第49話 未出走と出走の差額

「このお嬢さんは、大村さんのお孫さんですかね?」

「志穂ちゃん、その言葉遣いはダメだぞ」


 大村が止めに入ろうが構わず、志穂は調べたかぎりのことを話し出した。


「レインが出走すれば、お金を稼げるんだよね?」


 競馬で儲ける方法は、実はふたつある。

 ひとつは古谷先生や大多数の馬券師たちのように、夢を託して勝つこと。

 そしてもうひとつが、馬主となってレースの賞金を得ること。


 レースの賞金は膨大だ。

 国内最高峰のレースである《ジャパンカップ》や《有馬記念》は一着になればなんと五億円。いちばん安い未勝利戦でも、勝てば賞金は五百万円だ。しかも一着でなくとも、五着までに入りさえすれば額は少なくとも賞金が得られる。これを本賞金という。

 五着までに入れなくとも、六着から九・十着までに入れば出走奨励金。そして出走さえすれば参加賞としていくばくかの手当が出る。さらには距離千八百メートル以上のレースに出走すると得られる奨励金、内国産馬——日本で種付けし日本で生まれた馬のこと——への奨励金など、馬は走るとお金をくわえて帰ってくる。


「計算したよ。仮にレインが一着だと六百万円もらえるんでしょ。馬主がもらえるのは八割だから、だいたい五百万。レインの口数は千口だから、ひと口あたりの配当は五千円」

「よく勉強してるね」


 頭を撫でようとしてきた獣医の手を払いのけて、志穂は獣医を睨みつける。

 賞金の話は、茜音に教えてもらって志穂自身で調べたことだ。

 マニーレインのひと口馬主たちがいくら払ったかなんて志穂にはわからない。あくまでも投資だ。たった五千円の利益のために無茶をさせるなんて許しがたいけれど、それもまた競馬の一側面。否定はできない。


「お嬢ちゃんにはわからないかもしれないが、これはビジネスなんだ。君も将来、馬を扱う仕事をするようになればわかるよ」

「わかってるよ。お金払ってくれてるお客さんに配当を出さなきゃいけないんでしょ」

「その通り。顧客に喜んでもらうことが第一だからね」

「だったらさ、もっと喜んでもらえる方法があるよ。レインが方が、ひと口馬主たちは稼げるよね」


 獣医師の顔がこわばっていた。やはり、と志穂は確信する。

 クラブ側はマニーレインが屈腱炎で瀬戸際に立たされていることを理解している。だからこそ、無理にでも走らせようとしているのだ。


 志穂ははっきりと見定めた。

 敵はマニーレインのひと口馬主たちじゃない。

 自分のところの馬に恥ずかしげもなく《マニー》なんて冠名をつけるカネの亡者、《ファイトマネーレーシングクラブ》だ。


「調べたよ、クラブの規則。そこに《競走馬保険》って項目があった」


 ひと口馬主は金融商品とはいえ、扱うのは生き物だ。何が起こるかわからない。

 それゆえ馬主たちは、万が一の事態に備えてエサ代や厩舎への預託料のほか、クラブ側が契約した保険会社に保険金を納めることになっている。これが競走馬保険だ。

 保険金は掛け捨て。無事に引退すれば一円たりとも戻ってこないが、万が一の死亡や事故や風水害、あるいは病気やケガによって引退を余儀なくされたとき、見舞金が支払われることになっている。


「アンタんトコの規則だと、レインが未出走のまま屈腱炎で引退したら、見舞金の八十パーセントが馬主たちに分配される。だけど一回でも走って引退だったら十パーセント。クラブにとってはどっちが得かな?」


