第72話 ワクワクとまんない

「体がまるで動かねえ……」

『あれー? シホがのっそりしてるー。元気ないのー?』


 立っているだけで震える足を無理に動かして、志穂はハルの引綱を引いていた。足だけでなく全身が悲鳴を上げている真相は語るまでもない。


「馬の才能を百二十パーセント引き出すのが騎手の仕事ですからね!」


 ニコニコ笑顔で鞭を振るうふわふわ頭の羽柴の顔が浮かぶだけで、志穂の背筋は伸びた。そして背筋を伸ばすと背筋がミシミシと痛みを訴える。

 この一週間、志穂はハルやレイン、さらには繋養されている元競走馬たちを木馬代わりにモンキーの訓練を繰り返してきた。鬼教官羽柴の指導もあってカタチだけはなんとか身についたものの、そのカタチを取っただけで全身がぷるぷる震える有様である。


「こんなん続けてたら体バラバラになるわ……」

「それをずっとやってるのが騎手や調教助手です!」


 えっへんと自画自賛する羽柴に手伝ってもらって、志穂はハルの背に跨った。

 ヘルメットの紐をしっかり締めて、プロテクターを確認する。そしてラップタイムを計るための右手首のストップウォッチをリセットしてゼロに戻す。さすがに片手騎乗はできなかったので短鞭はなしだが、志穂には鞭がわりの言葉がある。


「ハル、合図出すから作戦通りいくよ」

『うん! 聞いてもよくわかんなかったからシホに任せる!』


 大丈夫なのかと不安になるが、それもハルが信頼してくれている証だ。背の上から首に抱きついて、草や土の匂いが混じった温かなたてがみに顔を埋めながら、ハルとともにゲートへ向かった。


 外厩芝コース。向正面に設置された可動式ゲートは、まだ姿を現さないスランネージュとの決闘の舞台。

 コースは洋芝、起伏なく平坦な芝二千メートル右回り。千四百のコースを都合一周半するレイアウト。

 向正面中ほどから発走して短い直線を走ると、すぐにコーナーが待ち構える。その後は一周目のホームストレッチを走り抜け、ふたたびコーナーを周回して向正面へ。勝負どころは最終コーナーだ。

 なお、京都競馬場で開催される秋華賞での平均走破タイムはおよそ二分前後。

 条件やメンバーには大きく差はあるが、羽柴の見立てではスランネージュなら二分プラス一秒あたりで走り切るらしい。

 ゆえに、スランネージュ相手に好走できればクラシック牝馬路線に名を残す存在となることは間違いない。もちろん、そんなまぐれは絶対に起きないだろう。


「先に言っとくよ。今日のレースは絶対に勝てない」

『え〜? 走る前からそんなこと言わないでほしい〜……』

「いいんだよ。大事なのは負けを受け止めて次に活かすこと。こないだモタと走って見つかった課題も修正したいしね』


 一週間前。クリュサーオルとの千八百メートルの模擬レースで、ハルは明らかに前半から飛ばし過ぎていた。大逃げしか頭になかった志穂も飛ばすように指示を出したからだが、結局残り八百メートル付近で捕まってしまい、その後はズルズルと後退、大差をつけられた。

 あのときの反省点はひとつ。

 スタミナもないのに逃げ切ろうとするな。至極当たり前の結論である。


『一気にズバーッ! って走ったら勝てると思ったんだけどなあ……』

「あれは私のせいだから、ハルは気にしないで。そのために作戦も立てたからね」


 ハルはさっぱり覚えていないが、今回の作戦はこうだ。

 ゲートと加速の出足に優れたハルは、前めの競馬が向いている。それはスランネージュも同様だ。だから道中はスランネージュにぴったりついていき、彼女のペースに合わせる。

 この作戦の利点は勝つことじゃない。

 言葉で教えてもさっぱりなハルに、スランネージュのペースを学んでもらうことにある。同じく先行脚質、さらに世代トップレベルの先輩と並んで走れば、息を入れたりスパートを駆けるタイミングを体感に落とし込めるはずだ。


「だから今日は思いっきり走って、思いっきり負けよう。マリーも負けて強くなったからね」

『そっか、負けると強くなれるんだ! ならボクたくさん負ける! 負けて強くなる!』

「よしよし、終わったらニンジン食べさせてあげるから」

『お腹いっぱい食べたい! いい?』

「腐るほどあるよ」


 そしてゲート前に、芦毛の馬体が雄大な返し馬とともに現れた。鞍上で手綱を取るのは志穂に辛酸と癒えない筋肉痛を味わせた鬼教官、羽柴である。「今回はクセのない騎乗をしますから」と語っていたが、そんなことを話す時点で嫌な予感しかしない。


