第41話 祈りと生命のバトン

 そして、とうとう命の営みが始まった。


『緊張してきたわ……ちょっと人間! 撫でなさい!』

『わたしもお〜』

「はいはい、落ち着いて。暴れないようにね」


 ふたりとも、緊張が隠し切れない様子だった。

 特にフィオナは気が立っているようで、落ち着きなく脚を動かしている。のんびり屋のクリスもこの時ばかりはそわそわして、耳は不安げに畳まれていた。

 きっと、これから種付けだと理解している。事前に志穂が伝えたからだけじゃない。何かしらピリピリと感じ取っているのだろう。動物の本能、野生の勘ともいうやつで。


 スタッドの厩務員に案内され、小ぶりな体育館ほどの建物に案内された。

 ここが競走馬の交配の場、あるいは愛の巣。部屋の中央には繁殖牝馬をしっかりと固定するためのポールや柵が立っている。人間に喩えるとアブノーマルな香りがするが、逆に言えば、ここまで厳重でなければならないという現れでもある。

 志穂もまた、気を引き締める。そしてふたりを連れていこうとしたところで、大村に止められた。

 

「志穂ちゃんは離れたところで見ていなさい」

「え? 準備とか手伝わなくていいワケ?」


 珍しく真剣な表情で大村が言う。普段は笑っているだけに、態度の差が多くを語っていた。


「交尾は本当に危ないんだ。どんなに大人しい馬でも気が立つから、慣れている人間であろうと蹴り殺されるかもしれない」

「わかった! じいちゃん死なないで!」


 志穂は悩む間もなく大村にふたりを委ねた。自分も馬も命は大事だ。馬産初心者の志穂が預かるより、ベテランに預けた方がいいに決まっている。

 あいにく馬の声は聞こえなくなってしまうが、離れていても様子を伺うことはできる。志穂はメモを取り出して、種付けの様子を書き記すことにした。


 交尾。要はセックスは馬においてもリスクが高い。

 まず陰部はむき出しの臓器だ。粘膜が保護しているとはいえ、雑菌が入り込むと牡馬も牝馬も病気になってしまう。ゆえに周辺の洗浄は絶対だ。水洗いと布で汚れを確実に落とすところから始まる。

 そして交尾時の邪魔にならないように、牝馬の尻尾は束ねておく。興奮している牝馬の背後に回らなければいけないため、かなり危険な作業だ。大村と厩務員が手早く二頭の尾を包帯でぐるぐる巻きにする。

 そしていよいよ、ポールに牝馬を固定する。ポールにクッション素材が巻きつけてあるのは、それだけ暴れる危険性が高いからだ。よく見ると頭を固定する柵も普通よりはるかに頑丈に作られている。


 そして、いよいよ種牡馬が入ってきた。

 現役時代は灰色だったが、今や白馬としか思えない稀代の名馬、《ゴールドシップ》が姿を現す。

 何を考えているのだろう。話をしてみたい。歩み寄ろうと思ったが、そばにいた厩務員に止められてしまった。無念。

 代わりに、志穂はスタッドの関係者に尋ねてみる。気になるのはクリスとフィオナ、ふたりを同時に並べていることだ。


「二頭同時に種付けとか普通なんですか?」


 「珍しいですね」と厩務員は首を横に振った。

 種牡馬は交尾後はある程度間を空けることが多い。人間で言うところの「賢者モード」みたいなものだと志穂は説明を受けたが、よく意味がわからなかった。

 ただ、種付け自体は多い日だと一日四回行うこともあるという。種牡馬は交尾が仕事だとは言え、それだけ数をこなせる体力は相当だ。これもまた一流の名馬の証なのだろうと白い馬体を見ながら噛み締める。

 そして、彼は仕事を開始した。フィオナの背後に近づき、背に覆い被さるように上体を持ち上げる。


「うおお……」


 志穂の体は固まっていた。目の前の光景に、釘付けにされる。

 まだ東京に住んでいた頃、友達が送ってきたアダルトビデオの動画を見せられたことがあった。志穂の感想は「みんなこういうのが好きなのか」と淡々と冷めていて、友達にハブられたことを思い出す。

