第39話 持ちつ持たれつ持つ

「とっととバズって稼ぎてえ……」


 底辺配信者めいたことを口走って、志穂はスマホ片手に大地に倒れた。


『あらあ? 今日は写真撮らないのお〜?』

「いやさあ、もう少しうまくいくと思うじゃん? このザマよ」


 すこやかファームの公式アカウント開設から三日。ハルの出自を明かした写真を載せると応援のコメントやいいねは貰えたが、きょうびどの牧場でもこの程度のファンサービスはやっている。


「ハルはがんばってんだけどなあ……」

『そうねえ〜。だけどまだ、ハルはレースに出てないものねえ〜』

「それなー……」


 志穂にとってハルは特別な馬だ。だが世間にとってはまだ違う。


 競走馬は、走ってこそ人気者になる。

 それはたとえば《ディープインパクト》のような生涯を通した強さだったり、《ステイゴールド》のあと一歩勝ちきれないくやしさから「次こそは!」と愛さずにいられなくなる気持ちだったり。あるいは《トウカイテイオー》の奇跡の復活劇。それと対極にある《サイレンススズカ》の悲劇性。または《ツインターボ》のいさぎよさ、何度負けても健気に走り続ける《ハルウララ》への共感。《ゴールドシップ》の破天荒さ。その他挙げればキリがない。

 名馬と称される馬は、必ずと言っていいほど競争に彩られた物語がある。


「走んなきゃ始まんないんだよなー」


 だが、ハルにはまだ物語がない。今はまだ、ハンデを背負っているだけだ。

 もし将来、ハルが世間に愛される馬になったとしても、今は物語の第一章どころかプロローグに過ぎない。こんな時点で応援できる人なんて、よほど気の長いモノ好きである。

 巷で人気のタレント馬になるのは、ある意味G1を勝つより難しいのだ。


「ヨギボーで寝るトコ撮っても二番煎じだし」

『気持ちいいわねえ〜これ〜♪』


 余ってるからと晴翔から貰ったビーズクッションに頭を置いて、クリスは目をうとうとさせていた。すかさず写真は撮ったものの、この分野にはすでに偉大なる先達アドマイヤジャパンがいる。

 なにか手っ取り早く三百万を稼ぐ方法はないものか。


 越えようがないと思われた三百万円の壁だったが、思いもよらぬ方法であっさり解決するのだった。


「なんだ、そんくらいならウチで貸してやるよ!」

「翠さんマジで言ってる? 三百万だよ……?」


 本場の馬房を掃除していた志穂が漏らしたボヤキに、牧場の女頭領はさも当たり前のように言ってのけたのだった。


「フケてんのに何をチンタラやってんだと思ってたら種付け料かい。んなの気にせずとりあえず付けりゃいいじゃないか。当たらなきゃタダなんだから」

「確かに受胎確認後支払いって書いてあるけど……」


 高額な種付け料を支払っても、受胎しなければ払い損。牧場はただ損失を抱え、最悪潰れて人馬ともども首をくくる——。


 ——なんて最悪の事態を避けるため、高額種牡馬には受胎条件というオプションが付くのが一般的だ。

 これは交尾後無事に受精卵が着床、受胎が確認された段階で種付け料を支払うというシステムで、もし不受胎だった場合は種付け料はタダ。もっと手厚い、出産確認後の支払いなんてプランもある。一種のクーリングオフ制度のようなものだろう。

 志穂のお目当て《ゴールドシップ》も、受胎確認後に三百万円。だから「とりあえず付けとけ」という翠の話ももっともではあるけれど。


「なんかそれ話ができすぎてない? 他人に三百万ポンと貸せないでしょ……」

「志穂、せっかくだしアンタに教えとくよ」


 翠の声色が変わって、ピッチフォークで寝藁をふかふかにしていた志穂は動きを止めた。馬房の外で缶コーヒーを開けると、翠は言う。


「アンタも農家の娘ならわかんだろ。生き物を扱う仕事ってのは不安定だ。天候や気温で収益が変わるし、台風でも来たら大損だろ?」

「あんま農家の実感はないけど……」

「馬作りもおんなじさ。今年はマリーとモタのおかげでウチの評判も上がったけど、人気なんて水物。いつ食うに困るかわからない。だから馬産家は助け合わなきゃいけないんだよ」


 言って、翠はもう一本缶コーヒーを取り出して投げ渡してくる。

 それを受け取って、志穂もまた馬房の外に出る。


「助け合うって言っても、ウチなんもやってないよ?」

「アンタ自分トコの家業のことも知らないのかい……」


 呆れたとばかりに息を吐いた翠に小突かれた。「着いてきな」と言われるままに厩舎を出て、巨大な倉庫に連れて来られる。

 中に入っていたのは、引っ越し用の段ボールほどの大きさの牧草の塊だ。それが何段も積み重なっている。


「これはチモシー。競走馬用の乾燥牧草だ。全部アンタの実家で作ってるモンだよ」

「あのクソ親父ニンジンとジャガイモだけじゃなかったのか……」

「去年から作り始めたんだとさ。これもご近所の縁だからって、安値で卸してもらってんのよ」


 たしかにと思い起こす。大村から馬のエサやり——飼い付けについて学んだあと、父親はどこからともなくチモシー乾草を持ってきた。気を利かせて注文したものだと思い込んでいた志穂は、「たまにはいいことするじゃん」と少しは感謝する気にもなったというのに。


