第85話 勝ち取った先の景色
表彰式にふたり並んだところで、スランネージュもプレミエトワールも状況を理解した。
十数分を要した写真判定の結末は、一着同着。二頭まったく並んでの入線で秋華賞は締め括られ、晴れて一冠をもぎ取った馬と、三冠馬が誕生した。
関係者は互いの健闘を讃えて喜び合っている一方、スランネージュはどう受け止めていいか迷っていた。勝つのがふたりなんて聞いたことがないからである。
『こんなことあるんだねー……』
『そうね』
呆然と呟いた独り言に、プレミエトワールも声を合わせる。彼女の方は迷う様子もなく、平然とそして淡々と、執り行われる表彰式の様子を見守っていた。
ちなみに同着での決着は珍しいことではあるが、過去に例がない訳ではない。
歴史を紐解けば、のちに牝馬三冠を達成するアパパネがオークスをサンテミリオンとの同着で締め括っている。並ぶものがいたとしても三冠の名誉に瑕疵がないのは当然のこと。激闘の果てに三冠馬に並んだスランネージュの栄誉と、プレミエトワールの安定した強さが今後語り継がれるだけだ。
『あー! できれば勝ってキミを越えたかった!』
『ええ、気が合うわね』
横目に視線を合わせると、込み上げてくるのは可笑しさだけだった。理解できてしまえば、この結末はただただ笑ってしまう。
勝ち負けだけで語るなら、本気でぶつかり合った末の引き分けだ。だけれど、スランネージュ自身でも認めるほどの強さの持ち主であるプレミエトワール——みじめを味わわせてきた相手に並べたということがただ嬉しい。
とたんに疲れた脚や、汗が乾いて気持ちの悪いむず痒さすらも勝利の喜びに感じられる。
『これまでで一番楽しかったわ。また走りましょう?』
『キミはホント、呆れるほどのレースバカだね』
『それも冗談?』
『ま、家族のために走るのは私も一緒だから、私もきっとバカなんだろうな』
『そう』
今日の勝利を、故郷の家族たちは喜んでくれるだろうか。そして故郷がもっと幸せに包まれるだろうか。スランネージュは夢想する。
もう誰にも、自分のような飢えて荒んだみじめな人生は送らせたくない。
故郷で暮らすものたちのために、自分ができることはただひとつだ。
『キミのおかげで、やることが見つかったよ』
『どんなこと?』
『これからも全力で走り続けること。それ以外にないっぽい⭐︎』
自身の走りで救われるものたちがいる。ならば勝とうが負けようが全力で走るだけだ。
賢い頭が導き出したのは、バカ丸出しのシンプルな結論だ。だが、スランネージュはそう思えたことが誇らしい。
『そうね。素敵だと思うわ』
『なら次は手加減してくれてもいいよ? むしろ手加減しろ⭐︎ ラクに勝ちたい⭐︎』
『手加減した私に勝って、貴女は満足できるのかしら?』
『あはは。冗談言えるじゃ〜ん♪』
プレミエトワールの問いかけへの答えはもちろん、ノーだ。
加減されて勝ったって虚しいだけ。一時は逆の立場でそう
現金なものだが、ライバルとの死闘はスランネージュにとってもまた、楽しいものだった。
『テッペンで待ってて。ハルちゃんよりは早く会いに行ってあげる』
『ええ』
短いひと言で答えた直後、プレミエトワールは二度見して言う。
『……え? 一緒に来てくれないの?』
『シホちゃんでもいればわかるんだけどね。残念だー』
『さみしい……』
表彰式を遠巻きに見つめるスランネージュの隣に、プレミエトワールが寄り添ってくる。スランネージュ自身も特に嫌がる様子なく、並んでの撮影を受け入れた。
令和六年三歳世代、牝馬路線の主役はふたりいた。
三冠馬プレミエトワールと、その好敵手スランネージュ。
競馬史にも記憶にも残るふたりの物語は、これからも紡がれていくことだろう。
——そう結んだ花村は、猛スピードで書き上げた記事を《月刊馬事》ウェブ版にアップロードしたのだった。
*
秋華賞から数日後。美浦の田端厩舎。
開業初年度でのG1勝利という偉業を成し遂げた田端だったが、当然それを誇ることはなかった。
むしろ誇るどころか余計重責を感じるばかりだ。なんせスランネージュはイチから育て上げた馬じゃない。田端が真価を問われるのは今年入厩してきた二歳馬だ。もし親のコネで面倒を見る預託馬の成績が振るわなければ、馬もスタッフも皆路頭に迷うことになる。
「田端せんせー! G1勝利おめでとうございまーす!」
「ああ、ハッシーありがとう……胃薬持ってない?」
「のど飴なら」