 だが目の前で行われている営みは、交尾が持つ猥雑なイメージとはまるで違っていた。


「生命を感じますよね」

「うん……」


 荒々しくも猛々しい、二頭による咆哮。鼻息荒く抵抗するフィオナと、それを組み伏せる種牡馬の戦いだ。

 フィオナを固定する鉄鎖がジャラジャラと響く中、がらんどうの空間に激しい吐息と筋肉同士がぶつかり合う音がこだまする。

 離れていても圧倒されてしまうほど力強く壮絶で、見ていられないほどの狂気がほとばしる。

 そこには人間界のルールなど通用しない。志穂には想像もしなかった巨大な生命力がぶつかり混ざり合って、次の世代へと命のバトンが受け渡されようとしている。


「……ねえ、これって人工授精とかじゃダメなの?」


 なにもこんな壮絶でなくてもいいのでは。そう思う志穂に、厩務員は首を横に振った。

 実は、馬のゲノム解析はすでに終わっている。中でも筋肉肥大に影響するミオスタチン遺伝子の型は、のちの競争人生を左右するものだ。この遺伝子を有利になるよう配合すること自体は、現代の科学力なら簡単にできる。

 だが、人為的に生産された馬はサラブレッドとして認められない。


「でも、禁止の理由もなんとなくわかるよ。生まれてくるだけで奇跡ってのは、こういうことか……」


 馬は馬として、自然界の流儀に則って生を受ける。だからこそ美しい。

 禁止された理由はきっとそんなところなのだろう。志穂は自ずと納得する。


 そしてあっけなく、自然界の営みは終わった。腰を下ろし、フィオナの元を離れる種牡馬の陰部を洗浄したのち、間を開けず今度はクリスに覆い被さる。

 志穂はメモを取る手も止めて、祈るように手を合わせていた。


 どうかケガなく無事に終わりますように。

 どうか無事に新しい命を授かれますように。

 そしてどうか——無事に出産できますように。


 相変わらず猛々しい、暴風のような生命のぶつかり合いが続き、終わった。

 見ているだけでどっと疲れた志穂はその場に崩れ落ちる。繋がれた牝馬ふたりのそばから、連続の種付けというタフな仕事を終えた種牡馬が去っていく。


 その背は頼もしく、たくましい。

 茜音から聞いていた破天荒な迷馬の印象とはまるで違う、第二の馬生を完璧に勤め上げた《ゴールドシップ》。彼は遠巻きに志穂に一瞥をくれて、愛の巣を去っていった。

 まるで、『仔どもを預けた』とでも言うように。

 馬が、そして人々が連綿と続いてきた命のバトンを、志穂はしっかりと心で受け止める。


「ふう……ふたりともよくがんばってくれたねえ……」


 汗まみれの大村が、二頭を連れて戻ってきた。

 交尾後は陰部を洗浄して、傷がないかしっかり確認する。そして尻尾のぐるぐる巻きを解いて、ようやく嫁入りツアーは完了だ。

 あとは約三週間後、エコー検査で受胎が確認されるかどうかが運命の分かれ道である。


「ふたりともお疲れ。ニンジン食べる?」

『食べるう〜♪』


 鼻先に差し向けてあげると、クリスはいつもの調子でニンジンを食べていた。ママとしてベテランなぶん、クリスは余裕があるのだろう。

 ただ、フィオナの様子がおかしかった。


『……上手すぎよ、アレ……』

「は? なにが?」


 首をぶんぶん振って、フィオナには落ち着きがない。耳もぺたりと畳まれて、気弱そうにしている。

 とりあえずニンジンを差し出すと我に返ったのか、志穂の手からニンジンを奪い取って一心不乱に貪り始めた。


『なんでもないわよ!? いいからニンジンもっとよこしなさい! たくさんよ! お腹の仔のためにも!』

「気が早くない?」

『いいやアタシは産むわ! のためにもぜったい強い仔を産む! 男の子がいいわね! そして今度こそ、そこのボケボケしたのに勝つ!』

『あらあ? 他に誰かいるう〜?』

『アンタのことだって分かんでしょーが!?』


 志穂はようやく、理解できた。

 オスなんて種付けの時にしか姿を現さないのに、馬にもそういう気持ちが芽生えるらしい。そう思うとニヤケが抑えられなかった。


「ふーん、フィオナはゴルシが好きなんだ?」

『ちっ、がうわよッ……!? 誰があんな雪だるまみたいなヤツ!』

『若いっていいわあ〜。素敵ねえ〜♪』

『蹴り殺すわよォッ!?』


 フィオナがいななき、大村はてんてこまいになっていた。

 志穂は大仕事を終えたクリスを撫でる。それはもうわしゃわしゃと。それに応えるように『もっと撫でて』とばかりに伸ばしてきた鼻先も、摩擦熱で燃え出しそうな勢いでひたすらに撫でた。


「よくがんばったじゃん、えらいよ」

『シホが喜ぶなら、それが一番よねえ』


 不意の言葉に、志穂はクリスの馬体に顔を埋めた。堪えきれなくて漏れた涙はなかったことにして、志穂はクリスを連れて歩き出す。


「無事に帰るまでが旅行だからね」

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