第84話 静かなる雪と一番星

 籠の鳥もとい籠の白馬は解き放たれた。


『はァ? なに逃がしてんの? あり得ないんですけど』

『チィッ! 追うぞバカ女!』


 向正面なかほど。直線区間の他馬の檻を打ち破って、スランネージュは駆け出した。得意の内ラチ沿いを捨てて外目に持ち出したスランネージュのとっさの判断を鞍上も了承。ずっと背に乗せてきた頼れる相棒の「行け」の指示が、頼もしかった。

 一気にアドレセンスキッス、アプリオリに並びかける。追いかけようと二頭は騒いでいるが、スランネージュが彼女らを相手にすることはない。

 相手にしているのは不倶戴天の好敵手。ただ一頭のみだ。


『出られたわね』

『どいて! まだキミに前を譲る気はない!』


 スランネージュは後肢に満身の力を込めて踏み切った。勢いを増す加速で怒涛の追い上げを開始する。半馬身ほど前を先行するプレミエトワールを抜き去る。上げすぎたペースに反応して、鞍上からは減速指示が出た。理由はわかる。もうすぐ三コーナーの丘に差し掛かるからだ。

 視界からプレミエトワールは消えた。ぴったり後方につけているのだ。


 これまでずっと怯えてきた、志穂いわくの「カリスマ性」を感じる不気味な息遣い。

 今までそれが、自身をドン底に突き落とす悪夢のように思えて仕方がなかった。みじめさから逃げ続けてきたスランネージュに、みじめさを突きつける存在。それがプレミエトワールだった。

 だが、今では違う。


『出してくれたお礼! 風除けになってあげるから着いてきな!』


 おそらく負ければ、またみじめな思いはするのだろう。

 だがそれ以上に、確かめてみたい。味わってみたい。

 レースのことしか頭にない、自分を誇ることのないレースバカ。

 ライバル、プレミエトワールとの本気の死闘の末に、自身が何を思うのか。

 そのためには、ふたり揃って駆け抜けないと意味がない。


『キミが着いてこれなかったら私の勝ちだから!』

『いいわ、着いていく』


 背後から聞こえるプレミエトワールの答えはシンプルだ。もし先行して風除けを勤めるスランネージュが失速しようものなら共倒れになるというのに、スランネージュ自身よりもスランネージュの脚を信頼しきっている。


『信頼が厚いね!』

『貴女を信じて走っていたから』


 ひと息入れて、スランネージュはライバルの信頼を全身に伝えて踏み込んだ。三コーナーにかけての高低差三メートルの坂を、加速しながら登っていく。


「先頭はいまだファイアスターター! 坂を下って三、四コーナー中間! プレミエトワールとスランネージュ追い上げているが間に合うのか! このまま逃げ切りを許してしまうのか!?」


 ちらりと横目に見た先頭はもう坂を下って最後のコーナーを回っていた。勝ちの目が徐々に薄くなっていても、諦める気などさらさらない。ゆっくりと坂を登っていく他馬を引きちぎりながら、二強はぐんぐんと順位を上げていく。


「すごい脚だ! スランネージュとプレミエトワール、揃って淀の坂を下って行く! 残り八百メートルあまり、猛然とした追い上げで食らいついてきた! これがスランネージュです! これがプレミエトワールです! 令和二強です! 猛烈です!」


 下り坂は心地よかった。猛然としたスパートに、大地が力を貸してくれている。ラチ沿いを走る他馬も速度を上げ始めているが、スランネージュは構わず突き進む。

 信じるものは背に乗せた鞍上の判断。そして何よりも自分の脚への信頼と、自分の脚を信じたライバルへの信頼だ。


『邪魔だっつってんのッ!!!』


 京都競馬場。勝負の四コーナーにかけて先行馬が膨らみかけていた。ちょうど同期、スカイライトが三番手を行くクラースナヤの外側を回っている。

 コーナーはなるべくインで回りたい。スランネージュは先行馬、これまでずっと内ラチ沿いを独占してきた。だから内側がいかに有利かは身に染みてわかる。外を走れば消耗するのだ。

 だが、今さら内側につける理由はない。速度を殺してまで有利なイン側、馬群の中に突っ込むよりは、多少距離的に不利になったとしても速度を上げたままコーナーを周り切りたい。

 鞍上が鞭を打って合図をよこしてきた。スランネージュは背後に向けて叫ぶ。


『このまま一気にブチ抜くから!』

『ええ。楽しくなってきた……!』


 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。プレミエトワールがその本性を剥き出しにして、スランネージュよりさらに外に並びかけてきた。

 彼女の体力の心配は無用だ。風除けで温存した脚力はまだまだ余裕。聞こえてくる息遣いも、まるで上がっていない。まさに群れの先頭を走るに値する存在。それが恐ろしいが、今ばかりは頼もしい。


