第97話 算数からやり直せよ
実家の手も借りてナメられない牧場作りに精を出しているうちに、すこやかファームのウマ娘の存在は狭い馬産業界で浸透し始めていた。
父親ではなく志穂宛のアポイントもじわじわ増え始めており、今日はその来客対応日。札幌から遥か洞爺を訪れたローカルテレビ局の女子アナウンサーが、偽ロンシャンや作りかけの坂路コースを指してカメラを意識しながら尋ねてきた。
「うわあ〜、ひっろ〜いですねぇ〜!」
さすがテレビマン、大げさだ。
とはいえ志穂も半年前まではテレビを見て「ほえー」なんて間抜けな声とともに感心していた側の人間である。
「広さだけは充分あるんで」
適当に応対して、猫車にウッドチップ入りの麻袋を積み上げて志穂は歩き出す。仕事風景も取材させてほしいということだったので、アナウンサーのほかカメラマンやディレクター、音声といった撮影クルーを引き連れ、作りかけの坂路へ向かった。
「いきなりですが、作業手伝わせてもらってもいいですか!?」と、いきなりでもなんでもない打ち合わせ通りの女子アナに、偶然ポケットに入っていた軍手を渡してウッドチップを敷いてもらった。使える者は取材班でも使うのである。
あのオークションから数日。
ツナギの襟元で輝く金の蹄鉄とやらの効果なのか、ハルやクリスだけではなく、すこやかファームに興味を持つ者からの連絡もたびたび来るようになっていた。今回のようなテレビ取材や、零細牧場の経営者、馬主、各地の調教師達。中には「ぜひ乗らせてほしい!」と自ら売り込みにやってくる騎手までいる。
「で、ですね、加賀屋さん。ご相談なんですがやはりその、テレビ的には……」
交渉を持ちかけてきた男性ディレクターは、放牧地を駆けるふたりの方にチラチラ意識を向けている。いちおう消毒はしてもらったし、クルーの中にはメガネ女子もいない。だから大丈夫だろうと手を振って名を呼んだ。
「ハルー! プリンー!」
するとぴくりと向きを変えて、ハルが志穂を目掛けて突進してきた。プリンは知らない人間に気乗りしないのか、その場で立ち止まっている。やはり臆病を治すのは難しい。
そして恒例の鼻先スピアを気合いで受け止める。猛烈なぶつかり合いに撮影クルーは若干引いていたが、放送事故にはならないので安心だ。
『この人たちもシホの知り合い?』
「まあそんなとこ。ハル、おとなしくしてて」
『はーい』という調子のいい返事を信じていいものか迷ったものの、志穂は女子アナにニンジンを手渡す。するとテレビ的な演出なのか女子アナの素なのかわからない熱烈なぶりっ子を挟んで、かなり腰を引いてニンジンをハルに食べさせていた。
「きゃっ!? た、食べてくれましたぁ〜……! こ、怖かったぁ〜!」
『……この人、よくわかんないね? ボクのこと怖がってるっぽいのに全然怖くなさそう』
「テレビってそういうモンだから。プリンにもニンジンあげに行こ」
言って、志穂は裸馬状態のハルに跨った。かなりツラいのであまりやらないが、志穂はハル相手なら鞍なしでも乗れるようになったのだ。
振り向くと、撮影クルーが必死で追ってくる姿が見えた。馬産体験にハプニングと撮れ高はバッチリだろう。
そしてハルから欧州のレジェンドジョッキーよろしく飛び降りて、プリンにもニンジンをあげる。ひいひい走ってくる取材班の様子を眺めながら、志穂はちゃんと取材に応じてくれたふたりを撫でた。
『変な人間、怖いよ……』
『でも、アレくらいならシホの方が変だよ?』
『それは、そうかも……』
「私を変人の基準にするなよ」
まあ、こんな人間ほかにはいないのだから仕方がない。
肩で息をするクルーのインタビューにその場で応対して、ローカルニュースの撮影は無事に終わった。わざわざ洞爺までやってきたクルーはこれから急いで札幌に帰って映像を編集し、夕方のローカルニュースで流すとややうんざりしながら苦笑していた。
ホースマンも大変だが、テレビマンも大変なのだろう。
そんなときだった。
ハルとプリン、両方の耳が接近する何かを聞きつけたのかピンと立つ。察知した志穂も、遠くすこやかファームの正面玄関に視線をやる。来客用駐車場には一台の車が滑り込み、中から人影がふたり出てきた。ちなみに、志穂の視力は2.0を超えている。
今日は取材班以外にアポイントは取っていない。
農産部門の客かと思いきや、父親ほか従業員一同が何やら話し込んでいる。
「ハル。プリンを連れて丘の裏側行ってて。かくれんぼ」
『わかったー! 行こ!』
ふたりを逃したのは、嫌な予感がしたからだ。遠目に見ただけでも両者の雰囲気はよくない。取材班も引き連れて向かうと、高級スーツ姿の男性ふたりが目に留まった。今度こそ借金取りかもしれない。
志穂を見定めると、父親は珍しく怒っていた。
「お前は家に入ってろ」
「私なんかやった?」
尋ねると、プライドの高そうな方の男が汚いものでも見るような目で一瞥し、再び父親に抗議でもするのかという剣幕でまくし立てている。
「あなたは本当に中学生に牧場を経営させているのか? まったく正気を疑うな。素質馬ばかりか優秀な肌馬までダメにしてしまうとなぜわからない?」