 規定を調べれば、あとは簡単な計算だ。

 マニーレインが屈腱炎で引退したとき、クラブには見舞金が下りる。

 保険会社が支払う見舞金自体は、マニーレインが走ろうが走るまいが変わらない。仮に見舞金が一億円なら、この一億円を馬主たちに分配して、精算することになる。

 そこでクラブが取れる選択肢は二択だ。

 無理にでも一度出走させて屈腱炎を理由に引退させれば、支払う金額は一千万円で済む。

 一方、未出走で引退した場合、馬主に分配する金額は八千万円になる。

 カネの亡者がどちらを好むかなんて、考えずともわかる。


「教えてよ。保険金の支払いをケチりたいなんて理由だけで、レインに無理させていいなんて本気で思ってるワケ? アンタそれでも獣医師なの!?」

「こら志穂ちゃん! すみませんね、まだ子どもなもので……」

「構いませんよ。あなた方が何を言おうと、マニーレインが商品であることに代わりはありませんから」


 今にも噛みついてやろうと飛び出した志穂は、大村ではなくマニーレインに止められた。鼻先を固く、まるで馬柵のように伸ばして志穂の行く手を阻んでくる。

 躱そうとしたら、今度は志穂の服の裾を噛んででも食い止めようとする。離れてどこかへ電話をかけ始めた獣医師は脇に置いて、志穂は悟られないようにマニーレインの耳元に囁く。


「なんでレインが止めんの。危ないんだよ……!?」

『ぼくには、人間の事情はよくわかりません。だけど走れるなら、走りたいんです……』

「だから休んで治せば後でいくらでも走れるようになるんだってば! いま無理したってなんもいいことないんだよ!?」

『それでも……ヒーローになれるなら……』


 マニーレインにヒーローの話をしたのは失敗だったかもしれない。志穂自身、これほどまでに無理を承知で憧れているとは思わなかったのだ。

 彼には二十パーセントの屈腱炎がある。ようやく回復の兆しが見えてきたところなのに、レースに備えた激しい運動など始めてしまったら治るものも治らない。確実に悪化するし、命すら危うくなるとはなじみの獣医師の談だ。

 羽柴が言い残した「守ってあげて」の意図が、志穂にもようやくわかった。


 ——このままでは、マニーレインの命が潰されてしまう。


 電話を終えた獣医師は、頑なな表情を崩さずに言った。


「オーナーには出走可能と報告しました。すぐにでも香元厩舎に入厩させてもらいます。それと伝言です。金輪際、洞爺温泉牧場とは関係を持たない。馬も買わないし外厩に預けることもない、だそうです」

「そうですか……」

「では、失礼します」


 足早に去っていく獣医師の背を歯噛みして見つめながらも、志穂は立てなくなってマニーレインのそばに小さくうずくまった。


『シホさん……』

「……」


 どうあっても、マニーレインの出走は止められない。いくら本人にやる気があっても、すでに充分無理をした結果の屈腱炎なのだ。これ以上の無理をすればレースどころか、もう二度と走れなくなる。走れない馬に生き残る道はない。

 それに——


「じいちゃん、ごめん……。牧場の看板に泥塗っちゃった……」


 ——何より堪えたのが、世話になっている牧場に迷惑をかけてしまったこと。

 知恵も資金も経験も、恩を受けてばかりで何も返せていないのに、牧場の信用を貶めてしまった。それが耐えられない。

 だが、大村は怒るでもなく、志穂の頭を撫でて言った。


「いいや、よく言ったよ。えらいな」

「え……?」

「評判なんて水物だ、気にしなくていい。それにあのクラブとウチは、元々取引なんてないんだよ。無意味な脅しだ」

「でも私は……!」

「幸せな人間が、幸せな馬を作る。忘れたワケじゃないね?」


 心に留めていた言葉を再びかけられて、志穂はどうにか立ち上がる。クラブへの怒り、自身の無力さへのやるせなさ、そして悲しみでめちゃくちゃになった心には、幸せなどカケラもない。

 だが、それではいけないのだ。志穂は無理に笑顔を作る。


「……幸せそうに見える?」

「ははは、まるで見えないな! でも、それでいいんだ。笑って楽しんでいれば幸せが舞い込む。よくがんばったよ」


 言って、今度は大村もどこかへ電話をかけ始めた。

 一方で志穂は、マニーレインの馬体に顔を埋めた。温かさと、草の香りが混じった匂い、肌をくすぐる滑らかな毛並みを味わう。

 たしかに、競走馬は法律上は物に過ぎない。だけれどそれ以上に生きている命だ。そんなものを粗末に扱うのなら、許す訳にはいかない。


「……レイン、私決めたよ」

『はい……』

「絶対、アンタを守る。すこやかに過ごせるようにする。だからちょっとだけガマンして。アンタが死ぬようなトコ、見たくないから」


 愛おしむように、そして頼るように身を寄せてきたマニーレインに抱きついて、志穂は考える。

 あのカネの亡者から、どうにかしてマニーレインを引き剥がさなければいけない。

 タイムリミットは刻一刻と迫っていた。

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