第48話 再検査と一流の獣医
東京競馬場第9レース《町田特別》。
ひとつ勝つだけでも大変な競馬の世界で二勝を挙げた競走馬たちの戦いは、下馬評通りの固い決着だった。
勝ち馬は一番人気、5番クリュサーオル。得意の東京競馬場、後方一気からの六馬身差の圧勝だ。もう最下位でくすぶっていた頃の面影はない。
『モタおじさんすごいねー!』
『うん……! 親分はやっぱり強い……!』
今は亡き馬主の斉藤萌子も、天国で勝利を喜んでいるだろう。誇らしげにウイニングランを決めるクリュサーオルと鞍上の映像を繰り返し眺めていると、志穂のスマホが音を立てた。羽柴からだ。
開口一番「勝ぢばじだあ〜!」と嗚咽まじりの鼻声で、ずびずび泣きながらクリュサーオルの勝利について羽柴は何度も話していた。羽柴の馬への愛を呆れながらも楽しんでいると、話題はマニーレインに移る。
なんと、マニーレインの出走が決まったという。急転直下の出来事だ。
「は? 今なんて言った?」
「だからレースが決まってしまったんです。来月の未勝利戦なんですけど——」
「待ってよ! まだ全然治ってないんだけど!?」
馬への愛情から一転、電話口から聞こえたのは正気を疑うような発言だった。
ここにいてはマニーレインに聞かれて、余計な心配をかけてしまう。志穂は洗い場を後にして、放牧地へ向けて歩き出した。
「こないだ診断書送ったよね? 屈腱炎はまだ二十パーセントも残ってんだよ? なのに走らせんの!?」
「聞いて志穂ちゃん、これにはちゃんとワケがあるんです!」
そして、羽柴は未出走の三歳馬がおかれる厳しい現実を教えてくれた。
競走馬は早くて二歳、遅くても三歳の春にはデビューする。まずは二歳や三歳の未出走馬限定の新馬戦、あるいは未勝利戦を勝てれば次のステップへ進める。
だが、新馬戦は二月には終わる。勝ち上がれなかったりデビューが遅れた馬は三歳未勝利戦に挑むことになるのだが、この三歳未勝利戦も夏とともに終わってしまう。
「ワケわからん! つまりなに!?」
「レインが出られるレースは八月いっぱいでなくなっちゃうんです! だからこのチャンスを逃すわけにはいかなくて……!」
今は六月の下旬。あと二ヶ月で三歳未勝利戦は終了する。
チャンスはもう数えるほどしか残っていない。その少ない枠に、勝ち上がれなかった大勢の馬たちが相次いで登録するため、この機を逃すと中央競馬に居場所はない。
志穂は羽柴の意図を理解した。
マニーレインには、競走馬としてのタイムリミットが迫っている。
「だからってケガしたまま走らせろって言うの!? 待てばいいじゃん九ヶ月! 他に方法だってあるよね!?」
だが、志穂は知っていた。
中央競馬に居場所がなくなっても、日本には地方競馬がある。日がな一日、古谷先生が熱狂している地方には、中央から移籍した馬も多いのだ。仮に中央で成績が振るわなくても、地方が合えばレースはできる。もちろん格上挑戦、下克上上等で中央に残ったっていい。
「だからそれはね、志穂ちゃん……」
「最悪。羽柴さん嫌い。もう切る」
「だからそうじゃなくてえ! 嫌いにならないでえ〜……!」
うろたえるような声とともに、電話口から聞こえる羽柴の声がひときわ小さくなった。誰かに聞かれないよう、ひそひそと音量を落として囁いてくる。
「……オーナーサイドの指示なんです」
「オーナー? なんで……?」
唖然とした。志穂はずっと、馬主の《ファイトマネーレーシングクラブ》に週報や動画、診断書を送り続けてきた。あの情報が頭に入っていれば、一ヶ月後の出走なんて無茶は言い出さないはずなのに。
「クラブ馬は、オーナーの意向が強いんです。厩舎としても意見は言ってますが——」
