第81話 いいレースにしよう

 その日。次第に秋も深まる早朝の京都は、吐息も煙るほどに冷え込んでいた。


 日曜日、京都競馬場。

 未明に場内の厩舎に到着したスランネージュはひと足早く装鞍そうあんされ、ようやく白み始めた空の下へゆっくりと歩みを進めていた。

 スランネージュにとって京都は初の舞台。警戒心の強い馬が安心してレースに臨めるよう、事前の下見——これをスクーリングという——を行っている。

 本来は平日に前乗りして行うことの多いスクーリング。

 これをレース当日朝に敢行したのは、他の有力馬と鉢合わせさせたくないという田端厩舎の判断であったが——


『うげえ〜。よりにもよってアイツがいるし〜……』


 ——スランネージュは大きく出鼻を挫かれることとなった。

 なんせ本馬場に入るやいなや真正面に、まるで誘導馬のように不倶戴天の仇敵が待ち構えていたからである。

 スランネージュ最大のライバル。鹿毛の一番星、プレミエトワールだ。その傍らには、同厩でもないのにもはや僚馬りょうばと化したヨッコイショコラが、白んだ東の空を見上げている。

 スランネージュの姿に気づいたのか、ヨッコイショコラが白い息を吐きながら告げてくる。


『あ〜、いつもの白い子だ〜。おはよう〜』

『……おはようございまーす⭐︎ 元気そうでよかった〜♪』


 スランネージュは急遽スイッチを入れて、有効的なアイドルモードに切り替えた。馬なのに猫を被るのは、彼女なりの処世術。面倒くさくとも無駄な争いを避けたいという想いの裏には、少しでも体力を温存して勝ち切りたいという野心が潜んでいる。


『そっちの子も元気かな〜⭐︎』

『…………』


 ついでにプレミエトワールにも挨拶をしてやったが、答えはなしの礫だ。相変わらず静謐、何が起ころうと微動だにしない強靭な精神力で、ただじっくりとスランネージュを見つめている。

 とっとと下見をして帰りたいスランネージュだったが、不運にも調教助手たちの雑談に捕まってしまった。行きたくとも行くなの合図を出され、渋々その場に留まらざるを得ない。しかもどれだけ意識を逸らしても、プレミエトワールの物言わぬ視線をしかと感じる。


『な、なにかな〜? 私の体に何かついてる?』

『…………』

『あはは!? そんなに見られたら恥ずかし〜⭐︎ 私もお返しに睨みつけちゃおっかな〜?』


 思わず耳を引き絞りたくなるプレミエトワールの強烈な視線に打ち勝って、スランネージュも正眼でライバルを捉える。鹿毛の整った顔付き。これまで二度しか会ったことのない相手でも、決して忘れることはない。

 この女が、自身をみじめのドン底に突き落としたのだから。

 それでもあくまで友好的を保っていたスランネージュに、とうとうプレミエトワールが口を開く。


『……元気そうね。少し、大きくなった?』

『あはは⭐︎ わかんないけどキミがそう思うならそうなんじゃないかな〜?』


 毛が逆立つような、ひりつく応酬。緊張を隠し切ったスランネージュの一方で、プレミエトワールは普段通りのマイペースを崩さない。その余裕が腹立たしくもあって、わずかに距離を取る。

 ようやく調教助手が雑談を終えて、「行け」の指示を出した。これ幸いと歩き始めたスランネージュだったが、そうは問屋が下さない。待ち構えていた二頭もスクーリングを始めるところだったようで、二頭に挟まれるように競馬場を右向きに歩き出す。

 『勘弁してよ〜!』と叫び出したい気持ちを押しとどめて、スランネージュは見知らぬ京都の芝を踏み締め始めた。

 常歩での重賞馬三頭による併せ馬。そのひとりヨッコイショコラが、この後に大レースが控えているとは思えないほどのんびりと言った。


『あのね〜。さっき話してたんだ〜? 今日は誰と走れたらいいかなあ〜って』

『そうなんだ〜♪ 私のこと待っててくれたとか?』

『もちろんだよ〜。ね〜?』


 緊張感など微塵もない問いかけに、プレミエトワールと横目に視線をかわす。


『そうね。貴女待っていた』

『あは⭐︎ うれしい♪』


 内心『うれしい訳があるか!』と言いたい気持ちを必死で抑える。

 怒り心頭に発して焦れば勝てるものも勝てない。これまで打ち破ってきた馬はみんなそういった落ち着きのない連中だ。冷静さこそが勝利の鍵である。もっともその冷静さは、プレミエトワールもまた備えている。

 なにか気の抜けた話題が欲しい。考えたところで、スランネージュは夏のことを思い出す。


『そういえば、キミの妹ちゃんに会ったよ。ハルちゃん』

『あの面白い人間にも会えた?』

『あー、シホちゃんね。会った会った。ヘンな子だよね〜』

『そうね』

『へえ〜? 喋れる人間さんトコ行ったんだあ〜。たのしそう〜』


 おっとりしたヨッコイショコラを相手に志穂の間抜けぶりを盛りまくって語る。リラックスしきって楽しげなヨッコイショコラとは対照的に、プレミエトワールは相槌すら打たずただ静かに話を聞いていた。


