第79話 勝てたらいいな……

 京都大賞典でのクリュサーオルの激走から一週間後。

 とうとう本格化する秋のG1戦線を控えた陣営の緊張感は、否応なく高まっていた。競走馬を預かる厩舎は元より、持ち馬の勝利を願う馬主たち。勝利を飾りたい一流騎手に、入念な取材を重ねるトラックマン。そして一攫千金を夢見る馬券師たち。

 ここ美浦トレセンに居を構える二代目田端厩舎の代表・田端も、不安と確信と重圧がのべつまくなしに入れ替わる極度の緊張状態で眠れぬ夜を過ごしていた。


「せんせー、顔色悪いですよ? 眠れてます?」

「眠れるワケないだろうよ、こっちは胃に穴が空きそうだ……」

「ですよねえ」


 持ち歩いている胃薬をラムネ菓子のように噛み砕いて、田端は大きなため息とともに厩舎前でくず折れていた。一方の羽柴はのんきなものだ。相変わらずヘルメット型に固まったふわふわの髪で、田端の背をさすっている。


「ハッシーにもお裾分けしてやりてえよ。俺の緊張感をさあ……」

「緊張は間に合ってまーす。今年はウチもG1参戦目指してますし!」

「クリュサーオルか。ダービー馬と遠征帰りのバケモン相手に二着とは恐れ入ったよ」

「でしょう! えっへん!」


 G2京都大賞典の激走で一番に株を上げた馬。それが羽柴担当のクリュサーオルだ。

 今年の春先まで一勝クラス、一時は最低人気すら背負った馬が、ひと夏越した途端にG1馬相手に勝ち負けを演じるほどに覚醒しているのだから、馬というものはわからない。

 馬の生命力に安堵とも落胆ともつかないため息をつきながら、田端は尋ねる。


「クリュサーオルの次走は決まってんの? ジャパンカップ直行は賞金足んないんじゃない?」

「ですね。調子もいいから、もう一戦挟もうと思ってます。元々登録してたんですよ、アルゼンチン共和国杯」

「あいつはタフだなあ……。その元気さにあやかりたい……」

「あはは! いいですよ、触りにきます?」

「いやいい……もう立つ気力もない……」

「明日にはスランネージュも出発でしょ? 元気出してくださいよ〜!」


 今日は金曜。日曜に控えた京都への長距離輸送に向けて、田端厩舎の準備は慌ただしくも進んでいた。

 ちなみに田端厩舎にはスランネージュの他にも、秋の重賞やG1を目指している馬が数頭いる。過去には調教師リーディングすら勝ち取った先代の残した実績馬たちは、二代目にとってはありがたくもあり、胃に穴が空くストレスの元凶だ。


「そうだ、スランネージュの調子はどうですか? 馬体重増えたんですっけ?」

「放牧明けでプラス十キロな……。ただどうにも、その分成長してる。先行策より差しがよさそうだ。上がりの足がかなりいい……」

「おおー! これも志穂ちゃん効果ですね!」

「わからんが、俺は胃が痛えよ……」


 背中をさすりながら、羽柴は田端の後頭部にぽっかりと毛が薄くなった部分を見つけた。G1馬を擁する名誉と責任、そして厩舎を抱える重責、さらには先代のプレッシャーという目には見えない重圧の影響を、羽柴はひしひしと感じる。


「お酒でも飲み行きます?」

「医者に止められた……」

「ま、まあ勝てたらいいですね! 応援してます〜!」


 いよいよ笑えなくなってきたので、羽柴は無理矢理笑顔を作って元気に振る舞っておく。元より羽柴ができることなどそれくらいだった。

 田端ほどではないにせよ、そんな緊張感が美浦じゅうに蔓延している。


「ハッシーお帰り。弘毅くんの様子はどうだった?」

「ラムネみたいに胃薬噛んでました」

「そりゃ重症だあ」


 自厩舎である香元厩舎の香元は、「あちゃあ」と顔を引き攣らせて苦笑していた。

 実は、羽柴に田端厩舎ほか美浦じゅうの様子を伺いに行かせたのは誰あろう香元だ。敵情視察の向きもあるにはあるが、実のところ香元は、他の厩舎関係者のことを誰より気にかけている。自身が出向かないのは、雑談大好きで愛嬌のある羽柴に行かせた方が何かと都合がいいからである。

