくしはまた新たな競争の舞台に降り立ちます。

 ここにあの方……モタ様がいらっしゃらなければ、この恋はきっとそれまで。

 ですがもし、モタ様とお目にかかれたならば。


 ——わたくしは、モタ様に勝ちたい。

 そして強く気高きモタ様に、わたくしの力を証明したい。

 強き血筋を持ってすれば振り向いてくれるはず。愛してくれるはず。


 嗚呼、モタ様。お慕い申しております。

 お慕い申しておりますので、全力でぶつからせていただきます。

 完膚なきまでに。

 わたくしの競争人生のすべてをかけて打ち破ります。

 そして、優秀な女馬と認められたわたくしと、強い子孫を成しましょう。

 いいえ、子を成すのみにあらず、生涯を通して隣に控えさせてください。


 嗚呼、モタ様。モタ様。モタ様……!


 *


「着いたねー。レースまでちょっと時間あるからくつろいでてね、クリュサーオル」


 日曜日。馬運車から羽柴に引かれ、東京競馬場内の馬房に収まったクリュサーオルは、周囲の安全を確認して寝藁に横になった。慣れない場所を自分の居場所にするには、まずは転がって臭いをつけておくことが欠かせない。これはクリュサーオルの——馬自身のルーティーンのようなものだった。

 ひとしきり転がって寝藁をいい感じにほぐしつつ馬房の隅へと追いやって、クリュサーオルはやはり壁に寄りかかるように立って待つ。


『……あの板越しじゃ、メスガキの言葉もわかんねェか。人間も万能ってワケじゃなさそうだ』


 志穂がわからなかったように、クリュサーオルも電話口では志穂の言葉を認識できなかった。せいぜい声色の調子で志穂の声だとおぼろげにわかる程度。ゆえに次のレースの有力馬は、クリュサーオルにもわからない。

 ただ、これが志穂いわくのジャパンカップでないことだけはクリュサーオルも気づいていた。シルヴァグレンツェやマリカアーティクを相手にしたときのようなひりつきを感じないのだ。野生の勘とでも呼べるものだろう。


『そういや、ひとつかふたつ勝てばいいって話だったか。てことは今日が、世界に挑むチャンスってことになる……』


 静かに思案して、聞き耳を立てる。志穂の知恵を借りられない以上、周囲のライバルには自分で探りを入れなければならない。

 誰が有力なのか。誰が意気込んでいるのか。誰がやる気を失っているか。

 漏れ聞こえてくる声に探りを入れていると、クリュサーオルは急な寒気に襲われた。


『……妙なヤツがいる。この気配、覚えがあんだが……どこで会った?』


 独り言には当然、返事などない。少なくとも両隣の馬房に入る馬ではない。では、何者なのか。

 馬に関わる関係者がよく持っている、大きな紙束競馬新聞に並ぶ模様を読まれば、何かがわかるのかもしれないが、あいにくクリュサーオルは新聞など読めない。


『まァいい。勝ちまくるしかねェンだ。気にする必要もねェ』


 そして数時間後、クリュサーオルはパドックに向かう。

 ジャパンカップの椅子取りゲーム、アルゼンチン共和国杯。


『……待ってろよ、バカ野郎ども。テメェらと走る約束、叶えてやるぜ』


 東京の空。赤いドレスの女は、斉藤萌子も志穂すらもいない。だが、どこかで見ている。そう確信して、クリュサーオルは自信に満ちた一歩を踏み出す。

 そのときだ。前方を歩く牝馬が、急に歩みを止めていた。


『なんだァ、テメエ。ちゃんと前向いて——』

『嗚呼、ようやく……! ようやくお目にかかれました! モタ様!』


 話しかけてきた牝馬は12番。アンティックガール。

 気色ばんだ声色に、クリュサーオルはようやく寒気の正体に気付いたのだった。

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