第71話 私たちに勝ってみろ

 『みじめ』とスランネージュに言われても、志穂は歯を食いしばって耐えていた。

 自身の騎乗が褒められたものではないことはわかっているから、侮辱されたところで気にもならない。ただ、生来のハンデを抱えてもなお努力するハルのこととなると話は別だ。


「本気でやってるヤツ笑うとか、マジでダサいよ」

『あ……?』


 スランネージュが正面ですごむ。相手は馬、五百キロ近い筋肉の塊だ。その力のままに暴れたら、志穂など簡単に殺せてしまえるだろう。

 それでも冷静でいられたのは、大村の教えがあってこそだ。


 ——幸せな人間が幸せな馬を作る。


 スランネージュが育った頃のひだまりファームは、決して幸せとは言えない。育ち盛りの仔馬には過酷な環境、仲間にも先立たれ、母もいなくなったのだ。

 であればせめて——


「負けたって本気で走ったんだよ。私ならがんばりを褒めてやるけどね」


 ——自分だけでも幸せな人間として接してやりたかった。


『何言ってんの? 負けは負け。みじめでしょ』

「なら本気で走って負けたアンタもみじめなのか?」

『私は手抜きしてるって何度も言いましたけど?』

「見え透いたウソつくなよ。あんな走り、手抜いてやれるワケない」

「加賀屋さん? 誰に喋ってるの……?」


 隣で小野寺が小首を傾げていた。スランネージュと喋っているなんて言って、理解してもらえるとは思わない。今はそんなことよりも、言ってやりたいことがあった。

 それはクリスや小野寺が教えてくれたことだ。嘘をついて逃げたままだと、自分を嫌いになってしまう。ツラくとも正々堂々敗北を受け止めないと、彼女はきっと後悔することになる。


「アンタさ。手抜いてるなんて言いながら、ホントはいつも本気で走ってんじゃねーの?」


 ぴくり、とスランネージュの薄笑いが止んだ。そしてダメ押し気味に小野寺の手から引綱を抜き去って歩き出す。


『もう帰りまーす⭐︎ ばいば〜い⭐︎』

「待てバカ!」


 垂れ下がった引綱をなんとか奪い取ったものの、スランネージュは止まらなかった。志穂を引きずる勢いでコースから馬房へ戻ろうとする。

 勝手に歩き出してしまう馬を諌めるには、綱引きをしたって無駄だ。引綱を持つ人間を中心とする円を描かせるように、うまく誘導するしかない。


『突っかかってこないでくれる? キミはホント面倒臭いね……』

「私はアンタの世話を頼まれてんだよ。気分転換させてやれってさ」

『だったら教えてあげる、いまの気分は最悪。キミのせいでね』

「なら私を倒してうさ晴らしすりゃいい」

『殺されたいの?』

「違う。私たちに勝ってみろ。ハルッ!」


 呼ぶと、ハルが駆けつけた。志穂を庇うようにスランネージュとの間に立っている。


『ネージュお姉ちゃん、レースしようよ! ボク本気でがんばるよ!』


 『本気』という言葉に、スランネージュは露骨に首を振った。もう聞きたくないと逃げているが、ハルはやる気に満ち満ちている。友好の印代わりに鼻先を近づけては離され、それでもめげずに近づけていた。


『やるだけ無駄だよ。私、さっきのオッサンより速いしさ』

『ならネージュお姉ちゃんの本気が見たい! 本気のネージュお姉ちゃんに勝ったら、ボクもお姉ちゃんと走れるよね!』

『……』

『あれ? 走れないかな?』


 スランネージュは黙ったまま、前脚を幾度となく踏みしめていた。声には出さない苛立ちが窺えて、志穂は後方に立たないようハルを避難させる。馬の後ろ蹴りは強力だ。ちょうど人間の顔面あたりを蹴り上げるため、まともに喰らえば頭蓋骨陥没で即死である。

