第82話 奇跡の瞬間を夢見て

『ここがシホさんやハルちゃんのおうちなんですね……!』

「そ。まあゆっくりしてって」

『レインお兄ちゃんも走ろーッ!』


 はじめてすこやかファームを訪れたレインは、ハルに連れられて巨大な放牧地の丘を駆け上がっていた。

 もちろん、レインのリハビリは今後も外厩を使わせてもらうことになっている。今日だけレインを連れてきたのは、本日の午後に迫ったレースを家族揃って応援したい志穂のワガママだ。


『あら〜。ハルにはお兄ちゃんがいたのね〜? 私産んだかしらぁ〜?』

「産んだ子はいま京都だよ。ほら、映像出た!」


 馬房のそば、キャンピングチェアに座って志穂はタブレットの映像に注目する。それを取り囲むように、クリスや駆け回っていたハルとレインが寄ってくる。


『ねえねえシホ! プレミお姉ちゃんとネージュお姉ちゃんはどっちが強いの!?』

「それがわかればこんな悩んでないって!」

『みんなにがんばってほしいですね。それと、みんな無事であってほしいです』

『本当にそうよねえ〜……』


 本日の京都第11レースに注目しているのは何もすこやかファームだけではない。

 生産馬プレミエトワールの三冠がかかった洞爺温泉牧場は、談話室に全従業員が詰めかけてレースの行方を固唾を飲んで見守っている。晴翔から送られてきた写真には、お手製の横断幕を持って騒ぐ若手や大村、翠の姿が映っていた。

 生産馬の悲願にかけるのはスランネージュの故郷ひだまりファームも同じだ。現地観戦ができなかったファン数名と、事務所兼住居で応援している佐々木夫妻からは、電話口で話しただけでも期待と緊張、興奮が伝わってきた。

 他にも志穂の元には、札幌の下宿でプレミエトワールとスランネージュ、二頭のぬいぐるみを抱いて応援する茜音の姿や、古谷先生からネット購入した馬券のスクショ画像が送られてくる。買い目は素直に裏などかかず、人気馬二頭の馬連十万円だ。


 もちろん、今日のレースを心待ちにしているのは志穂の回りだけではない。


 栗東、美浦の両トレセンは開店休業状態だ。香元ら調教師も羽柴ら調教助手たちも、テレビやラジオ、ネットの映像に注意を傾けている。担当馬が出走する厩舎であれば京都で、騎手に文字通り手綱を預けて勇姿を見送って祈っている。

 《月刊馬事》編集部でも、花村ら数名の編集者が仕事を中断して——電話応対すらせず——、テレビの前に顔を揃えている。速報を打つ花村はもう、まるで馬券でも買うような賭けの気持ちで二頭の記事を書いている。

 決戦の舞台、京都競馬場の正面スタンドは観客ですし詰めだ。それを見下ろす七階建てビュースタンドの馬主達も、裏開催の競馬場でも各地のWINSでも、皆が見つめるのは京都での決戦。思い思いの夢を馬券や声援に変えて、本馬場に十八頭が姿を現す瞬間を今か今かと待っている。

 会場に駆けつけられなかった競馬ファンも、みな仕事や家事、学業の手を止めて、スマホ投票や声援を京都に送る。SNSや掲示板で実況する者、同時視聴の配信を行う者、ひとりで楽しむ者、仲間と楽しむ者。老若男女を問わず、海千山千の玄人からビギナーズラックの担い手までが、その行方に胸を高鳴らせる。


 ——どうか、勝ってほしい。

 ——そしてどうか、無事であってほしい。


 どんなに離れていても、どんなに趣味嗜好が異なっていても。

 競馬を愛するということ、ただその一点で、皆の想いはひとつになっていた。


 そして、報道関係者用の喫煙室。

 アナウンサーの赤嶋、大塚両名は大仕事に臨む前の一服を終えて、握手してそれぞれの放送ブースへ向かう。深呼吸をして喉を鳴らし、声の準備は整った。この日に備えて情報を叩き込んだので、手元の資料など見ずとも頭の中にすべてが入っている。

 すべてはこのお祭りを盛り上げるため。奇跡の瞬間を日本じゅうに届けるため。 


 そして四頭の誘導馬から、本馬場入場が始まった。

 口火を切ったのはラジオアナウンサー、大塚による出走馬紹介だ。


 *


 京都第11レース。

 誘導馬に率いられ、天高く馬肥ゆる淀の空の下に、十八頭の女馬が姿を現しました。

 それでは、返し馬の映像とともにご紹介しましょう!


