第86話 ナメられない牧場に
競馬場にいた。
そして、いつもの夢だと気がついた。
左回りの競馬場。四コーナー回った馬群が駆けてくる。その中にいるシンボリクリスエスを親にもつ馬と心を通わせたところで、傍らにいる母親が叫ぶのだ。『三千円返せヴォケーッ!!!』と。
ただ、今日の夢は様子が違っていた。
陽光を受けてきらきらと光る緑の絨毯にも、その奥のダートにも馬はいない。周囲を見渡しても、スタンドにはただひとり。それに自身の姿は、今と変わらない、十四歳の加賀屋志穂だ。
「ああ、そうだ。探すんだった」
探さなければいけない。探しモノがなんなのかすらわからなくとも使命感に突き動かされ、志穂は柵を乗り越え無人の本馬場へ飛び込む。柔らかな芝に足元を取られながら走っていると、道は墓場に通じていた。居並ぶ墓石の名前はすべてカタカナ。おそらく馬名であろうものが並んでいる。
そして、シンボリクリスエスの墓標の前で足を止めた。
捧げられているのは真新しい花とニンジン。墓石も濡れている。誰かがお参りを済ませた直後だ。
志穂は周囲を見渡して、柵の向こうに人影を見つけた。
「お母さん……?」
駆け寄っても、人影は振り返らなかった。触れようと手を伸ばすも、こちらとあちらを隔てる柵は越えられない。超えてはいけないような気がして、背筋が冷える。
人影は、志穂に気づいたのか柵越しに短い返事をよこす。
「そう、志穂。大きくなったのね」
「お母さん……! 聞いて。私、ウマ育て始めたよ。ハルとレインって子! どっちもデビュー控えててさ!」
「志穂……」
「なに?」
母と思わしき人影は、顔を見せないまま大きくため息をついた。
何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。そもそも女子中学生が馬を育てているなんておかしい。せっかくの逢瀬で、何を言っているのか。瞬時に情けなさでいっぱいになった志穂に、彼女はいう。
「三千円貸してぇ……」
情けなさなど一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。
そしてこの人影がおそらく、母なのだろうと志穂は確信する。イヤな母娘の合図だ。
「はあ……?」
「次のレースは絶対当てたいの。なんせ出走馬が豪華よ、三冠馬だけでもディープインパクトにナリタブライアン、シンボリルドルフにミスターシービー! それにエルコンドルパサーやスペシャルウィーク! メジロマックイーンもいるわ! サイレンススズカもよ!? こんな夢のレース参加しない方がバカでしょ!? 志穂ならわかるわよね!?」
「地獄でも競馬やってんじゃねーよ!?」
「地獄じゃない、ここは天国よ! 買っても買っても当たらないけどね!」
「ハズレ馬券地獄じゃん! 競馬やめちまえ!」
「死んでも辞めるかヴォケーッ!!!」
「もう死んでんだってば!!!」
名馬たちの競演を楽しむことはできるけど、絶対に馬券が当たらないハズレ馬券地獄。
柵の向こうにはいつの間にか競馬場が浮かび上がり、今は血統表に名前を残すだけになった名馬たちが天国の芝を駆けていく。馬たちはきっと天国で、それに一喜一憂する人間は皆地獄の亡者どもなのだろう。
柵越しにその様子を眺めていると、母は告げた。
「あなたにはやることがたくさんある。こっちに来るのはまだまだ早いわ」
「ハズレ馬券地獄なんかに堕ちる気ないっての!」
「それでいいの、家族を大切にね。大切にできなかった私の代わりに」
「待ってよ! まだ話が——」
そして志穂は、自室のベッドで目を覚ます。時刻は普段の起床時間より一時間早い深夜三時。もう少し寝ようと思ったけれど目が冴えてしまって、着替えて外に出た。
十一月。
世間が満喫する小さい秋は、ここ洞爺には存在しない。朝晩はもう氷点下近くまで冷え込み、大地は長く厳しい冬に向けての準備を始めている。
「おはよー。クリス、起きてる?」
『おはよう〜。あら〜? なんだかいつもより早いんじゃないかしらぁ?』
「目が覚めちゃってさ。寝藁代えるよ」
もこもこのダウンジャケットに身を包み、毎朝の日課である馬房の掃除に取り掛かる。安いLEDランタンの灯りを頼りに、藁に包まれたボロの状態を確認する。クリスの健康状態には問題がなさそうだ。
ハルは今も夜間放牧の真っ只中だ。それでも志穂が起きてきたのを耳聡く察して、軽やかな足音が近づいてくる。クリス用に調合したエサをあげていると、背中に鼻先が突き刺さった。
「ぐえ」
『ねー、シホ! 今日はシカと競争したよ! もちろんボクの勝ち!』
「あんま野生のシカ挑発して遊ばないでって言ったじゃん。あいつらジャンプ力ハンパないから放牧地入ってきちゃうんだって」
『もう入ってるよ?』
ちらと見ると、丘の上にたくましいツノを掲げた雄鹿が立っていた。おかげでまたひとつ仕事が増える。シカを追い出さなければいけない。
「ハルは側面から。私は正面から追い込む」
