第95話 月夜の初めての友達

 それは志穂が寝静まった頃。黄金色の満月が輝く夜のことだった。


『その柵から先はボクの家! 入っちゃいけないんだよ!』


 柵前でうろうろする野生の牡鹿を追い払おうと、ハルは鼻息荒く吠えていた。牡鹿の角は大きく鋭い。刺されでもしたら大ケガだろう。だが縄張りを——牧場せかいを守りたいハルは、逃げずに柵越しに立ち向かっていた。

 長きに渡る、視線を逸らした方が負けの睨み合い。その軍配はハルに上がった。背を見せて敗走する牡鹿の行方を見張るべく、ハルは小高い丘に駆け上がる。遥か地平線の彼方まで伸びる草原の中に牡鹿が消えたのを確認して、ふんすと鼻を鳴らした。


『よし! 今日も世界の平和は守られた! シホに自慢しよーう!』


 夜間放牧中のハルは、夜目と月、そして厩舎の隣に立った志穂の家の明かりを頼りに、小高い丘を駆け降りる。手作りのラチに沿って右回りで降りて、厩舎そばにいるはずの彼女に鼻先を突き刺そうと突進した。受け止めてくれるのが楽しいのだ。

 だがその日、志穂はいなかった。

 鉄格子で囲われたふたつの馬房には、クリスと新顔がそれぞれ入っているだけだ。


『あれ? おかーちゃん、シホは?』

『おウチで寝てるんじゃないかしらあ〜。もう夜遅いしねぇ〜』

『えーッ!? シカ追い払ったんだよ!? 大きな音立てて起こしてくる!』


 ハルは知っている。志穂が水を汲むときに使うバケツは、蹄で叩くと強い音が鳴る。ガンガン殴り続けたら志穂だって起きて出てくるはずなのだ。めざとくバケツを見つけて蹴飛ばそうとするも、クリスに嗜められてしまった。


『ダメよ〜。人間はちゃんと寝ないとフラフラになっちゃうからねえ〜』

『でもボクいいことやったよ!? ご褒美ニンジンほしいー!』

『明るくなるまで待つのよ〜?』

『むーっ! 朝までひとりとか退屈だよー! かけっこしたいー!』

『眠っていれば時間も過ぎるわよぉ? おやすみ〜』


 ふああと眠そうにあくびをして、クリスは横になってしまった。ちなみにクリスの馬房は、いつでも開け放たれている。夜間放牧中にハルが帰ってきてもいいように志穂が開放しているのだが、ハルはほとんど馬房には帰らなかった。

 つまらないからだ。確かによく眠ることも大事だが、ハルは充分眠っている。


『おかーちゃん遊んでよ〜!』


 そしてクリスはクリスで、馬房の扉が開いていたとしてもほとんど外に出ることはないのだった。アウトドア派な娘ふたりとは対照的に、母は強烈なインドア派である。


『つまんない……』


 いじけて馬房そばをうろついていたハルの目に、隣の馬房で夜を明かすプリンの姿が留まった。

 志穂によると、自身と同い年の女の子。つまり長い夜は退屈なはず。きっと遊び相手になってくれる。つまりもう友達。むしろ友達じゃなくて家族なのだから仲良しなのでは?

 一足とびの三段論法で、ハルはうきうきしながら背を向けているプリンに話しかけた。


『ねーねー! キミ、プリンって言うんだよね! 遊ぼうよ!』

『…………』

『フフフ、寝たフリしてもボクわかっちゃうよ! さっきからずっと外見てるし!』


 すこやかファームの馬房は、出入口向かいに首を出せる小窓がある。小窓は牧場の正面玄関に、出入口は偽ロンシャンもある放牧地に面している。それを理解しているハルは厩舎をぐるりと回って、首を出しているプリンに笑いかけた。


