第99話 呪う寒気にお覚悟を

 アルゼンチン共和国杯、パドックは十八頭。

 重賞初挑戦から、G1すら好走した善戦馬まで。海千山千の勝ちに飢えた者たちが集う中、ただ一頭、別のものに現を抜かす女馬がいた。

 アンティックガール。

 その名の通り古風な語り口で、背後を歩くクリュサーオルに自己紹介する。


『申し訳ありません。モタ様にお目にかかって取り乱してしまいました。わたくし、過去二度ほどご一緒させていただきました、アンと申します』


 クリュサーオルは自身を襲う寒気の正体に気づく。自身を除いた十七頭。それぞれに勝ちたいと気勢を上げているが、このアンティックガールだけは明確に気合いの入り方が違っていた。


『モタ様だァ……?』

『嗚呼、失礼いたしました。以前、メスガキ様が貴方様のことをそうお呼びになっていたところを聞き及びまして、不躾ではあると思いつつも……』

『呼ぶならクリュサーオル様と呼べ。子分が遺した名前だからな』

『かしこまりました、クリュサーオル様』


 クリュサーオルは居丈高に鼻息を鳴らしていた。もっとも彼には、アンティックガールがどれほど強い感情を抱いているかなどわからない。ただ素直な子分としか考えていなかったのだった。


『おう! テメエ物分かりがいいな! 特別にオレ様の子分にしてやるぜ!』

『子分……。それは、どういったものでしょう?』

『そりゃァテメエ……』


 クリュサーオルが子分扱いしているのはもう亡くなった斉藤萌子にハル、レイン、そして志穂メスガキだ。まだ走れない彼らに対して威張るためだけに親分を名乗っている訳ではない。


『子分ってのは、オレ様の走りを楽しみにしてるヤツだ。だが今は、それだけじゃねェ』


 親分として、子分にしてやれること。そう考えて、いつかの志穂の言葉を思い出す。


 ——親分なら走れッ!

 世界で一番カッコよくて強くて速いって!

 親父譲りの黄金の末脚で証明してみやがれーッ!!! ——

 

『子分はな、オレ様が世界一になることを願ってンだ。オレ様の走りがヤツらの励みになンだよ。そいつらの期待に応えてやれなきゃ、親分失格だろ?』

『つまり……?』

『ったく、皆まで言わせンなよ……』


 親分の仕事。それは子分に実力を証明し、彼らの希望や指針となることだ。

 早生まれのハル、リハビリ中のレイン、どちらも競争において大きなハンデを抱えている。そんな子分たちが諦めず、自身のように強くなりたいと希望を胸に生きてもらいたい。

 ただ、そんなことを面と向かって言えるほどクリュサーオルは素直ではなかった。「希望を与えたい」だなんて口にした途端陳腐になる。

 背中で語るのが親分だ。わざわざ語るのは恥ずかしくてダサいのだ。

 なおも尋ねてくるアンティックガールを黙らせるべく、クリュサーオルはピシャリと言い切った。


『子分なら、黙ってオレ様に着いてくりゃいいんだよ!』


 もちろん、クリュサーオルにはわからない。

 その言葉がアンティックガールにどう受け取られるかなど。


『そ、それは! もしやこのわたくしをめとっていただけると——』

『うだうだ言うンじゃねェ! 言わせンなよ、恥ずかしいヤツだな!』

『はい……♡』

『なんだ、また寒気がしやがる。風邪でも引いたか……?』


 彼女の秘めたる想いなど知るよしもないクリュサーオルは、寒気の正体を探っていた。

 このレースはジャパンカップに向けての最終関門。世界に挑むためには、ここを勝ち切らなければならない。それは親分としての務めだ。全員の意気込み、歩様を見渡して、今回の強敵を見定める。


『おい。テメエの見立てではどうだ? 強いヤツはいるか?』

『クリュサーオル様の他など、目に入ろうはずもありません』

『よくわかってンじゃねェか! ……と言いたいところだがよ』


 褒めそやされて上機嫌にはなったものの、それで油断するほどクリュサーオルも愚かではない。現に、時折突き刺さるような寒気の正体が知れないのだ。

 相当に強烈な敵意を向けられている。それは少なくとも子分となったアンティックガールではない。残る十六頭の中に、自身を敵視するものがいる。


『オレ様はこの勝負だけは落とせねェ。テメエもだろ、アン』

『その通りでございます。わたくし、この身を賭して貴方様に挑みます。そうでなければ、貴方様に相応しい子分になどなれません』

『ゲハハハッ! いいじゃねェか、そういうバカは好きだぜ!』

『嗚呼、いまわたくしのことを好きと……♡』

『ならテメエ、全力でかかってこい! オレ様を倒す勢いでな!』

『あ、貴方様を倒すだなんて……♡ そんな熱烈な……♡』


 またしても謎の寒気に襲われたが、クリュサーオルは鼻息荒く気合いを入れた。

 そして駆け寄って背中に乗る相棒に首を振って答え、パドックから地下馬道を通り光さす本馬場へ入っていく。

 アルゼンチン共和国杯。東京競馬場、芝二千五百メートル。

 スタート地点はダービーやオークスより百メートル後方に伸びた位置。スタート直後に急坂があるぶん、二千四百よりもパワーを要する舞台。さらに前日の雨で芝は稍重から重。ぬかるんでいる場所すらあるが、クリュサーオルはこの重たい馬場には慣れていた。