『ねえ、私の脚は保つと思う?』

『保つわ。私が余裕なのだから』


 一方のスランネージュは、わずかに息が上がっていた。プレミエトワールが嘘をついていないのであれば、やはり規格外のバケモノだろう。それでも死力を尽くすと決めていた。

 四コーナーをふたり並んで大きく回る。横目に視線を交わしたスカイライトは驚いて瞳を見開く。しかしすぐに前方、まっすぐ伸びる四百メートルのホームストレッチに意識を戻した。


「さあ四コーナー回って直線につける! 内からクラースナヤ、スカイライト! そしてやはり上がってきた主役の二頭、お客さんはみんな待っていた! スランネージュとプレミエトワール! 最終決戦!」


 大歓声に迎えられ、幅広な直線に突入する。人間の大声が聞こえる。何を言っているかはわからないが、理解する必要もない。ただひたすら自由に、全力を出し尽くして走るだけだ。

 それはスランネージュの横ピッタリとつけるプレミエトワールもまた同じ。

 前方に見えるのは逃げ馬二頭のみ。こちらが駆ける一完歩ごとに距離が縮まっている。

 スランネージュは身を低く屈めた。誰より速くあることを願って、大きく踏み込む。


『勝負だよ、マリー⭐︎』

『楽しみましょう、ユキナ!』


 *


 ファイアスターター先頭! だがユニコーンルージュ並びかける!

 先頭ユニコーンルージュに変わる! しかし両馬ともに伸びが苦しい!

 後方からはクラースナヤ、スカイライト来ている!


 だが外! 揃いのピンクの帽子でスランネージュとプレミエトワールだ!!!

 かたや三冠! かたや辛酸! 常にわずかの差が明暗を分けてきたこの二頭!

 怪物が並んだ! 並んだ! 並んだまま譲らない! 譲らない!

 お互いにお互いを知り尽くした二強の追い上げ! 脅威的!!!


 このハイペースでも間に合うんです!

 囲まれていようとも出てくるんです!

 それがこの二頭! 静かな雪と一番星!!!


 令和六年三歳世代の主役は、ふたりいるんです!!!


 プレミエトワール先頭に代わった!!!

 だがスランネージュ差し返す!!!

 他馬はもう追いつけません!

 二頭の戦い! 二頭だけの戦い!!! マッチレース!!!


 三冠の悲願は譲らない!!! 最後の一冠は譲れない!!!

 差し返す! それをまた差し返す!!!

 プレミエトワールか!!! スランネージュか!!!

 大接戦!!! どっちだ!!! どっちだ!!!


 どちらなんだーッ!!!


 *


 着順掲示板には、五着までの番号が並んでいる。

 五着に9番クラースナヤ。

 四着に13番ユニコーンルージュ。

 三着に10番スカイライト。

 だが、一着と二着は空欄のまま。着差を示す掲示板には、写真判定を示す表示が踊っている。


 ゴール板の前を走り切ったスランネージュとプレミエトワールは、一コーナー途中で歩みを止めた。

 ふたりとも違和感を感じたのだ。普段とは聞こえる歓声が違っている。祝福するような興奮ではない。どこか戸惑ったり緊張するような雰囲気に満ちている。それに背に乗った鞍上も、指示を出す様子がない。


『……何かを待っているみたい』

『こういうときにいてほしいんだけどね〜。シホちゃ〜ん』


 志穂がいない以上、人間たちが何に気を揉んでいるのかふたりにはわからなかった。

 スランネージュがブーたれていると、三着につけたスカイライトが息を上げながら近寄ってきた。


『やー、着いてく相手間違っちゃったかな? もうちょっとだったんだけどね』

『ねえ。キミから見て、私とマリーのどっちが先だった?』

『んなのわかんないってかさ〜。相手にされてないみたいでくやしいんですけど〜?』

『そうね。気にも留めてなかった』

『ひどッ!?』


 はっきり言いすぎるプレミエトワールに、スカイライトは疲れもあってか大きく首を下ろしていた。しかし鞍上に、健闘を讃えるよう背中を撫でられて、くるりと背を向けてスタンドへ向けて歩き出す。


『でも、ま。次は負けない。キミたちを出し抜く私の活躍を、震えて待ってなね?』

『そうね。待ってるわ』


 例の『テッペンで待つ』ということだろう。全力で戦い抜いた後なのに次のことを考えているレース狂っぷりに、スランネージュは呆れて笑ってしまった。


『ホント、キミたち姉妹はそっくりだよ。妹ちゃんもとんでもないバケモノになるかもね』

『そうなってくれないと困るわ。一緒に走れないもの』

『で、勝つ気なんでしょ』

『そうね。母が苦心して産んだ妹よ。導くのは姉のつとめ』


 スランネージュも自身の母を思う。志穂によれば、母は近々故郷に戻ってくる。もしかしたら、まだ見ぬ弟や妹がいるかもしれない。それに血は繋がっていないにしても、弟や妹同然の、母二頭の子供たちもいる。