 羽柴もまた、香元に合わせて苦笑する。


「この時期はどの厩舎もすごい緊張感ですよね。大崎せんせーのトコにも遊びに行きましたけど、馬房に寝っ転がって寝藁食べてましたよ」

「馬が?」

「いえ、大崎せんせーが」

「重症だ……」

「そういう先生も右手、震えてますよ?」


 指摘されてぎくりと香元の動きが止まる。しかし香元のスマホを持つ右手だけは、ただただ小刻みに震えていた。着信があった訳でもないので震源地は香元本人だ。


「いや……まさかウチにG1を狙える馬がいると思うと……ねえ?」

「あはは、まだ出走も決まってないんですよ? 緊張するの早いですって!」

「ハッシーの余裕にあやかりたい……」

「もー。私だってしっかり緊張してますからね〜?」


 へらへら笑っていても、羽柴にも緊張の足音をひしひしと感じ取っていた。カレンダーに書き込まれた赤のバツ印が増えるたびに、一日また一日と運命の日が近づいている。翌月初めのアルゼンチン共和国杯。そしてその結果如何で月末の大レース、ジャパンカップへの出走が決まる。

 これは凱旋門を目指すクリュサーオルだけじゃない。

 調教助手、羽柴歩。および香元厩舎や、亡くなった斉藤萌子ら関係者にとっての大一番。


「斉藤さんや志穂ちゃんの努力を無駄にしないためにも、私たちががんばらないとですね!」


 押し寄せる緊張を背負った期待で跳ね除けて、羽柴はグッとガッツポーズして意気込んだ。


 *


 一方、洞爺。馬産に取り組む女子中学生もまた、緊張の渦中にあった。


「『万緑の 中や吾子の歯 生え初むる』。はい復唱」


 教室に響き渡る生徒らの復唱の輪には加わらず、志穂はただ教室の黒板を眺めていた。教科書片手に授業をする古谷先生を見ていた訳でも、板書された中村草田男の句の素晴らしさに感銘を受けていた訳でもない。


「このように、俳句には季節を感じる語を入れるのが暗黙のルールになっています。これが季語。近年ではマスクが冬の季語から外れたり、手持ちの扇風機が夏の季語になったり、時代とともに移り変わっていくんですね。なんかエモくな〜い?」


 くすりと教室に笑みとも失笑ともつかない声が漏れ、その後は皆でオリジナル俳句を作る授業に変わっていた。

 テーマは秋。皆が思い思いの秋を想像する中にあっても、志穂の頭はまるで働かなかった。ノートに「秋」と一文字書いたところで、出てくる言葉は知れている。


「お? 加賀屋さんの秋の季語はかあ。個人的には大好きだけど、教育的には点あげらんないな〜?」

「え? 私ンなこと書いてな——」


 ハッとして見下ろしたノートには、しっかり秋華賞と書かれていた。


「完全に無意識だった……」

「頭いっぱいだね、気持ちはわかる〜」


 にへらと笑った古谷先生は、志穂の句に書き足した。


 ——秋華賞 勝てたらいいな


 そして最後の五音を書かずにペンを止めて、ニヤリと笑う。


「……で! 加賀屋さんの予想は?」

「授業中の生徒に予想させるとか教師としてどうなの?」

「まあまあ固いことは抜き! ほらほら、五音で!」


 志穂が句を継いで俳句を完成させるのを、古谷先生は楽しげに待っていた。観念した志穂は、ここ数日ずっと心を惑わし続けている大レースのことを思い浮かべる。

 自分が走る訳でもないのに。ましてや自分の馬でもないのに、本番が近づくと居ても立ってもいられなかった。

 誰かに相談したくとも、茜音は大学に復学したとかで札幌に戻ってしまった。晴翔とは必要以上に接触すると小野寺に悲しい顔をされるので控えている。古谷先生は最初からアテにしていない。ならばと調教助手である羽柴にLINEしようとも思ったけれど、向こうもクリュサーオルの準備で忙しいと思うとそんな気にもなれなかったのだ。

 ゆえにここ数日の志穂は、まるで気の抜けたゾンビのように浮き足だっていた。


「秋華賞、勝てたらいいな……」


 続く名前は、これまでだったら一番星。その一頭だけだった。

 だがもう一頭、静かなる雪の行く末も気にかかる。

 悩み惑う。これが創作の産みの苦しみか、なんておそらく見当はずれなことを考えながらも、志穂は最後の五音を書いて句を完成させた。


「『秋華賞 勝てたらいいな 星と雪』か。なるほどねえ〜」

「正直、どっちかなんて決めらんない。どっちにも勝ってほしい……。これってアリ?」

「予想としてはナシだけど、加賀屋さんの心境がよーく出てる」


 古谷先生は赤ペンで花丸を書き込んで、他の生徒たちの元へ向かっていった。

 俳句作りのノルマをこなした志穂は、窓の外に広がる空を眺める。高い位置にできるといううろこ雲が点々と続く、天高く馬肥ゆる秋。二日後にはこの空の向こう遥か京都で、春先からしのぎを削ってきた三歳牝馬たちの雌雄を決する最期の戦いが繰り広げられることになる。


 ——三歳牝馬限定競走、秋華賞G1。

 星は三度輝くか、初雪となるか。

 そのことで志穂の頭はいっぱいだった。

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