第80話 実況者たちの鉄火場
土曜日。明日に控えた秋華賞に浮き足立っているのは何も陣営ばかりではない。
関西本社から京都入りしたテレビ局アナウンサー赤嶋晋太郎もまた、出走馬の確認作業に追われていた。
日本では、今やさまざまな方法で競馬中継を楽しむことができる。
ひとつは古くからあるラジオ放送。G3重賞ラジオNIKKEI賞という冠レースでも知られたラジオ局による、地上波およびネットラジオでの競馬中継だ。この実況は競馬場内でも使用されており、ゴールの瞬間や着順を正確に伝えることが至上命題とされている。ラジオには映像がないためだ。
そしてもうひとつがテレビやネットでの放送。衛星放送やオンライン配信では、映像で競馬中継を楽しめる。ここで使用される実況は、前述のラジオ放送の流用だ。
であれば、テレビ局アナウンサー赤嶋の出番などないのではないか。
答えは違う。
実はG1レースの時間帯のみ、地上波でも特別番組が組まれることになっている。その際に使用される実況はテレビでの視聴を前提にしたもの。ゆえにラジオのような正確性よりも、レースの盛り上がりや人馬が歩んできた軌跡をショウアップして伝えることに重きが置かれている。
ラジオの正確性と、テレビの大衆性。
ふたつはお互いに切磋琢磨しあい相互補完しあいファンに夢を伝えてきた。
あまり顧みられることはないが、彼らもまた競馬を支える屋台骨なのである。
「お、赤嶋さん。秋華賞ですか?」
「せやねん。そっちはどうなん、大塚くん」
ひと通りの資料を読み終えた赤嶋が一服していると、明日の実況を担当するラジオ局アナウンサー大塚秀明がやってきた。喫煙室のモニタに移るのは本日、土曜日のレース。その実況を聞きながら赤嶋が考えるのは、自分ならどう実況を組み立てるかだった。
見入っていた赤嶋に、大塚が語りかける。
「赤嶋さん、もうキラーフレーズ準備してんでしょ? こっそり教えてくださいよ」
「こんなモン飾らん方がええねん。『三冠達成!』って叫んで終いや」
「えー?
「アホか、『三冠達成』以外になに言うねん」
「俺も立ち会いたいですよ、三冠達成の瞬間に」
大塚は最初の一服を味わって首をコキリと鳴らすと、持っていた資料に目を落として告げる。
「やっぱり大本命はプレミエトワールですか」
「それそれ。『府中の青空にきらめくのもまた一番星!』ってやっちゃな」
赤嶋もまた、頭に叩き込んだばかりの出走馬十八頭のデータを記憶の引き出しから取り出す。
赤嶋の実況の特徴は、超絶技巧の聞き取りやすい早口と絶叫。そしてどこで仕入れてきたのかと伺いたくなるほどの陣営や馬の豆知識だ。抜群の記憶力から繰り出される息をもつかせぬ名調子にはファンも多い。
「せやけどテレビ的にはアレや。鹿毛は目立たん。芦毛馬が二頭もおったらそっちに目がいってまう」
「スランネージュとスカイライトですか。どっちもクラシック皆勤ですね」
「せやねん。俺は好きやなあ、同期の桜。馬はお互いのこと同期なんて思てないやろうけど」
「では赤嶋さんにクイズ。今年のクラシック皆勤組をすべて答えよ」
問われた赤嶋はすぐに記憶を紐解き、質問に答えた。
春先の桜花賞、オークスと連戦を続けるクラシック皆勤組は七頭。
まずは牝馬三冠がかかった大本命。今回初めて一番人気を戴いた女王。
一番星の末脚、プレミエトワール。
女王に迫る実力を持ちながら、惜しくも勝ちきれない芦毛のアイドル。
静かなる雪、スランネージュ。
適正距離がカブる上に、いつでも隣同士になってしまう腐れ縁の二頭。
原初の鼓動、アプリオリ。そしてうら若き初期衝動、アドレセンスキッス。
重量級、他馬を圧倒する巨体で馬群を引き裂くつむじ風。
重戦車、ビルヴェルヴィント。
過去二戦のマークミスを修正、ひと夏を経て賢さに磨きをかけたもう一頭の芦毛。
鷹の目、スカイライト。
そして、ゆるい名前に実績が伴わないでおなじみのG2札幌記念勝者のアイドル。
