第38話 短めって言ったよね

 三冠馬。

 広義にはG1レースを複数勝った馬を、勝ち鞍の数で二冠馬、四冠馬などと表現することはあるが、という表現だけは特別な意味を持っている。


「茜音ちゃんさん、三冠馬って何?」

「そうかそうか、やっぱりまずはそこからだよね……。最初は『ふ〜ん三冠馬って強いんだ?』くらいの軽い気持ちから始まるんだけど、詳しく知るにつれて三冠馬のすさまじさに気づくんだよねわかる私も同じだったから……」


 花村の訪問の翌日。

 志穂はなぜか部室にいる謎の大学生、競馬沼の住民である茜音に改めて確認してみることにした。尋ねた瞬間後悔した。


「ごめん短めでお送りして」


 短めでと頼んでも、一度火のついたオタク心の炎を消すことはできなかった——


 こんにちまで続く競馬は、最初から遊びやギャンブルが目的ではない。あくまでも騎兵が乗る戦馬の馬匹改良ばひつかいりょうが大目標だ。やがて戦場から馬の居場所はなくなったが、誰より強く速い馬を作るという基本姿勢は現代においても変わらない。

 当初の戦馬育成が目的だった競馬に、新しい風が吹いたのが十八世紀の英国。

 近代競馬の歴史はここから始まる。

 

 当時の競馬は四マイル——六千四百メートルもの超長距離を、二頭のタイマン勝負マッチレース、さらに複数回競争して勝敗を決する、実に気の長い催し物だった。

 想像すればわかるように、これはただただ長くて煩わしい。六キロもの距離を十数分かけて完走したのち、休憩を挟んでレースを繰り返すという長ったらしさ。さらにはタイマンゆえに「うちの子の方が速い!」と豪語する馬主が現れるたびにレースを組まねばならず、最後の方は馬も人間もヘトヘトだ。

 どうにか一番速い馬を一度きりのレースで決める方法はないか。

 そんな背景も手伝ってか、多頭立て、約三千メートルの距離を競う年に一度きりの大レース《セントレジャー》が誕生。これがたちまち大盛況となる。その成功を受けて牝馬限定の二千四百メートルレース《オークス》が、その三年後にはその牡馬版として《ダービー》が誕生する。

 時は十八世紀後半。日本はまだ江戸時代の頃の話だ。

 翌十九世紀初頭には《2000ギニー》、牝馬限定の《1000ギニー》という千六百メートルを競うレースが相次いで生まれ、これら五つを総称してクラシックレースと呼ぶようになる。


「さて、ここで問題です。時の明治政府が、国家の近代化を図るため模範とした国はどこだったでしょう?」

「イギリスでしょ?」

「正解。それまでは横浜の外国人居留地だけで行われていた日本の競馬も、これを機に大きく発展するのです……」

「私は歴史じゃなくて三冠馬のことを知りたいだけなんだけど」

「待って今から説明するから? ね? ね!?」


 尋ねた以上、自分の責任だ。志穂はあくびをかみ殺しながら、自身とは反対に熱を帯びていく茜音の表情を眺めながら説明を聞くことにした。


 欧米列強に倣えを国是とした日本でも、馬匹改良を目的に競馬が開催される運びとなった。そこで英国の近代競馬に典をとり、日本でも五つのクラシックレースが相次いで創設される。

 皐月賞、東京優駿日本ダービー、菊花賞。

 そして牝馬限定の桜花賞、優駿牝馬オークスだ。

 これら五つのレースはいずれも戦前から続く格式高いもの。現在はこれに牝馬限定の秋華賞が加わり、牡馬牝馬ともにクラシック三冠路線が整備されることとなる。


「で、ここから三冠馬の話ね?」


 オタク特有の早口でまくしたてすぎて過呼吸ぎみな茜音は、ペットボトルのお茶で喉を潤してから語り始めた。


「日本競馬の歴史は九十年近くあるけど、三冠馬は数えるほどしか出てないの。牡馬で八頭、牝馬で六頭ね」

「そんだけ難しいってこと?」

「それはもう! なんせ三歳馬は毎年七千頭近くいるの。その頂点に立つんだよ? 強者揃いのG1を三連勝。しかもどのレースも条件が違うのに勝ち切るなんてバケモノだよ」


 茜音の言うとおり、牡馬も牝馬もどれひとつとして同じレース形態はない。

 牡馬は皐月賞の中山二千メートルから始まり、ダービーの東京二千四百、菊花賞の京都三千と競馬場も距離も違う。初戦の皐月賞には成長の早さ、ダービーには強運、菊花賞にはスタミナの強さが必要と語られるように、これらすべてを兼ね備え、かつ抜きん出るのは名馬以外にはありえない。

 これに比べ牝馬路線は桜花賞の阪神千六百、オークスの東京二千四百、秋華賞の京都二千と距離には余裕がややあるが、比して牝馬は体調面気性面から調整が難しい。いずれにせよ、すべてを勝ち切るのは並大抵ではないのだ。