 そんな必殺の一撃を空に向かって放って、スランネージュは告げる。


『……いいよ、走ってあげる。あの女の妹なら、憂さ晴らしにはちょうどいい』

『やったー! プレミお姉ちゃんの友達と走れるーッ!!!』

「なら決闘だ。一週間後、あんたが美浦に帰る前日までに、本気のハルと私でアンタを倒す」

『そこまでみじめな目に遭いたいワケ?』

「みじめな気持ちになるのはそっちかもね」

『あっそ』


 様子を見かねてか、大村が引綱を取ってスランネージュと馬房に向かっていた。幾度となく後ろへ蹴りを入れる気性の荒さは、彼女の闘争心の現れかもしれない。


「ハル、残り一週間で私たちも仕上げるよ」

『うんッ! お姉ちゃんに追いつくよ!』


 スランネージュとの一騎打ちは一週間後。

 もちろんハルに勝ち目などありはしないが、本気で食らいつけば得るものがたくさんある。

 実際、先のレースで志穂は体感したのだ。

 ハルはゲートがうまい。そしてトップスピードに至るまでの加速力が優秀だ。反面スタミナはまだまだ不足気味で、レース中に集中を欠いてしまう弱点も露呈した。馬と喋れる志穂がなだめてこれなので、実際のレースだと折り合いを欠いてしまうかもしれない。そして左回りのコーナーが苦手。さらには終いで末脚を使えないくらい全力を出し切ってしまう。

 克服すべき課題は山積みだ。だが、負けなければ課題すら見つからなかった。

 負けから学ぶことはたくさんある。大事なのは勝敗じゃなく、いかに負けたか。その負けから何を学びとれるかだ。


「私も本気でやるからね」


 手綱の握りすぎでマメができていた手のひらを目に、志穂は自分に言い聞かせるよう呟いた。


 * 


 クリュサーオルの様子を見に来た羽柴に事情を話すと、ハルと軽い追い切りを行ってからいの一番に告げた。


「ハルちゃんは左回りが苦手ですね。普段から右にばかり曲がる癖がありませんか?」

「そういえば、いつも放牧地の丘を右回りで登ったり降りたりしてるような……」

『丘を降るの楽しいんだよ! いつもより速くてピューン! って走れるし!』


 すこやかファームの広大な放牧地を独り占めにしているハルは、小高い丘が大好きだ。一気に丘を登って、スピードを上げて丘を下っては待ち受ける志穂を吹っ飛ばしている。


「てか、右回りとか左回りとか馬によって得意不得意があるの?」

「ええ、なんて言うんです。ちょっと難しい話なんですけど」

「待って、メモ取る」


 馬の歩様ほようにはいくつか種類があるが、これは大きく二種類に分かれる。

 ひとつは、リハビリ中のレインも行っている常歩なみあしのような左右対称歩法だ。馬は四本脚で大地を駆けるが、ゆっくり歩く際は脚の動きが左右対称になる。

 これとは反対に、競馬場で本馬場からゲートに向かうかえうまの際にみせる駈歩かけあし——キャンター——や、レース中の本気の歩様、襲歩しゅうほ——ギャロップ——は、実は左右の脚の動きが非対称になっている。

 つまりゆっくり歩くときは四本脚が左右対称に、急ぐと左右非対称の動きをするという。


「左右非対称で走るときは、左右のどっちかが軸足になるんです。このとき、コーナーの内側……左回りなら左足が軸足になっているとスムーズに回れるんですけど、逆だとコーナーで膨らんじゃったり、余計な体力を使ってしまうんです」

「わからん。試しに走ってみる!」


 外厩の左回りコーナーを、志穂は自分の脚で走ってみる。言われてみると、コーナーの内側の脚、左回りなら左足に重心を乗せるとスムーズに走れる。逆回りだと軸足も逆だ。


「なるほどね。コーナー内側に重心がある方が走りやすいんだ」

「その辺は人間も同じですね。馬の軸足というのは、一完歩で最後に着地する前脚のことです。ハルちゃんの場合は右手前ですね」

「右手前……」

『みぎてまえ……』


 たぶんわかっていないハルはぼんやりオウム返ししていた。せめてハルに説明できるようになろうと羽柴の話に耳を傾ける。

 直線を走るぶんには手前が右だろうと左だろうと関係はないが、コーナーになると向き不向きが出る。

 羽柴によると、駈歩や襲歩のとき瞬発力を生むのは軸足の反対側の後脚。ハルのような右手前の馬なら左後肢だ。左後肢で踏み込むと、前に進む力と同時に、右側に重心が傾く。その方がコーナーを回りやすいためだ。原理自体は、バイクレーサーや競輪選手がコーナーを曲がる際、大きく傾いてバンク遠心力を殺すことと変わらない。馬は自然にこれをやっているのだが、苦手としている馬もいる。