のんびり行こうよ、ヨッコイショコラ。
名前と勝手に考えた二つ名を赤嶋は告げて、二本目のタバコに火をつけた。
「ま、七頭全部キャラ立ってんのがテレビ的にはありがたいわな」
「今回プレミとネージュは大丈夫ですかね。相当な過剰人気かもしれませんけど」
「ホンマに強い馬は、どんだけ期待背負っても勝ち切るモンやて」
「ですが、キャラの濃さでは残りも負けてないですよ?」
「ホンマ個性の渋滞か思うわ。話す内容吟味せなアカンちゅうのは嬉しい悲鳴やね」
クラシック最終戦、秋華賞は芝二千メートル。
この距離は、オークスの芝二千四百を回避したマイル路線馬や、成長が遅れたりマイルでは不利な中距離馬が距離短縮して臨むのにうってつけの舞台である。二千もまたチャンピオンディスタンスと呼ばれるのは、マイルから中長距離の強者たちが集う環境であるからだ。
桜花賞からG1NHKマイルカップ、G2関谷記念と二着で好走。距離延長で望む逃げ馬。
青い稲妻、サムライナデシコ。
圧倒的な大逃げで日本じゅうの度肝を抜いた、脅威のスタミナをもつ稀代の個性派。
勝ち逃げ女、ファイアスターター。
出藍の誉れを証明すべく名乗りをあげる、名牝の娘たち。
美しく赤き刃、クラースナヤ。そして約束された名牝系、クイーンオブミモザ。
「それにへクセンコード、ユニコーンルージュ、キリエエレイソン。キリエエレイソンは鞍上の通算二百勝がかかっとるが、今日のお立ち台は難しいやろうな」
「秋華賞からの参戦馬はチェックしてます?」
「ブルーシリウス、オルトカンタービレ、パラレルワールド、ハーマイオニー。前二頭は紫苑ステークスから、他二頭は抽選組やったな。実績馬ばっかりや」
「いやあ、楽しみですよ」
「ホンマにな……」
しみじみと紫煙を吐いた赤嶋と大塚は、遠くを眺める。視線の先にはレースを映すモニタがあるが、彼らが見ているのは今日ではない。明日の第11レースの光景を脳裏に思い描き、それをどう伝えるか夢想する。
赤嶋の場合はどうショウアップして、視聴者の興味を釘付けにするか。
大塚の場合はいかに正確に伝えて、レース展開をわかりやすく示すか。
「やっぱりええよなぁ、競馬は……」
「そうですねえ」
競馬にはロマンがある。
ギャンブルとしての側面は元より、馬に、それに関わる人々に、幾重にも折り重なった膨大なドラマがある。ただし限られた放送尺の中では、語られるのは勝者の栄誉。十八頭いれば十八の物語が、もっと言えば世代戦に挑んで散っていった敗者たちにも無数のドラマがある。
生まれた牧場での日々、馬主との出会い、調教師の苦悩、デビュー戦。その後のこと。
いかに語り部たる彼らふたりでも、それらすべてを語ることはできない。どれだけ伝えたいドラマがあっても、放送に私情を——自身の推し馬を贔屓することは許されないのだ。競馬を愛する実況者ほど、それがもどかしい。
赤嶋も大塚、ふたりの目指す理想の実況は違えども、競馬を愛する心は同じだった。
「で、赤嶋さんはいくら買うんです?」
「もう仕込んだあるわ。プレミとネージュの馬単、百万」
「毎度賭け方がエゲつないですねえ」
「ええこと教えたるわ、大塚くん。実況を盛り上げる一番の方法はな、自分もアホんなってお祭りに参加するこっちゃ!」
赤嶋はニヤリと笑って、灰皿にタバコを捨てて仕事に戻って行った。ひとり残された大塚も紫煙を吐いて、財布の中身を確認する。
「俺もアホになってみるかな。百万はあり得ないけど」
ひと息ついた冴えた頭で、大塚は馬券販売機へ向かった。買うのはもちろん、アホになった先輩と同じ馬単。財布の中に入っていたありったけの現金で買えるだけ買う。肌がチリチリとひりつく緊張感を覚えながら、出てきた五万円分の馬券を財布に入れた。
「本当に強い馬は、どんだけ期待を背負っても勝つモンだ」
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