第73話 実りの多い完全敗北

 晴天の洞爺。青々とした芝の大地に、ハルとスランネージュが飛び出した。

 ストップウォッチをカウントさせて、急激な加速度に耐え切った志穂は頭を上げて前だけを見つめる。首の後ろ、そして全身の痛みはアドレナリンが消してくれた。

 前方に他馬はなし。右回り、内ラチ沿いの好位を取るスタートダッシュ対決には打ち勝った。ただ、すぐ左側から芦毛馬がジリジリと圧をかけてくる。


「ハル、それ以上飛ばさない! そのまま内でコーナー回るよ!」

『オッケー! こっち回りなら得意ーッ!』


 向正面に設置されたゲートを出で、すぐ待ち構えるのがまずは緩やかな三コーナーだ。ハルが咥えた馬銜ハミに繋がる手綱で、右へのカーブを伝える。ハル自身のクセだからか右回りはスムーズだ。

 コーナー中ほどには、スタート地点から一ハロン——二百メートルごとに距離標識ポストが設置されている。

 最初の1ハロンは十三秒。出足は上々。速度を維持したまま三コーナーを回り、続いて四コーナーに突入する。

 緩やかな三コーナーの一方、四コーナーは曲率が急だ。これはスパイラルコーナー——馬群がバラけやすい——を採用しているため。あえて外めに膨らむコース取りをしやすく、コーナー出口で前に馬がいない状況を作り出せるのが利点だ。ゆえに前を抜く際に有利に働く。

 ずっとハルの左後方につけていた羽柴が、この好機を見逃すはずはない。わずかにコーナーを膨らむようスランネージュを操り、コーナー出口でしっかりハルの隣に横付けしてくる。


『邪魔よ』

『うわッ! ネージュお姉ちゃんに並ばれた! 追い抜かなきゃ!』

「ハル、待って! ネージュを先に行かせる!」


 ここからが志穂の作戦、そしてハルの正念場だ。

 ふたつ目の距離標識を過ぎて、走った距離は四百メートル足らず。まだ千六百も残っている。前走では必死で走り過ぎたハルは、途中で息を入れることを覚えてもらわなければいけない。


「ナイス判断です、志穂ちゃん!」


 そして一周目のホームストレッチでスランネージュが先行。ハルの行手ゆくてを邪魔しないよう直線を走りながら、内ラチ沿いで速度を緩めた。ハルも志穂の指示通り、スランネージュの背後にぴったりつけて速度を緩める。


『あれ? お姉ちゃんちょっと遅くなった?』

「途中で力抜いて体力を温存する! ハルも覚えて!」

『うん!』


 二千メートル中距離の場合、ハルやスランネージュのような先行脚質がスパートをかけるのは都合二回だ。

 最初のスパートは出足だ。前半の二、三ハロンはハロン十一秒台の高速ペースで走って位置取り争いをし、優位に立てるポジションを確保する。その後の三ハロン程度は十二秒台とやや速度を落として体力を温存する。これを息を入れるという。

 ハルはうまく折り合いもついて、一周目のゴール板前を通過。ここまでの三ハロンは三十六秒前後。前走では力のまま走ってしまったためにできなかった中間での息入れを体感に落とし込んでいる。


「がんばれーッ!!!」


 まばらな歓声が志穂の耳に届くことはない。志穂は騎乗に、ラップタイムに、ハルの状況に、そしてすぐ前方にあるスランネージュの発達した後肢に集中していた。

 直線を走り切って、まずは曲率の強い一コーナーにかかる。ここから向正面中ほどまでは息を入れるタイミングだ。

 ただ、息を入れているはずなのにスランネージュの先行力は高い。ぴたりとマークしていたハルがわずかに離されていく。


「ハル、まだ余裕ある!?」

『ダーっていく体力は残ってる! いまから行く?』

「まだ! もう少しだけ持ちこたえて!」


 両馬は一コーナーから二コーナーへ。そして向正面にかかっていく。

 千メートルの距離標識を通過。タイムは六十二秒。平均からやや遅いペースだが、スランネージュ自身は万全に仕上げたワケではなく、コーナーが多いコースレイアウトゆえに速度が伸びにくいのが原因だろう。そんな状態でもこれだけのラップタイムを叩き出すG1馬の実力に志穂の肝は冷える。