 普段より長く共に歩いているからか、スランネージュもおぼろげにプレミエトワールのことを理解する。レースでは壮絶、狂気にも似た勝ちへの執念をたぎらせる彼女もまた、スイッチを持っている。普段はひどく温厚だ。終始のんびり屋のヨッコイショコラと馬が合うのは、他のギラついた連中とは異なるからだろう。

 そのギラついた連中のうち、同じくクラシック皆勤を続ける同期がスランネージュたちを追い越していく。彼女の名はスカイライト。スランネージュと同じ芦毛馬だ。追い抜きざまに、勝ち気な言葉を残していく。


『ま、今日はウチが勝たせてもらいますんで。その辺よろしくです』


 初戦ではスランネージュに、二戦目ではプレミエトワールに。いつも有力馬にピタリ寄り添って走るマーク屋の彼女。他馬を出し抜く騙し屋の定評は、過去二戦での失敗もあって今やなりを潜めている。

 だからこそ、彼女も勝ち切りたいのだ。

 もちろんそれは彼女だけではない、参戦する十八頭すべて同じだ。実績馬ともなればゴールの位置くらいは説明されなくとも理解しているし、馬と喋れる人間の入れ知恵は賢い馬であればより効果的に働く。

 生意気な人間ではあったが、スランネージュも志穂には感謝している。彼女の入れ知恵のおかげで、ゴールまでの距離感覚はわかっている。あとはその二千メートルを最速で走り切ればいい。

 しめしめと、自身だけが持つ知識のアドバンテージを噛み締めていると、静かに話を聞いていたプレミエトワールが告げた。


『……あの子では、楽しめないわ』

『あははっ⭐︎ 燃えてるね〜?』

『貴女は楽しくないの?』


 誰のせいで楽しめないと思っているのだろう。

 腹立たしさは募るばかりで、いよいよスランネージュのアイドルのメッキも剥がれかけていた。


『いやー、だって強い子がいるもんね? それで楽しめってのも無理な話じゃない?』

『貴女は楽しんでくれてると思ってた。あれだけ本気で走っていたもの』

『本気ねえ……』


 その本気を出しても彼女には敵わない。

 だからこそ手抜きのフリをしていたのに、しっかりと見透かされている。


『ね? キミはなんで勝ちにこだわるワケ?』

『何も考えていなかった。ただ指示を出されて走っていただけ。だけど、今は目標ができた』


 ぶほ、と。まるで笑うように彼女は告げる。


『ハルと走りたい。感じたいのよ、あの子の息遣いを』

『大した子には思えなかったけどね。元気ではあったけど』

『必ず来るわ。約束したもの』


 言って、プレミエトワールは走り出す。向正面から三コーナーにかけての京都の丘を、ゆるやかな足取りで登っていく。スランネージュもまた、それに併せて駆けていく。数時間後に全力疾走することになる勾配の感触を確かめながら。


『ハルは必ず、登ってくる。だから私も登り詰めないといけない』

『もう充分登り詰めてると思うけれどね』

『いいえ、レースの世界は女だけじゃない。乙女の園から出ないとテッペンに立ったことにはならない』

『まさかキミは、男馬とやり合う気?』

『おかしい?』


 スランネージュとて男馬と戦ったことはあった。ただそれは新馬戦や重賞を戦った二歳の頃。以来、戦いの相手は女馬ばかりで、むしろ人間が意図的に男女の競争を分けているものだとぼんやりとは理解していた。


『男の方が強いと思うけど?』

『だからこそ勝つ意味がある。登ってくるハルと確実に当たるためには、テッペンまで登らないといけない』

『ハルちゃんが登ってこれなかったらどうするワケ?』

『そんな妹に興味はないわ』


 スランネージュは打ちひしがれていた。

 なぜならプレミエトワールはもう、今日顔を合わせる自分以外の十七頭をライバルだとすら思っていない。自身を含めた他馬がどれほど火花を散らしていても、まるで相手にしていないのだ。

 彼女の敵は、乙女の園の外にいる。

 それが。

 相手にされていないという事実が、スランネージュのひた隠しにした闘志に火をつけないはずがない。


『キミさ、ナメない方がいいよ。今回は全員がキミを潰しにくるんだから』

『そうね』

『楽に勝てると思ってんなら大間違いだよ』

『その通りよ』


 坂を下る。駆け降りて速度を増すプレミエトワールに、自然と体がついていく。

 彼女は心底、楽しそうに走る。やはり走ることを楽しんでいるのだ。

 あの妹にして、この姉あり。


 最後の直線を走り切って、スクーリングは終わりを迎えた。

 コースの形状は頭に入った。安全であることも理解した。

 そして本日、一番の仇敵の走る動機も理解した。『いつ妹が登ってきてもいいようにテッペンで待つ』なんて、あまりに難しいことをさらりと言ってのけたプレミエトワールはやはり不倶戴天の敵だ。

 そしてスランネージュにとって初めて、本気で乗り越えたいと請い願う壁に変わった。


『決めたよ、本気で走る。本気で走ってキミを越える。テッペンになんて行かせない』


 スランネージュの宣言に、プレミエトワールも言葉を返した。


『ありがとう。いいレースにしましょう』

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