『ほら、起きてた!』

『…………』

『ねー、プリンは走るの速い? 前はどこに住んでたの? 友達はいる?』


 友達、という言葉にプリンは小窓から首を引っ込めた。

 『あ! かくれんぼだ!』と、ハルはまた厩舎を回って今度は出入口側でプリンを待ち構える。


『へへーん! 見つけた! もっとうまく隠れないとすぐ見つかっちゃうよ?』

『……かくれんぼしても、すぐ見つかっちゃうから』

『そーなんだ! いっしょに遊ぶ友達がいたんだね?』

『……友達じゃない』


 プリンは消沈したように首をもたげる。そのまま馬房の隅で、ハルから距離を置くように小さくなっていた。

 一方、プリンの反応がハルにはわからない。志穂から聞かされたのは、彼女が新しい家族であるということだけだ。


『えー? かくれんぼしてくれるなら友達だよ?』

『……見つかったら噛まれたり、体当たりされる』

『へー! シホに教わったのと全然違う。そういえば難しいコト言ってた。いろんな遊びには《ろおかるるうる》っていうのがあるんだって!』

『……かくれんぼって、痛くないの?』


 プリンの問いかけに、ハルはきょとんとしていた。

 育った牧場せかいが違うと、考え方もちょっと違うらしい。志穂が言っていた《ろおかるるうる》の概念が、ハルにはなんとなく理解できた。


『ボクの知ってるかくれんぼは痛くないよ? ていうか痛い遊びなんて面白くないよ!』

『…………』

『でもボク、シホしか友達いないから他の遊び知らないんだよね〜。レインお兄ちゃんやモタおじさんは友達というよりお兄ちゃんだし〜』

『……きみも友達いないの?』

『ハルだよ! かくれんぼしよ! ボクはどこでしょう!』


 告げて、ハルはぴゅーんとお気に入りの丘の上まで駆けていった。きっとプリンが見つけにやってくるはず。それを楽しみにしばらく待っていたが、彼女がやってくる気配はない。ちなみにその間、一分である。ハルは意外とせっかちだ。

 すぐさま厩舎にとんぼ返りしたハルは、鉄格子の中で佇むプリンに言った。


『えー? 探しにきてよー? あ、そっか。これも《ろおかるるうる》だよね。かくれんぼは、迎えに行かなきゃいけないんだよ? わかった?』

『…………』

『じゃ、もう一度ね!』


 そしてハルは、今度は厩舎の壁際に隠れる。ちょうど出入口の鉄格子側からも、首だけ出せる小窓からも見えない死角だ。今度は裏をかいたとニヤニヤしながら、ハルは壁越しに話しかける。


『ボクはどこにいるでしょう! 迎えに来て!』


 だが、待ってもプリンから返事はない。プリンが遊びを嫌いなのかもしれない、なんて露とも思わないハルは、ゆっくり出入口のそばまで戻っていく。


『あれー? どうやるかうまく伝わらなかったかな? ボクの説明が悪いのかー。そういえばシホにもよく怒られる気がする〜……』


 がっかり、しょげかえったハルが首をぷらぷらさせていると、プリンがようやく口を開いた。


『……わかっても、出られないから……』

『あ、そっか! おかーちゃんの家は開けっぱなしだけど、プリンの家は開いてないんだ!』


 だから探しに来れないのか、とハルは納得した。

 厩舎の扉は、鍵などではなく木製のかんぬきで閉ざされている。片開きの扉が開かないように、横木で押さえているだけの簡素なものだ。

 志穂が扉を開けて中に入るとき、どうしていただろうとハルは思い出す。


『わかった! ボクが開けてあげる!』

『えっ……!?』


 たしか志穂はいつも、扉に挟まった横木を持ち上げていた。プリンの馬房にも、同じような横木がハマっている。これを斜め上に「よいしょ」と持ち上げると扉が開くのだ。


『これを持ち上げればいいんだよね。んしょっ……!』

『そ、そんなことしたら……あの人間に怒られるよ……?』

『うん! でもシホは優しいから平気! ボクがやったことにしたらいいもんね!』

『で、でも……!』

『うりゃあーっ!!!』


 鼻先と頬を巧みに使って、ハルは見事に扉のかんぬきを吹っ飛ばしていた。ただ扉は内側から外側にかけて開く片開きのもの。ハルではどうにも勝手がわからない。


『そっちから押したら出られるよ! プリンがんばって!』

『えええ……でも……』


 馬房の隅で二の足を踏んでいるプリンに、ハルは笑いかけた。


『たまにシカが出るけど、ここはのんびりしてて平和だよ! いっしょに遊ぼ!』

『……他の子は……イジワルする子はいない?』

『いたらボクが蹴っ飛ばしちゃうよ!』


 へへっと得意げに軽快なステップを踏んで、ハルは扉から離れた。生来のせっかちさゆえにその場でくるくる右回りに旋回する癖を見せてはいるものの、ハルはハルなりにプリンを待っている。