「じゃ、正々堂々頼むよハッシー。それとスランネージュ」

「ええ! ハルちゃんと志穂ちゃんの参考になるような走りをしますね」


 呼びかけても、スランネージュからの返答はなかった。実はあの一件以来、スランネージュとは一言も口を聞いていない。蹴り殺されたり噛まれたりすることはないが、話しかけても無視されている。馬房の掃除も放牧時も、まったくの無言だ。


『ネージュお姉ちゃん、機嫌悪いの? あ! レース前は静かにするのがいいんだ? なんかその方がカッくいーもんね! よーしボクも静かにする! 静かッ!!!』

『ええい、うっさいな!? どんな教育してんのキミの親は!』

「のんびり草でも食べてるよ」


 イラついているのか、スランネージュは羽柴を背に歩みを留めず回っていた。ただしハルを威嚇することは忘れない。ハルを中心に円を描きながら、片方の瞳でしかと仇敵の妹ににらみを利かせている。


「勝負受けてくれてあんがと。本気でやらせてもらうから」


 発破をかけようと挑発すると、スランネージュは静かに告げた。


『悪いけど、こっちも本気だから。二度と走る気が起きないくらい、心を折ってあげる』

「安心して。そうはなんないから」

『その余裕も、もう保たないと思うよ。みじめな目に遭えばね』

「私はみじめだなんて思ってないから」


 ハルの背を撫でながら、志穂は告げた。


「本気出して無事に完走すること。それだけで私にとっちゃみんなアイドルだからさ。ハルもレインもモタも、それからアンタもね。

『……キミ、どこでその名前を——』

「じゃー、そろそろ始めるよー」


 ゲートのスタートスイッチを預かる大村の呼びかけに、晴翔ほか牧場の若手従業員が集まってきた。ハルとスランネージュの決闘の噂を聞きつけて誘導員を買って出てくれた彼らに手伝ってもらって、ハルは先に内枠ゲートに収まる。


『どうしよう、シホ! ワクワクがとまんない! ボクとうとうお姉ちゃんの友達と走れるんだよ!?』

「ワクワクもいいけどレースに集中して。作戦通りね」

『それに友達じゃないし。あんな女、大嫌いよ』

『えー!? お姉ちゃん強くて綺麗でカッくいーのに!?』


 後を追うように、スランネージュもスムーズにゲートに収まろうとしていた。

 ワクワクしているのはハルだけじゃない。その背に乗る志穂も同じだ。ハルの夢をひとつ叶えてあげた喜びと、どれだけの学びを得られるかという期待。そして落馬の恐怖や、万が一にでもハルがケガなどしないかという不安。頭の中でグチャグチャになったそれらが否応なく心臓を高鳴らせ、筋肉痛で痛む背筋が伸びる。喉はすでにカラカラだ。


「加賀屋さーん! がんばってー!」


 はるか遠い向正面から小野寺の声援が飛んでくる。牧場の従業員に混じって、茜音や古谷先生の姿も見えた。

 応援される立場になって初めて、そのありがたみがわかる。

 絶対に勝てないこのレース。沸き立つ観客の声援に応える唯一の方法は、志穂とハルが人馬ともに全力を尽くすことだ。


「すっかりハルの主戦騎手ですね。加賀屋さんも騎手を目指してみてはどうですか?」


 ゲート入りの補佐を任された晴翔が冗談めかして言ってくる。志穂はすぐさま首を真横に振って、鐙を力強く踏み込んだ。腰を浮かせ、前だけ見据えて笑って答える。


「これ以上仕事増やさないで。そっちは会長に任せるから」

「ええ、任されました」


 そしてスランネージュがゲートに収まる。


『それじゃ、せいぜい楽しみましょうか。お子ちゃまども』

『うんッ! ボク本気で楽しむね!』

『キミに腹立つ理由がわかったよ。よく似てるんだね、お姉ちゃんに』


 ガチャリと音を立てて、ゲートが空いた。

 芦毛と黒鹿毛。三歳馬と実質一歳馬のマッチレースの火蓋が切って落とされた。

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