彼らはどうやら馬産部門への客だろう。物言いや高級車、脇に控える男性の若さからして、ふたりは経営者と秘書か何か。馬主と考えた方が自然だ。
「確かに志穂は中学生だが、こいつは立派なホースマンだ。どこに出しても恥ずかしくないウチの牧場長をみくびってもらっちゃ困るな」
一瞬、身の毛がよだつほどの悪夢かと思った。あの馬産にいっさい興味のなかったクソ親父が、志穂のことを評価していたからだ。そんな父親に合わせるように、共に暮らしている住み込みの従業員たちも志穂を庇うように声を上げている。
だが、聞く耳持たぬと言うように男は言う。
「何度も伝えたはずだ、五億でこの牧場ごと買うと。繁殖牝馬は来年にはもう価値もないが、死ぬまで繋養するとこちらもわざわざ譲歩してやったのだ。優秀な牧場スタッフも派遣する。中学生に任せるより遥かにいい」
「何度も断ったはずだがね」
ようやくにして、志穂も状況を理解した。
今まで父親が抑え込んでいた、ハルを売ってくれと連絡をとってくる馬主が、とうとう痺れを切らして乗り込んできたのだ。
五所川原と違ってこの男にはアポもないし、物言いには敬意も誠意も感じられない。
志穂はすぐさま断定する。この馬主は敵だ。
「とっとと帰ってくんない? アンタらに売るモンなんてなんもないから」
「躾のなっていない娘だな。この親にしてこの子ありか」
「まあ躾だけは悪いけども」
ちらりと横目に、カメラを構えた取材班の姿が見えた。馬主もそれに気づいたようで、「カメラを止めろ」と叫んでいる。撮られては困る自覚があるのなら、初めからこんな荒事に及ぶ必要はない。
どうやらこの馬主は、尊敬できないタイプのバカだ。頭まで悪い。
そう思うと、志穂もいささか冷静になれた。バカの相手には慣れている。
「言っとくけど、ウチは五億じゃ買えないと思うよ」
「ハハハ、面白いお嬢さんだ。なら、どうして五億じゃ買えないか言ってみたまえ。中学生なら算数はできるよねえ?」
「来て。見た方が早い」
父親に止められたが、構うものかと馬主を放牧地へ連れていく。
この放牧地に広がる、不恰好なポンコツクソコース——偽ロンシャンの価値に気づけるかどうか。その試金石として連れてきたものの、答えは単純だった。
「こんなボロの仮コースに、それほどの価値があるというのか! これは面白い!」
志穂はもう怒る気も失せた。これを一目見てわからないようでは、話にもならなかったからだ。
「アンタ素人でしょ?」
「こんなひどいコースに価値があると思っているならそれこそ素人だな」
「凱旋門賞知らないんだ?」
「ふざけないでくれ。ロンシャンには足を運んだこともある」
「これはパリロンシャン競馬場のコピー。標高差、距離、曲率。それに芝質。ほぼ完全にロンシャンを再現してる。ないのは権威だけだね」
男は口を大きく開けて愕然としていた。ダメ押しで、従業員が趣味で撮ってくれたドローンの空撮写真とロンシャンを重ねてやる。完成直後こそゆがみもあった偽ロンシャンは、毎日少しずつ調整を繰り返してどんどん本物に近づいていたのだ。
「あと完成にはもうしばらくかかるけど、坂路コースも作ってる。予定では八百メートル。美浦トレセンにあるのと同じくらいかな。ちなみにウッドチップは手作り」
「な、に……?」
「で。今はもう、ウチを外厩として使ってくれてる馬主もいる。それに、凱旋門を目指す重賞級の馬も預かることになってるから」
取材班は必死でメモを撮っていた。さっきの適当なインタビューなどより、よほど使い道のある映像だと判断したのだろう。であれば、この馬主の顔はモザイクなしで放送してほしい。他のホースマンたちへの注意喚起になる。
「これでも五億で足りると思ってんの? 算数からやり直せよバカ野郎」
「こいつ——」
男は、志穂の胸元を一瞥して言葉を失った。貧乳だからではない。
ツナギの襟で輝く、金の蹄鉄徽章を目にしてしまったのだ。
「なぜその徽章をつけているんだ! それはあの御大に——!」
「認められたからね。その超一流牧場に」
男はそれ以上、何も言わなかった。あれだけ悪態をつきカネをちらつかせておきながら一言も残さずに高級車で退散したのは、間違いなく金の蹄鉄のおかげだろう。
ありがたい反面、超一流牧場の影響力が恐ろしい。
「親父、片付いたよ」
「ハハハ! まったくお前は大したヤツだ! 父さんは鼻が高いぞ! 育てた覚えないけど!」
「こっちも育てられた覚えないっつーの」
とりあえず、牧場を守れたのだろう。ふう、と長い息を吐くと、取材班がにわかに色めき立っていた。
「さっきの映像も使わせてもらっていいですか!? これはいいドキュメントになります!」
「訴えられないようにうまくやって。私、忙しいから。ハルーッ!」
呼ぶと駆けつけたハルに跨って、志穂は仕事に戻っていく。
放牧地を駆けていく女子中学生の背中を撮影しながら、カメラマンはぼそりと呟いた。
「……逸材だ。ウチで抑えた方がいいな」
かくして本人の預かり知らないところで、馬産家女子中学生の噂は大きく広がっていく。
これが志穂をさらに忙しい日々に突き落とすことは、語るまでもない。
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