「ぐうたらしてたのにこんだけ走れるって怪物か!?」

『うん、ネージュお姉ちゃんすごい! 一緒に走るの楽しいーッ!』


 力量差は歴然だ。世代トップクラスの三歳馬と、実質一歳馬。鞍上も片や調教助手、片や女子中学生である。負担重量だけなら志穂の四十六キロとハルが圧倒的に有利だが——羽柴の体重は乙女のトップシークレットである——羽柴には圧倒的な騎乗技術と優秀な体内時計がある。

 そして向正面。先ほど発走したスタート地点が近づいたところで羽柴は腰を落とした。

 残り三ハロン。これがスパートの合図だ。


『ネージュお姉ちゃんがまた速くなった!?』

「こっからだよ、ハル! 全速力でぶっちぎれ!」

『いっくぞーッ!!!』


 慣性。再び後方へ引っ張られるような加速を、志穂は全身で受け止めた。アドレナリンが出ていても、もう足腰は限界だ。それでも志穂を背負って必死で走るハルを思えば、人間ごときが弱音を吐けるはずもない。

 競馬の主役は馬だ。騎手は主役を引き立て、勝利へ導く脇役に過ぎない。なら脇役にできることは、全身の痛みに耐えてでも主役の負担を減らすこと。

 どんなに足腰が震えてても、絶対に鞍に腰など下ろすものか。


「がんばれハルッ!!!」

『シホもね!!!』


 残り三ハロン。最初の一ハロンのラップタイムは十一秒台。ハルもしっかりスパートについていっている。このスパートを維持できればスランネージュ相手でも勝ちの目はある。ほんのわずかに、志穂もハルもまぐれを期待した。

 だが、まぐれなど起こるはずもない。

 得意なはずの右回りコーナーで、ハルは徐々に離されていく。スランネージュが速度を上げただけじゃない。ハル自身も速度が落ちている。潮時だ。


『あはは! シホの言ったとおり、やっぱり勝てないや!』

「でも諦める気ないでしょ!?」

『もちろんッ!』

「『諦めきれるかーッ!!!』」


 ハルと志穂の声が重なった。負けることなど折り込み済み、最初から結末など分かっている。

 それでも本気で、全力を出し切るのは、これが決闘だからだ。

 相手はスランネージュじゃない。

 たった一週間の猶予の中でも、可能な限りの努力を積んだハルと志穂ふたりの、過去の自分たちとの戦いだ。

 その戦いは、いよいよ終結に向かっていた。


「ハル! あと四百メートル!」

『うりゃりゃりゃあーッ!!!』


 残り二ハロン。ラップタイム十一秒台を記録したのは最初だけで、そこから一気にタイムが落ちる。やはり遅生まれゆえのスタミナ不足は否めない。ずるずるとタイムが落ちる。残り一ハロンを残してタイムは十四秒台。

 前方では、スランネージュがゴールに飛び込んでいる。

 それでも志穂もハルも諦めない。骨でも折れたのかというほどの激痛に耐えながら騎乗姿勢を続ける志穂も、首を必死に上下に振って力を振り絞るハルも、望むところは勝利だ。

 過去の自分に勝つ。

 ただそれだけを信じ、ふたりは長い直線を駆け抜けた。


 ハル、二千メートル完走。走破タイムは二分十二秒。

 一方のスランネージュは羽柴の読み通り、二分一秒。


 ハルは、前走のクリュサーオル以上の着差をつけられて敗北した。

 だがそれは大健闘の末の敢闘劇。

 もっとも実りある、見事なまでの完敗であった。

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