「おかしいって! あと一ヶ月で治りっこないことくらい知ってるはずじゃん!」
だが、羽柴は続けた。
「送ってくれた診断書はね、再検査ってことになりました……」
「意味わかんない。こっちは毎週獣医さんに診てもらってんだよ!?」
「少し前に、オーナーから連絡があったんです。一流の獣医を派遣するそうで……」
「こっちの獣医が信用できないって言うの!?」
「……志穂ちゃん、こんなことをお願いするのはホンットーにダメなことだとはわかってます。だけど、ひとつだけ言わせてください」
羽柴は消え入りそうな声で告げてきた。
「レインを、オーナーから守ってあげてください……」
言って、羽柴からの電話は切れてしまった。折り返して怒りのLINEを送ろうとしたところで、放牧地の仔馬と目が合う。
この間生まれたばかりのティナの仔だ。難産だったものの、今では志穂を見つけて駆け寄ってくる。
生まれたての
「怒っちゃダメだよな……」
未来ある仔馬の前で、不幸な姿を見せてはいけない。どんなに声を荒げて叫びたくても、下唇を噛んで志穂は仔馬を撫で上げる。柵越しにわしゃわしゃと、お日さまの匂いがする馬体にキスをして、志穂は心を落ち着けた。
怒りをぶつける先は馬じゃない。そこら辺に転がってるバケツや牧柵でもない。
「……ファイトマネーレーシングクラブ」
志穂は即座にスマホで検索し、情報を集め始めた。
連中の出方を伺わないことには、どうすべきか決められない。
ただし、確実に言えることがひとつある。
——マニーレインに無茶をさせるなら、馬主と言えども志穂の敵だ。
*
羽柴が言っていた一流の獣医師は、約束通りやってきた。
志穂は睨みつけたくてたまらない苛立ちを抑え、大村とともに診察に立ち会う。これ見よがしにエコー検査の画像を見せつけて、マニーレインを蝕む二十パーセントの屈腱炎をアピールする。
担当厩務員はあくまでも大村だ。だから出過ぎたマネはできない。志穂は黙って診察を待っていたが、派遣された獣医師はエコーを撮ることも、志穂が持ってきたエコー写真を見ようともしなかった。
そして、ただマニーレインの左前脚、屈腱炎の患部を見ながら言う。
「このくらいなら大丈夫でしょうね。一ヶ月後には出走できるはずです」
掴みかかろうと動いた体は、大村に制された。悲しげな表情で、「ダメだ」とばかりに首を横に振っているので、志穂は堪える。噛み締めた奥歯が痛かった。
ただし、志穂の無念は大村が代わりに晴らしてくれた。
「うちでも獣医に診てもらってるんだけど、そっちだと状態は悪そうなんだがねえ」
「まあ、見方はいろいろありますがね。走れないって訳じゃないですから」
「ええと、これがエコー検査の画像なんだがどんなもんだろう?」
差し出したエコー写真を一瞥して、獣医は露骨に嫌そうな顔を見せた。
「撮り方によって変わります。たしかに中程度の損傷には見えますけど、この程度の屈腱炎なら走っている馬もいますよ。ご存知ないかもしれませんけどね」
「そうかい……」
暗に「文句をつけるな」とでも言いたげな獣医師の言葉に、大村は諦めたように小さくため息をついた。
どちらの診断結果を信じればいいのか、志穂には医学的な見知などないからわからない。ただ、いつも世話になっている顔なじみの獣医師と、どこの馬の骨とも知らない一流の獣医師とやらのどちらを信頼できるかと問われれば話は別だ。
「……本気で言ってんの?」
大村に手で諌められたが、志穂の口は止まらなかった。
「アンタらには、どうしてもレインを出走させなきゃいけない理由があるんじゃないの?」
獣医師の眉がピクリと動いた。
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