「志穂ちゃんの推しもあと一冠で三冠馬の仲間入りだもんね。ただ、三冠目はこれまで以上に激戦になりそうだけど」


 茜音の言うとおり、志穂に身近な例だとプレミエトワールだ。すでに桜花賞、オークスを制し、三冠牝馬を射程に収めている。

 ただしプレミエトワールには強力なライバル、スランネージュの存在がある。まったく互角の実力といっていい芦毛のアイドルホースだ。激戦は必至だろう。


「マリーの三冠も気になるけど、今はハルのことなんだよね……」


 記者の訪問の直後、志穂は父親に怒鳴り込んでハルの血統登録書を見せてもらった。血統登録が義務付けられているサラブレッドにとってこれは、いわば戸籍謄本みたいなものだ。 

 それを茜音に見せると、やはり「ぎゃああ!」と悲鳴が上がった。


「どうしよう……。うちのハル、バケモノの仔だったんだけど……」

「確かに期待は重いねー……。無敗三冠馬ディープインパクトから生まれた無敗三冠馬コントレイルの仔ってだけでも注目度高いし、ハルちゃんは唯一クラシック戦線を走ることになるゼロ年度産駒なワケだから」


 きっと多くのファンやホースマンは、ハルの動向を気にかけている。早生まれのハンデ以上に、《コントレイル》の種牡馬としての成績の指標にされるためだ。

 つまりハルはこれからずっと、試されることになる。無敗三冠の系譜という重すぎる看板を背負い続けて。


「マリーはともかく、ハルは元気に走ってくれたらいいだけなんだけどな……」

「よし! 行こう! 志穂ちゃん!」

「どこへ?」

「志穂ちゃんち!」


 言うと、茜音は指先でバイクのキーをくるくる回していた。メガネの奥はこれまで以上に濁って澱んでいる。沼というより深淵だ。


「いいけどなんで?」

「未来のG1馬と写真撮っとけばドヤれるから!」


 ふんすと鼻息荒く、茜音は馬事研部室を飛び出していった。まだ仕事が残っている晴翔に別れを告げて、志穂もしぶしぶ帰路に着くことにした。


 *


 おおかたの予想通り、茜音は写真を撮りまくっていた。ただツーショットに応じてくれるのはクリスだけで、ハルはなかなか茜音に懐かない。


『し、シホ! この人も怖い! 顔に何かつけてる人は変な人が多いの!?』

「顔? あー、そう言えば花村さんもメガネ女子だったか……」

『メガネ女子怖いよーッ!』


 とりあえず茜音からメガネを強奪してみる。見にくくなるのか途端に目つきが悪くなるのがなんともお約束通りで興味深い。


「ほら、これで怖くないでしょ。だから近寄っても大丈夫」

『ホントだ。ふつうの人だ……』

「志穂ちゃんメガネ取られたら見えないんだけど——でもハルちゃん寄ってきてくれた! わあ! ぼやけてあんまよく見えない! けど嬉しい!」

「そして茜音ちゃんさんにメガネをかけると」

「あはぁ! 黒鹿毛の一本一本までよく見える!」

『怖いーッ!!!』


 ハルはぴゅーっと丘の上にまで逃げてしまった。

 じっくり見ようとすると嫌われ、好かれたければ見えなくなる。それがハルと茜音の関係だ。


「まるで恋愛小説みたいなすれ違いだッ……!」


 思い描いたようなドヤリング写真は撮れず、茜音は草原に体を投げ出して寝転んでいた。志穂もまた、クリスを背もたれに寝転ぶ。

 志穂は現状の問題を茜音に尋ねてみることにした。


「前さ、ゴルシを紹介してもらったじゃん? でもウチだと払えそうにないんだよね」

「他と比べてお手頃って話だからね。なら他も紹介しようか?」

「せっかくなら縁のある馬がいいよ。スランネージュのお父さんだから興味あるし、こないだゴルシ産駒の助産もしたし」


 異常分娩だったティナの仔はゴルシ産駒だ。毛色は母からの遺伝で白馬だったが、今も毎日様子を見に行くくらいにはかわいいし、元気に育ってほしい。


「ふふふ。クリュサーオルといい、順調に祖父ステゴに脳を焼かれているねえ。茜音ちゃんさんは仲間が増えて嬉しいよ……」

「ただ、それには三百万作んないといけないんだよなー。茜音ちゃんさん三百万ちょうだい」

「先生に大穴当ててもらおうね〜」


 遠回しな「無理」という表現で、志穂はまたしても壁にぶち当たる。

 九十万のあとは三百万だ。クリュサーオルの馬券で大儲けできたのは、彼がナメられていたから。あの激走が世間にバレた今、もうクリュサーオルに頼ることもできない。そもそもこうして悩んでいるうちに、クリスのフケだって終わってしまうかもしれない。残された時間はわずかだ。


「うう……ハルちゃんのかわいさをもっと近くで堪能したい……」


 寝返りをうって地面に伏せる茜音の声がする。

 そのとき、志穂はひらめいた。


「よし、ハルのSNSアカウントを作ろう! そして支払いまでの間に三百万稼ぐ! ハルの注目度があればワンチャンある!」


 言うが早いか、志穂は各種SNSアカウントの開設をし始める。クリスを撮り、そしてハルの元気に走る動画を撮影しに、丘を駆け上がっていった。


「志穂ちゃん元気だなあ……」


 寝転んで青草を食むクリスは、口を大きく開けてあくびをしていた。もし馬の気持ちがわかったら、クリスも同じように思っているのだろうと茜音は思う。


「……あたしも、あの行動力は見習わなきゃいけないね」

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