第40話 日帰り嫁入りツアー

 「家業のため欠席します」と古谷先生にLINEを送ると、了解を示すスタンプが返ってきた。

 これで必要な準備はすべて整った。志穂は犬小屋馬房のクリスを撫でてから、馬具を取り付けていく。最後に念のための引綱を持って、自分に言い聞かせるように意気込む。


「よし。行こっかクリス」

『じゃあハル、いい子でお留守番してるのよお』

『帰ってきたら遊んでくれる!?』

「はいはい、疲れてなかったらね」


 しばしの別れにハルを撫でて、ついでにニンジンもあげておく。実家の従業員たちにも、定期的にハルの様子を見てもらうよう頼んでおいた。問題はないだろう。

 手配した馬運車は家の前に停まっていた。運転手に挨拶すると「中学生ひとりだけか?」と驚かれたので、途中で同乗する大村の名前を出して安心してもらう。

 クリスを馬運車の中に案内して、志穂もまた同じ空間に椅子を置いて座った。

 大型トラックで運ばれる荷物の気持ちが少しわかる。換気窓もエアコンもついているのに、馬運車はなかなか窮屈だ。なんせ馬がすでに一頭、このあともう一頭増えると思うと余計に狭い。

 それでも、助手席で外の景色を眺めるよりは、クリスたちといた方が楽しい。


 そして馬運車は動き出す。

 目指すはスタッド。《ゴールドシップ》の待つ新冠にいかっぷ

 洞爺から片道三時間の、長い旅が始まった。北海道はクソでかいのだ。


 途中、洞爺温泉牧場に寄って大村と合流。翠に「ついで」と頼まれたもう一頭の繁殖牝馬が馬運車の中に入ってくる。そちらへ鼻先を向けて、クリスは『誰だ?』とばかりに首を捻っていた。


『はじめましてえ〜』

『はじめましてじゃないわよ! ずっと隣の部屋にいたでしょ!?』

『あらあ? そうだっけえ〜?』


 クリスはすっかり忘れていたが、キャンキャンわめく繁殖牝馬の名前はフィオナ。鹿毛の十二歳だ。以前、志穂が初めて話しかけたとき『あんた喋れるのッ!?』とどこかで覚えがある反応を返したとおり、あのオレ様のお母さんだ。


『ちょっと人間! あんたのトコのクリス、もうボケてるわよ!?』

「単純に興味ないだけじゃない?」

『この私に興味がない!? あり得ないわ! ちょっとシホ、私のすごさを語ってやんなさい!』

「しょうがないなあ……」


 クリュサーオルの母、《Saloon Fiona》。

 彼女は今でこそ洞爺にいるが、出身地も戦ったのも海の向こうの欧州だ。

 比較的日本の芝に近いとされるドイツ出身で、現地での成績は五戦三勝。勝ち鞍の中には重賞——ここではG2、G3といったG1以外の格付け競争のこと——も含まれている。

 勝ち上がるだけでも難しい競争の世界で、重賞まで獲るのはすごい競走馬だ。


『すごいのねえ〜。私は勝ったことないから尊敬するわあ〜』

『ふふん! わかったでしょ、私の方がすごいって。よくやったわ、シホ!』


 とはいえ、馬の評価を決めるのは何も競争成績だけじゃない。


「でもクリスの仔はG1ふたつ取ってるよ。今や世代のトップ。で、フィオナの仔は?」

『う……ウチの仔だってすごいわよ!?』

「勝ち上がった仔が二頭。最高はモタの二勝クラス。重賞はまだ取ってない。クリスの方がすごいね」

『あらあ、そうなのねえ? 私って負けてばかりだったのに不思議ねえ〜』

『なによ!? この私が劣ってるって言いたいの!?』

『ええぇ〜!? どうしてそうなるのお?』


 クリスはいつものように誤解を招いていた。心がよこしまな人馬には、クリスの物言いがまるで煽っているように受け取れてしまうのである。クリス本人は何も考えず、ただ感想を述べているだけだというのに。