「……それでいいや。ちょうだい」
厩舎を訪れた羽柴のいちご味のど飴を放り込んで、田端はやはり座り込んだ。厩舎で懸命に働いてくれているスタッフには見せられない弱みも見せてしまえるのは、羽柴の人徳の成せる技だろう。彼女の背後に存在する人徳者、香元の存在もありがたくて、田端は大きくため息をついた。
「まさか同着で勝っちまうとは思わなかったなあ……」
「え〜? まるで勝ってほしくなかったみたいですよ?」
「もちろん勝ってほしかったが、勝ったら勝ったで思うところはあるんだよ。ハッシーも親父さんが調教師ならわからない?」
「感じませんね。父さんは父さん、私は私ですし」
「そういうもんかね……」
「それに先生、放牧から帰ってきたネージュの調教がんばったじゃないですか! 元気出してください!」
バンと背中を叩かれて、その拍子にのど飴を飲み込んでしまった。咳き込んだ田端の背を今度はさすって、羽柴が尋ねてくる。
「ネージュの次走はどうするんです?」
「その前にひだまりファームで短期放牧だ。そろそろ出発するとこだよ」
ちょうどいいタイミングで、近くの通用道に馬運車が横付けされた。旅支度を終えた厩務員が、アイドルホースとしての人気を不動のものとしたスランネージュを引いて厩舎から出てくる。
羽柴はスランネージュの馬体を撫でて、にこやかに笑った。
「がんばったね〜。ゆっくり実家で休んできてね〜」
愛嬌たっぷりに羽柴のくすぐりを堪能して、スランネージュは馬運車に乗り込む。その背は少しだけ、以前羽柴が見た姿とは違っていた。
「なんか自信がみなぎってる感じですね! これも志穂ちゃん効果ですよ!」
「さっきビール飲んでたからじゃねーかなあ……」
そして馬運車は田端ら数名に見送られ、片道一時間弱の成田へ向けて旅立った。
スランネージュはがんばっている。なら人間がこれ以上弱音を吐いてはいられない。田端もまた痛んで仕方がない腹を括り、仕事に戻ることにした。
問題がなければスランネージュの次走は一ヶ月後。
世代戦を卒業した三歳馬たちがいよいよ歴戦の古馬に立ち向かう、牝馬最強決定戦。
京都芝二千二百メートル、《エリザベス女王杯》がその舞台。
「プレミエトワールが出てこないのが、吉と出るか凶と出るかだな……」
一方、三冠で乙女の園を制圧したプレミエトワールは、外の世界へ飛び出す予定だ。
次走の目論見は《ジャパンカップ》。もしこれを勝つようなことがあれば、彼女は並の三冠牝馬ではなくなるだろう。
「プレミの先生もすごいプレッシャーでしょうね。今後ずっとジェンティルドンナやアーモンドアイと比較されることになっちゃうんですから」
「栗東の草苅先生んトコに何か差し入れしとくか……」
「なら私プリン食べたいです!」
羽柴に言われるまま、田端はスマホで検索した。
ワードは 贈答品 プリン 胃にやさしい である。
*
『え……?』
ひだまりファームに到着したスランネージュは、懐かしい存在に脚を止めていた。
出迎えてくれたのは佐々木夫妻と、毎度訪ねてくる身なりの整った男性。そして、一頭の繁殖牝馬。困窮していた時代にいなくなってしまった母、クロムネージュである。
『おかえりなさい。綺麗な白馬になったね』
『お、お母さん……? あー、これシホちゃんの仕掛けたドッキリでしょ? だってあり得ないし⭐︎』
『あなたの活躍はみんなから聞いたよ』
たとえドッキリだとしても構わなかった。もっとよく確認しようとスランネージュは母に近づく。
匂いを、温かさを。そしてやさしい声を耳にしただけで、過去の記憶が蘇ってくる。
間違いない。視線が低かった仔馬時代よりも小さく感じられたけれど、彼女はあの頃引き離された母だった。
『なんで……?』
問いかけた直後に、志穂の言葉を思い出す。スランネージュの走りで、牧場は救われた。近々手離した母馬も戻ってくる。あの時は話半分に聞いていた与太話が、現実の光景として目の前に広がっていた。
この間の激走が、母を呼び戻した。
本気で走ったおかげで、大切な家族を取り戻せたのだ。
『よくがんばったね。あなたは自慢の娘だよ』
『お母さん……。お母さん、お母さんッ……!』
スランネージュは声をあげて泣いた。そして久しぶりの、ずっと願い続けてきた母の体温を味わおうと、ずっとクロムネージュに肌を寄せ合っていた。
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