「つまりコーナーの直前でうまく軸足を変えられたら、右回りでも左回りでもロスなく走れるようになります。こういう馬を、手前を変えるのがうまいって言うんですよ」

「でもそれって生まれつきのモンでしょ? どうにかできるモン?」

『うんうん。できる気がしない!』

「自然にできる子、調教で身につく子といろいろいます。もちろんできない子もいますけど、そういう子は逆に出るレースを選べばいいんです。欠点じゃありません。ハルちゃんの大事な個性ですからね!」


 言って、羽柴はハルを撫でていた。

 右回りはハルの個性。中央競馬で右回りでないのは東京、中京、新潟の三場だ。オークスが開催される東京が苦手というのは少し悲しいが、逆に言えばそれ以外では有利に走れるということになる。

 「なので!」と意気込んで、羽柴はニコニコ笑いながら言った。


「ハルちゃんとスランネージュの決闘は、右回りで行いましょう! 距離は芝二千メートルがいいですね! 本番と違って坂はないしコーナーも多いですけど、双方ともにいい練習になると思いますよ」


 一応、外厩の芝千四百コースは右回りでも周回できるように作られている。右回り用のゴールが別にあるのだ。距離二千メートルの場合は向正面中ほどからの発走で、コーナーを六つ回ってゴールとなる。


「何それ?」

「三歳牝馬クラシック最終戦。秋華賞と同じ距離です!」


 三歳牝馬限定競争、秋華賞。

 それは桜花賞、オークスとしのぎを削ってきたクラシック三冠レースの総決算。昨年、改築工事を終えたばかりの京都競馬場、芝二千メートル内回りがその舞台。

 そしてそれは、志穂が目標にしているレースでもあった。


「ねえ、ハッシー。秋華賞には間に合いそうかな?」


 秋華賞は、他の同世代馬より一年近く成長が遅いハルが目指せる最後の世代戦。成長の早い馬はすでに新馬戦や未勝利戦を走っているが、ハルのデビューは来年だ。大きく遅れをとってはいるが勝たせてあげたかった。

 羽柴は「う〜ん」と唸っていた。どぎまぎするのは志穂だけでなくハルも変わらない。テッペンに挑むには、ハルにも冠が必要なのだ。


「京都か阪神の未勝利戦で勝ち上がって。夏を小倉か札幌で二、三勝。そこから紫苑ステークスで出走権確保すれば、って感じですね。もちろん勝てたらの話ですけど」

「じゃ、それで! 先の話になるだろうけど、ハルはハッシーの香元厩舎に任せるよ」

「ええ!? ウチはハルちゃんみたいな素質馬なかなか預からせてもらえない弱小厩舎ですよ!? いいんですか!?」


 羽柴は驚いていた。なぜ驚くのか志穂にはまるでわからなかった。


「ここまでいろいろ教えてもらって他に預けるとかないじゃん。それにハッシーはウチの事情も知ってるし、近くにモタがいたらハルも安心できるでしょ?」

『モタおじさんと同じトコなんだ! わーいッ!!!』


 もちろん本音を言えば、姉のマリーと同じ栗東の厩舎の方がいいのだろう。ただあの厩舎とは接点もないし、調べたところあのメスガキもいるらしい。あんなのと同じ厩舎にいるとハルの教育にもよくない。


「だからハッシーよろ——」

「びええええ〜ッ! 志穂ぢゃんありがどうございばぶ〜ッ!」

「まだ泣くの早いって!?」


 想像した通り、羽柴はふわふわの髪の毛をめちゃくちゃにして大泣きしていたのだった。そしてハルともども涙と鼻水まみれの羽柴に撫でられる。

 とりあえず、ハルのデビュー後の道筋は立った。

 あとは入厩するまでにハルが抱えた課題を解決していくだけだ。スランネージュとの決闘で、なにかしらの答え合わせができたらいい。


「じゃ、志穂ちゃんも練習しましょう! 短期集中で基本を叩き込みますね!」


 手のひらで短鞭をビシビシやりながら、羽柴はにこやかな笑顔で言った。

 この時の志穂はまだ知らなかった。馬には優しく甘い羽柴も人間の指導となると、鬼のように鞭を振るう鬼教官となることに。

 鞭はいらない。飴がほしかった。

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