『私の仔は優秀なの! 負けてるのは乗ってるヤツがヘボいせいよ! 私に乗ってた人間連れてきなさい! そしたらG1だろうがなんだろうが取るに決まってるわ!』

「ホントに強い馬なら誰が乗ろうが勝つんじゃね?」

『うぐ……』


 クリスをバカにしたので志穂はきっちり逆襲したのだった。何か言おうとしたフィオナだったが、言うに言えず首をぶんぶん振っていた。落ち着くように言い聞かせても辞めないので、とっておきの福紅すこやで黙らせる。クリュサーオルの負けん気の強さは、母譲りらしい。

 ただ、それなりには可哀想なので志穂はフォローに回る。


「でもま、モタも強いよ。次のレースも一番人気だし。うちもモタのおかげで新しい家が建ちそうだしね」

『つまりウチの仔のおかげでいい暮らしができてるんでしょ!? だったら私の勝ちよ! わかったらわかったって言いなさい、クリス!』

『わかったわあ〜』

『なんで素直に認めてんのよ!? そこはもっと突っかかってくるトコでしょ!?』

『ええぇ〜!? どうすればいいのお〜……?』


 ライバルなんだかなんだかわからないふたりと志穂を乗せた馬運車は進む。

 長旅に備えて用意していた文庫本を開く暇もないくらい、志穂は賑やかな日帰り嫁入りツアーを楽しんでいた。


 *


 片道三時間の移動を経て、馬運車は新冠のスタッドに到着した。

 志穂はクリス、フィオナ両頭を近くに繋いで、大村とともに諸々の契約を確認する。スタッドと言えば悪だと信じて疑わなかった志穂だが、応接室に通され、懇切丁寧な説明の上にお茶と茶菓子やグッズまでもらえて考えを改めた。


「めっちゃいい人じゃんスタッドの人……」

「ビジネスをやってると悪く言われるからねぇ。でも、彼らほど馬産のことを考えている人たちはいないよ」


 大村の言う通りだ。たしかに種付け料は高額なビジネスだ。それでも受胎しないと無料だったり、受胎しても流産に終わったら翌年無料で種付けできるフリーリターン特約が用意されていたりする。決してビジネス第一というわけではない。彼らもまた、持ちつ持たれつのホースマンだ。

 スタッド側の準備を待ちながら大村とふたりで応接室で待っていると、不意に大村のスマホが鳴った。ちらりと見えた番号表示には、北野翠とある。


「わかった、志穂ちゃんに代わるよ。志穂ちゃん、翠さんから話だって」


 電話口で大村は何か話すと、志穂にちらりと目をやった。どうやら志穂に用事があるらしい。電話を受け取ると、翠の声が聞こえてくる。


『アンタ、羽柴って調教助手知ってるかい?』


 羽柴といえば、人馬の奇跡を信じていて、ズブのドシロウトを現役競走馬に乗せて疾走させた頭のネジの飛んでいるクリュサーオルの調教助手である。ついでにふわふわした髪の毛がトレードマーク。頭の中までふわふわなのではないかと志穂はひそかに疑っている。


「知らない」

『あっはは、トボけたって無駄だ。その羽柴が、うちの外厩に馬を預けたいんだとさ。しかも厩務員にアンタを指名してる』

「は? 中学生だよ? 資格も持ってないんだけど」


 トレセンに勤める厩務員は、調教師資格や調教助手の講習受講が必須だ。それらの受験資格は最低でも中卒。つまり志穂はトレセンには厩務員の家族でもない限り立ち入れない。

 だが、トレセン代わりに利用する外厩なら話は別だ。もちろん外厩の厩務員もだいたいは資格を有しているが、人事差配は基本的に外厩の管理者に任される。洞爺温泉牧場がいいと言えば、志穂でも手伝いくらいはできるのだ。


『断る理由は、資格がないから。それだけかい?』

「あと羽柴さんは厄介ごと持ってきそうだからヤダ」

『わかった、オッケーって伝えとくよ!』

「待って、話聞いてた?」

『こういうモンは持ちつ持たれつだよ、志穂! あっははは!』


 そう言い残して、翠からの電話は切れた。

 なにかまた、嫌な予感がする。


「志穂ちゃんは人気者だねえ」

「体いくつあっても足んないよ……」


 またしても、クリュサーオルみたいな馬だったらどうしよう。

 志穂は頭を抱えながらも、それでも新たな馬との出会いを少し楽しみにしているのだった。

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