 するとプリンはゆっくりと近づき、恐る恐る頭を扉に押し当てる。ギイ、と金属の擦れる音を響かせながら、扉は開け放たれた。


『脱出成功! こっち来て!』

『あ、待って……!』


 出られたとわかるや否や、ハルは放牧地めがけて駆け出していく。いつもの偽ロンシャンのスタート地点から猛然と遥か彼方の丘を目指す。プリンもついてこいと言われた手前、ハルの後を追って、ふたり以外誰もいない、月夜の世界に駆け出した。


『とうちゃーく! ボクの勝ちー!』

『だ、だってハルの方が先に走ってた……!』

『あ、そっか! じゃあ引き分け!』


 丘の上で足を止めて、ふたりは夜の帳が下りた世界を見渡した。

 彼方に広がるのは人跡未踏の大自然。すこやかファームの灯りと、遠くにお隣さんの洞爺温泉牧場の光が見えるくらいで、人の形跡はほとんどない。大地を照らすのは明るい満月と、それに負けない光を放つ星々だけだ。


『ここ、ボクのお気に入りの場所なんだー! 見渡せていいよね! 今日はお月様も綺麗だし!』

『…………』

『あっ!』


 言うと、ハルはプリンからやや距離を置く。そしてしげしげとプリンの馬体を眺めて告げた。


『プリン、すっごく毛が綺麗! なんかお月様みたいに光ってる!』

『……こんなの、いいものじゃないよ』

『えー! いいなあー! ボク真っ黒だからそっちのがいいー! それかネージュお姉ちゃんみたいな真っ白がいいなー! 目立つしカッコいい!』

『カッコいい……? だけど、このせいでわたしは……』

『ねー! 友達になろうよ! おかーちゃんもシホも体力なくてつまんなかったんだー! いっしょにかけっことかかくれんぼしよ!』


 ハルはプリンにピタリと体を寄せる。プリンが他の馬に慣れていないのは、ハルにもなんとなくわかった。きっと彼女にも友達がいないし、初めて連れてこられた場所だから不安なのだろう。ハルも初めてここに連れてこられたとき、同じように不安だったことを思い出す。


『それに、ここはみんな優しいから大丈夫! ボクもいるしね!』

『……わたしなんかと、友達になってくれるの?』

『なんかじゃないよ。プリンだからだよ!』


 告げて、ハルはプリンの後肢を嗅ぎにいく。馬なりの挨拶で友好の証。これまで歩んできた歴史が、ある程度わかる臭いの名刺を嗅ぐ。

 プリンはかなりのストレスを抱えていた。その理由はハルにはわからない。志穂に聞けばわかるのだろうけれど、プリンが言い出すまでは尋ねるのをやめようと思う。言いたくないことなら言わなくていいから。


『友達、でいいの……?』

『うん! 初めて同い年の友達できた!』


 ご機嫌なハルの後肢を、プリンもまた嗅いだ。プリンにもハルが嘘を言っていないことは伝わる。この牧場せかいが平穏で幸せに満ちていること。ストレスを与えてくるような存在がいないこと。それを充分嗅ぎ分けて、プリンは丘の上に横っぱらをつけて寝転んだ。


『ね、いいとこでしょ!』

『……そう、だね』


 それによりそうように、ハルも横になる。

 煌々と天から降り注ぐ月の光が、黒鹿毛と月毛のふたりを照らす。風の音、虫の羽ばたき、森に潜む動物の鳴き声。それらを静かに聴き入りながら、プリンの初めての、孤独ではない夜は更けていった。

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