 一勝クラス、二勝の町田特別と、クリュサーオルは府中の稍重の芝を走ってきた。ゆえに悪条件をものともしないパワーはすでに証明されている。


 用意されたゲート、13番にクリュサーオルが入る。奇数番が終わると偶数番。左隣に12番のアンティックガールがつけた。


『では、クリュサーオル様。ご覚悟を』

『おう! テメエもせいぜい頑張れ』


 大外18番の枠入り。そしてゲートが開く。

 寒気の正体がわからないまま、クリュサーオルは緑色の絨毯の中へ飛び出した。


 *


「アルゼンチン共和国杯、スタートしました! 前頭揃った出足。13番クリュサーオルは後方からのスタート。一周目のホームストレッチを十八頭がかけていきます」


 勝手知ったる府中は、やはり大地が雨で緩んでいた。ただ歩くだけでも力が必要な馬場を走るには、序盤のセーブが欠かせない。それはクリュサーオルほか十七頭、考えていることは同じだ。ペースはやはりスローで流れている。


「ハナを奪っていくのは3番ルーラーオブマキマ、そして1番メキシカンフライト。そこから一馬身あけて2番ワタシハサイキョウ、5番サイバーパンク、9番アリスタクラート、11番コシノパンツァー。17番レアルーナ、18番フォルツフォルザもここ。かなりの塊になっています」


 重たい馬場ゆえ、速度は出ない。最終直線の後方一気ですべてが決まると全人馬が確信する状況だ。

 先頭を走る馬には、クリュサーオルも見覚えがあった。前走、シルヴァグランツェ、マリカアーティクとバカをやったときにレースを支配していたもの。


『この地面だ、無理には行くべきじゃねェってか』


 中長距離にくわえて重馬場。スタミナ消費は尋常ではないだろう。それゆえ鞍上の判断も温存策になっている。全馬ともに一気に行きたい気持ちを抑えての我慢のレース展開。下手に飛び出したものから足元を掬われる。


「そして一コーナー入っていきます。馬群中団、内から4番トリステラ、6番ゴーシュイン、7番ピルエットシャトー。その背後には8番ハープーン、12番アンティックガールが前方を伺っている状況」


 左隣から発走したアンティックガールは先行馬だ。あまり有利なポジションとは言えない揉まれる位置につけていても、落ち着いて走っている。折り合いの上手い賢い馬の証だろう。やはり勝ちに来ている、クリュサーオルは実感する。

 途端、クリュサーオルはまたしても寒気に襲われた。


『いったいどこのどいつだ? オレ様を敵視してるバカ野郎はよォ……!』


 見渡してもわからない。クリュサーオルはいつもの殿だ。少しずつ速度を上げて隊列を確認していくも、その正体は掴めない。


「そして後方、14番サダコ、15番ザイゼンゴエモン。その背後ラチ沿いに16番レジムドテルール、10番トルヴァートル。殿はクリュサーオルですが、じわりじわりと上げてきています」


 コーナーを外目に周りながら、クリュサーオルは内を走る馬を一頭ずつ識別していく。

 トルヴァートル、レジムドテルール、ザイゼンゴエモン。いずれも必死で走ってはいるが、クリュサーオルを敵視する様子はない。むしろ走ること以外考えられないほど集中しきっている。


『オレ様の勘違いか……?』


 視線を逸らし、二コーナーを回り切る。向正面、長い直線につけたところで、クリュサーオルは今度こそ猛烈な敵意を痛感した。

 内ラチ沿い。自身の左側の体毛がピリピリと痛む。


『ア、アァアア……』

『……テメエだな?』


 視線をやる。その正体は、14番。

 不気味な黒鹿毛の馬、サダコ。


『テメエ、どういう了見だ? オレ様になんの文句がある?』


 問いかけると、サダコは奇怪な声を上げていた。


『……ユルサナイ……! リア充……ツブス……!』

『ヒッ!? こわい!?』


 クリュサーオルは速度を上げた。しかしそれに合わせるように、サダコもまた追ってきた。


『ゼッタイ……オイツク……! リア充……ノロッテヤル……!』

『何も悪いことしてねェだろうがァッ!?』


 恐ろしい追いかけっこが幕を上げた。

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