「どうして肝心なこと説明しないんだあのクソ親父……」

「男ってのは勝手だからねえ。ウチのバカ亭主も、この時期はヨーロッパで競馬ざんまいだ。どうせまたどこの馬の骨ともわからん繁殖牝馬をおみやげに買ってくるんだよ? たまったモンじゃないね」


 はあ、と大きなため息とともに肩を落として翠は言った。晴翔の父が本場・育成両牧場で見当たらなかったのはそういうことらしい。


「ま、これで助け合い成立だね。三百万なんてかわいいモンだ」

「甘えていいん?」

「持ちつ持たれつなかよく競い合っていこうじゃないか。まあでも、来年のクラシックは全部ウチの仔が貰うけどね!」

「いーや、全部ハルが勝つ。クラシック全部取って史上初のダブル三冠するし」

「あっはは、その意気だ!」


 くやしくて言い返すと、翠はにかっと笑って志穂の背を思いきり張った。

 不意の衝撃に志穂の視界は眩んだが、それよりも馬産家として認められたことがこそばゆくて、痛みはどこかへ吹き飛んでいた。


「ほらほら、そうと決まればとっとと準備しな。獣医呼んでスタッドに連絡して馬運車手配して仕事は山積みだよ!」

「ありがと、翠さん!」

「そうだ、ついでにスタッドにもう一頭種付けするって伝えといて。あと馬運車もウチに寄ってもらう。代わりに獣医はこっちで手配しといてやるよ」


 ここに来て、志穂は気づいた。

 うまく転がされていただけなのでは。


「……面倒な仕事、押し付けてない?」

「言ったろ? 持ちつ持たれつだ!」


 翠は豪快に笑っていた。

 釈然としない部分はあったけれど、ようやくお金にメドがついた。志穂は大急ぎでスタッドの番号にかけて、二頭分の連絡を取ることにしたのだった。


 *


 美浦トレセン、香元厩舎。管理馬房は二十室。

 調教成績リーディングで言えば下から数えた方が早い零細厩舎だが、デビューを控えた二歳馬は毎年必ず入厩にゅうきゅうしてくる。

 せちがらい成績の都合、優秀な素質馬を任される機会はそうそうないが、預託馬には無理をさせず、勝っても負けても必ず完走、無事に競争生命を終えさせることが厩舎のモットー。それは調教師の香元以下、助手の羽柴たちの誇りとするところだった。

 そんな香元厩舎に、珍しい新顔が入厩してくる運びとなった。


「三歳未出走のクラブ馬ですか……」


 香元厩舎の前で、まだ若い——若いと言っても四十代だが——新米調教師が頭を下げていた。


 一度厩舎に所属した競走馬が、別の厩舎に転属するのはかなり珍しい。厩舎と馬主の関係は信頼によって成り立つため、よほどのワケアリでないと起こらないのだ。

 たとえば、調教師がサジを投げるほどのクセ馬の場合など。ただこれはまだマシな方で、調教師と馬主が対立してケンカ別れになるだとか、調教師が首をくくっただとか、あるいは変な薬で捕まって解散しただとか。表に出ている事象だけでもこれなので、裏側はもっとドロドロしている。

 ただ、今回はそれとはまたワケが違う。


「ハッシー、ちょっと来て」

「え? いまからクリュサーオルの調教するんですけど」

「ごめん、ちょっとでいいから」


 クリュサーオルを引く羽柴を呼び止めた香元は、事情をかいつまんで説明した。


「こちら、引退なさった田端先生のご長男の弘毅さん。今年、先生の跡をついで二代目田端厩舎を開業したんだって。さすがに知ってるよね?」

「ああ、はい。いろいろ教えてもらってますー」

「ただ開業したはいいものの初年度だから管理馬房が少なくて、どうしても馬を他所に任せなきゃいけないらしくてね。ハッシーは今クリュサーオルだけでしょ? もう一頭預かる余裕はある?」


 羽柴はふわふわの頭をよりふわふわさせて頭を振った。


「もちろん! 預かりたいです! どんな子ですか!? かわいい系!? イケメン系!?」

「三歳のクラブ馬だって。しかも未出走」

「う……」


 三名が三名とも浮かない表情をしているのは、クラブ馬の特殊性にある。

 個人や数名で所有する馬主と違って、近年競馬界を席巻しているのは何百何千人もの馬主クラブが所有するクラブ馬だ。

 クラブの利点は、裕福でなくても馬主になれること。高くて数億円にものぼる仔馬でも、数千人でお金を出し合えば簡単に手が届く。しかも通常は一頭あたり月三十万円ほどかかる預託料も頭数——厳密には購入した口数で割るので、サブスク感覚で馬主になれると近年人気を博している。

 しかも、クラブ馬が勝つと賞金は口数で山分けだ。それゆえクラブ馬主は位置付け上、金融商品のカテゴリに入る。投資信託と同じだ。

 それゆえに、人間の欲が絡んでいる。


「く、クラブの了承は取ってるんですよね?」

「当然ね。だからもう、うちで預かるかどうかだけだ。ハッシー的にはどう?」


 三歳の未出走となると、確実になんらかのワケアリ馬だ。羽柴の直感が告げている。

 ただ同時に、羽柴の脳裏にひとりの女子中学生の姿が浮かんだ。

 あの子なら、また何かしらの奇跡を起こすかもしれない。


「はい、おおいに任せてください! 私にいい考えがありますので!」


 「本当にか?」という目で香元、田端の両名は訝しんでいたが、羽柴は心配いらないとばかりににこにこしていた。

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