『ああ、だからキミは走るんだ……』


 プレミエトワールの走る理由。それはただひたすらに、家族を想ってのことだ。

 であればスランネージュにも理解できる。全力を果たしてでも勝ち切りたい。その気持ちに変わりはない。


『ったく、結局お前らなのかよ〜。はいはい、おめでとさん』

『次はウチが勝つからよろ〜』


 勝利を祝う歓声は上がらないまま、スランネージュとプレミエトワールは帰路につく。本馬場から地下に続く道には、他馬がぞろぞろと後に続いて、淀の舞台から去っていく。

 結局、どちらが勝ったかはスランネージュにもプレミエトワールにもわからない。それゆえに、クラシックを戦い抜いた同期たちの祝福をどう受ければいいものか迷っていた。

 いつの間にやらプレミエトワールの横につけたヨッコイショコラが、のんびりと尋ねる。


『結局どっちが勝ったのかなぁ〜? いつもは勝った子だけどこか行くのにねぇ〜』

『わからないわ。誰も勝っていないのかも』


 人間の作り出したルールはよくわからない。理解できるのは先頭を走ればいいということくらいだ。ただ先頭を走っても、背中の人間を落としたり、無茶に割り込んだりすると勝利は得られないらしい。

 ゆえに、どちらが勝ったかわからない。モヤモヤしたまま、スランネージュは吐き捨てる。


『やっぱシホちゃん連れてくるしかなかったかー』

『そうね。説明させましょう。あの子も私の妹だから』

『あ、ついでに私のファンだからよろしく⭐︎』


 言って、二頭は別れる。

 レースを終えた各馬は検量室に向かい馬体重を確認していく。その後は各陣営に連れられての馬体検査。双方ともに全人馬十八騎異常なし。無事是名馬、激闘の末に最後の一冠をかけた秋華賞は幕を閉じる。


 スランネージュとプレミエトワール。

 両者がレースの勝者を知るのは、しばらく経ってからだった。


 *


 《月刊馬事》記者の花村は悲鳴をあげていた。せっかく書き上げた二本の記事が、両方ボツになってしまったからだ。今すぐ記事を書き上げないと速報性が失われてしまう。興奮と狂乱、嬉しい悲鳴を上げながら、思いの丈をキーボードにぶつけて、奇跡の一瞬を綴っていた。

 プレミエトワールの故郷、洞爺温泉牧場の面々は大騒ぎだ。翠が買っておいたビールが飛ぶようになくなり、寿司やらピザやらケーキやらのデリバリー依頼がネットに電話にとけたたましく鳴り響く。

 それはスランネージュの故郷、ひだまりファームも変わらない。ファン全員と固い抱擁を交わした佐々木夫妻は、テレビに映る、悲願の優勝レイで華々しく着飾った馬の姿を涙ながらに見つめていた。

 日本じゅうがその瞬間に沸いた。掲示板はスレを使い果たし、SNSのトップトレンドは二頭の名前が燦然と輝く。

 それはここ、洞爺のすこやかファームもまた同じだった。


「んなことあり得んの……?」


 志穂は何度も目を擦っていた。中継映像のテロップ表示された勝ち馬表示が信じられなかったのだ。

 見間違いかと思って、通知が鳴り止まないLINEを見る。馬事研のグループラインは茜音と古谷先生が大騒ぎしていた。古谷先生は「当たったーッ!!!」と叫び、茜音は「とんでもないモノを見た!!!」と興奮しきりである。


『ねえシホどうなったの!? わかんないよ〜ッ!!!』

「ハル、ちょっと私の頭鼻先スピアで吹っ飛ばして」

『わかった! うりゃッ!!!』

「ぐふァ!」


 志穂は盛大に吹き飛ばされていた。

 心配してレインが駆け寄ってくる。


『な、なんでそんなこと頼むんですか!? シホさん死んじゃいますよ!?』

「いや……夢かと思ったけどクソ痛ぇ……だから夢じゃないんだわ、これ……」

『もっと安全な方法がある気がします……』


 どうにか立ち上がって、志穂はもう一度画面を見つめた。

 勝ち馬として地下場道から表彰式の舞台に現れたのは、プレミエトワール。

 そしてそれに続いて、芦毛の馬。スランネージュが姿を現す。


「見間違いじゃなかった。勝ったのは、ふたりだ……」

『ええええーッ!!!』


 画面に映るのは、揃いの優勝レイを飾る二頭。

 史上七頭目の三冠牝馬となったプレミエトワール。

 そして悲願の一冠をもぎ取ったスランネージュ。

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