『らじゃー!』
ため息をつきつつも、シカ追い用のエアガンを持ち出して、天に向けて空砲を撃つ。パン、パンと乾いた音に驚いたシカを、ハルが追ってさらに追い込む。するとシカは放牧地の柵を越えて、本来の住処である森の中へ帰っていった。
ここは大自然。時折シカが入ってくるくらいで平和なすこやかファーム。
ただ目下、志穂を悩ませる新たな問題が浮上していた。
*
電話を取るやいなや父親は紋切り型のお断りを告げていた。
すこやかファームの事務所兼リビングで宿題を片付けていた志穂の向かいに、頭をかきながら父親がどっかりと腰を下ろす。ストレスがたまっているようだ。
「またハルを売ってくれって話?」
「今度は五千万円でどうだとさ。クリスの腹ん中の仔とセットでな」
「セリやってんじゃないんだけど」
志穂も涙してしまったプレミエトワールの三冠達成は、残念ながらいいことばかりでもなかった。
秋華賞の興奮冷めやらぬ翌日から、三冠牝馬の妹を売ってほしいと庭先取引を持ちかける電話が後をたたないのだ。
庭先取引とは、セリを介さずに競走馬の売買を行うことである。現在では競走馬の購入といえば札束が飛び交う競売のイメージが強いが、それはごくわずかの素質馬ばかり。大半はこうした牧場と馬主、一対一の取引で馬の売買が行われている。
とはいえ、志穂にはハルを売る気などない。だからたいていは「お売りできない」と言えば諦めてくれるのだが、中にはしつこく連絡を繰り返してくる者もいる。
「売らないっつってんのになんで諦めないワケ?」
「頭を下げ続けることが誠意だと勘違いでもしてんだろう。あるいはウチを零細牧場だと思ってナメてるかだな」
「足元見てるみたいで腹立つな……」
厩舎と放牧地しかないすこやかファームが零細扱いされるのは当然ではある。実際は食うに困らないどころか馬主登録ができる程度には本業が好調なのだが、電話してくる方もまさかそうだとは思わないのだろう。
「マリーが三冠取ってすぐ頭下げるとか、私だったら恥ずかしくて無理だね」
「桜花賞の前に買っといてよかったってな! ガハハハハ!」
父親はこれ幸いと気分よく笑っていたが、志穂にはどうも気になることがある。
なぜ突然馬産を始めたのか。なぜそれを志穂に押し付けたのか。そして競走馬としてあの戦績で、母としても不受胎と流産を繰り返していたクリスをなぜ購入したのか。
特にかまど馬としてクリスを連れてきたのは大きな謎だ。
クリスはもう十九歳。大半の母馬が仔を宿すことがなくなる高齢である。もしかするとお値段が据え置きだったのかもしれないが、それはそれで謎が残る。
なぜ、そんな安馬にドゥラメンテやらコントレイルやらの高額種牡馬を交配させたのだろう。
「ねえ、なんでクリスを連れてきたワケ? 他にも繁殖牝馬なんてたくさんいるでしょ」
「なんでだろうなあ! 畑でも見てくるか! ハハハハハ!」
「ごまかしやがった……」
結局、謎は解けないままだ。
だが志穂は謎を解く方法を知っている。持ち主が口を割らないなら、育ての親に聞けばいいのだ。
「ねえじいちゃん。なんでクリスにはお高い種牡馬ばっかつけてたの?」
「その辺の事情は翠さんの方が詳しいかねえ」
「事情も何も、ウチのバカ亭主の道楽だよ。アンタの親父とは親友なんだとさ」
「ええ……」
謎を解くぞと意気込んだ志穂だったが、真相解明のあまりの呆気なさにただただ肩を落とすのだった。
たしかに牧場長と父親が友人だったとすれば、すべての辻褄が合うのだ。
洞爺温泉牧場のお隣にすこやかファームがあるのも、すこやかファームが牧草生産を始めたことも。それに赤の他人の志穂が牧場で修行ができているのも横の繋がりがあったからだとすれば何もおかしいことはない。
「結局、あの親父の手のひらの上で踊ってただけだったのか……」
超がつくほどの放任主義のくせに、行く末をコントロールされてしまっているような気がする。腹立たしいかぎりだ。この際不良娘にでもなってレールを外れてしまおうかとも思ったが、クリスやハル、レインを路頭に迷わせる気にはなれない。
父親はどうでもいいが、せめて家族は守らなければ。
項垂れていた志穂に、翠は「そうでもないさ」と言いながら笑いかける。
「アンタはアンタの意志でここまでやってきたんだ。それを誇りな」
「まあ、そういうことにしとく」
「そうそう、アテにしてんだからね。そうだ、アンタにボーナスだよ」
言うと、翠は茶封筒を手渡してきた。
「これ何? 三十万円くらい入ってるけど」
「モタの賞金をみんなで分けたんだよ。アンタもウチの一員だし、一番モタを世話してたからちょっと色つきだ。マンガでもゲームでも好きなモン買いな」
「三十万あったらウチの放牧地にもコース作れるかな?」
告げると、大村も翠も大笑いしていた。
洞爺温泉牧場のように、足元を見られないで済む牧場作りは大変だ。
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