 全兄ぜんけいは、令和のサイレンススズカとの呼び声高いあのパンサラッサ。

 オークスで見せた58秒台の大逃げで、エンジン全開。勝ち逃げとなるか。

 1枠1番 ファイアスターター 鞍上は——


 すでにチューリップ賞、紫苑ステークスと重賞二勝。

 目覚めし野生、原始の鼓動を末脚の爆発力に代え、悲願の戴冠を狙います。

 1枠2番 アプリオリ 鞍上は——


 そのアプリオリを必死で追い続ける、ローズステークス勝者。

 うら若き青春、初期衝動の輝きを京都の地で示すことはできるでしょうか。

 2枠3番 アドレセンスキッス 鞍上は——


 インスタグラム百万人のファンの皆さま、お待たせいたしました。

 札幌記念を獲ったニューヒロインの登場です!

 ご唱和ください! ヨッコイショコラ!

 2枠4番 ヨッコイショコラ 鞍上は——


 オークスを屈腱炎で欠場も、ターフに舞い戻った天恵の聖女。

 競馬の神を讃える讃美歌の祈りが、淀の空に響き渡ります。

 3枠5番 キリエエレイソン 鞍上は——


 マイル戦を重賞を逃げ切り二着。距離延長で挑むはクラシックの頂。

 サムライブルーの青空の下、逃げ切ってブラボーと叫びたい。

 3枠6番 サムライナデシコ 鞍上は——


 阪神の借りは京都で返す。桜花賞、殿負けの恨みを晴らしにきました。

 侮られ続けてきた魔女の呪文は勝利を引き寄せるか。

 4枠7番 へクセンコード 鞍上は——


 夏で大きく成長した上がり馬がとうとう世代戦に名乗りを上げます。

 秋空に輝く一番星は私だ。

 4枠8番 ブルーシリウス 鞍上は——


 母は三冠牝馬、姉はエリザベス女王杯勝者。

 言わずと知れた名牝の血筋を証明し、貴婦人の後継者となるか。

 5枠9番 クラースナヤ 鞍上は——


 彼女の傍らには、常に有力馬がありました。

 クラシック皆勤で臨むは最後の冠。芦毛のダークホースは虎視眈々。

 5枠10番 スカイライト 鞍上は——


 美しい栗毛をなびかせる優等生がクラシックに参戦です。

 魔法は使えなくとも、武器は見事な先行力。

 6枠11番 ハーマイオニー 鞍上は——


 十八頭中最大重量、馬体重530キロの巨体の持ち主。

 他馬を薙ぎ倒す重戦車が最後の冠を目指して進軍します。

 6枠12番 ビルヴェルヴィント 鞍上は——


 逃げ馬としてレースを引っ張る、赤きユニコーン。

 大逃げを打つファイアスターターをもう逃しはしない。

 7枠13番 ユニコーンルージュ 鞍上は——


 故郷は並行世界ではなく、サンタアニタ。

 唯一のマル外、海外からの刺客は世界の広さを見せつけるか。

 7枠14番 パラレルワールド 鞍上は——


 今日は二冠に終わった母の忘れ物を獲りに来ました。

 目指すは母娘合わせての三冠の絶景。季節外れのミモザの花を咲かせたい。

 7枠15番 クイーンオブミモザ 鞍上は——


 抽選倍率は30倍。狭き門を乗り越えた、強運の持ち主。

 その持って生まれた運のままに、ラッキーパンチを繰り出せるか。

 8枠16番 オルトカンタービレ 鞍上は——


 そして場内の大歓声に送られて、白馬のアイドルホースが登場です!

 二歳女王としての戴冠から二戦、ずっと辛酸を舐め続けてきました。

 人は言います。生まれる時代が悪かったと。

 ですが着順には表れない彼女の実力は、すでに日本じゅうが知っています。

 令和六年三歳世代、圧倒的な二強の一頭。

 二着はもういらない。一着がほしい!

 8枠17番 スランネージュ 鞍上は——


 負けじの大歓声に迎えられ鹿毛の女王が姿を現しました。

 桜花賞では十二番人気、オークスでは二番人気。

 そして今回秋華賞では初めての一番人気を背負います。

 牝馬三冠。これまでに成し遂げた馬は六頭しかいません。

 阪神、東京と一番星を輝かせてきた名牝は、ここ京都でも光るのか。

 いよいよ最後の一冠、秋華賞。

 向かってくる十七頭。

 なかでも最大の好敵手、静かなる雪との決戦に、一番星が挑みます。

 8枠18番 プレミエトワール 鞍上は——


 *


 大塚の実況で、日本じゅうの競馬ファンが固唾を飲んで見守った。

 それを片耳に聞き流しながら、赤嶋も自らの使命を果たすべく口を開く。


 いよいよ、クラシック最終決戦の幕が上がる。

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