第37話 幻のゼロ年度産駒?
「どいつもこいつも鬼高っけえ……」
例のヤケクソ助産の甲斐あって、馬の妊娠出産については晴翔の母親・北野翠が教えてくれることになった。これで知識や技術面での課題には解決の糸口が見えてきた。
だが志穂は忘れていた。たとえどれだけ知識や技術を持っていても、手持ちがなければどうしようもないのである。
『ねーシホ、よそ見しちゃダメだよ? ボクを撫でるという大事な仕事があるよね!?』
「いまアンタの弟か妹のパパを決める大事な仕事してるから」
すこやかファームのボロ馬房そばに置いたキャンピングチェアに座って、志穂は左手でハルの鼻先を、右手でタブレットを撫でていた。確認しているのは、主要なスタッド——種牡馬を専門に繋養している牧場——の種牡馬リストだ。
それゆえに、馬を育てる牧場も、それを買って走らせてロマンに脳を焼かれたい馬主も、求めるところはひとつ。
うちの馬が一番強く速く賢くあってほしい。そんな切なる願いの拠り所になるのが父親の遺伝子である。
『えっ!? ボクお姉ちゃんになるの!? こ、これは大変なことになった!』
「いや、まだ決まった訳じゃなくて——」
『おかあちゃ〜ん! ボクお姉ちゃんになるかもしれないんだってー!』
『あらあ〜。よかったわねえ〜♪ じゃあ、お姉ちゃんらしくしないとねえ』
『うんボクいいお姉ちゃんになる! お姉ちゃんみたいな強いお姉ちゃんになる!』
ハルは大喜びで放牧場をすっ飛ばしにいったが、そうは問屋が下さない。ない袖は振りようがないのである。
種付けは修羅の道だ。馬産家や馬主が望むのは一番になれる馬。一部例外はあってもそれは揺るがない。
となれば彼らの視線は、現役時代の成績や、生まれた仔たちの活躍に注がれる。そこへスタッドの思惑も加わって、好成績を残す良血種牡馬の種付け料はぐんぐん高騰していく。
要は、強く速く賢い種牡馬の種付け料はバカみたいに高いのだ。
「こんなん絶対うち払えないって……」
国内の現役種牡馬の最高額は《エピファネイア》が千八百万円。
そこから《ロードカナロア》、《キズナ》、《コントレイル》、《キタサンブラック》がどれも一千万円以上。ちなみに国外だと欧州では《フランケル》が、米国では《フライトライン》がともに三千万円台の値段をつけている。ただしこれはあくまで種付け料が公開されているもののみだ。問い合わせの必要なプライベート種牡馬やすでに予約でいっぱいになっている人気種牡馬に無理を言って種付けしてもらう場合はもっと高い。
これよりもまだ上をつけた記録もある。志穂でも名前くらいは知っている《ディープインパクト》の晩年は四千万円。四十年ほど前には《ノーザンダンサー》という大種牡馬が史上最高額を記録している。
その額たるや、交尾一回で二億四千万円。
「くそう足元見やがって……。スタッドの連中は人の顔した悪魔だ……」
彼らもまたホースマンとしての矜持を持って活動していることは分かっていても、呪詛を吐かずにはいられない。
強く速く賢い馬を求める人々がいる限り、種牡馬の遺伝子に——もっと言えばスタッドに生殺与奪の権を握られているのである。
「かといってここでケチるのもなあ……」
もちろん、すべての種牡馬がこんな超高額な訳ではない。百万円以下の種付け料の種牡馬もたくさんいるし、なかには無料さらには父系を継ぐ男の子が生まれたら記念に金一封をもらえるという実質マイナスの種牡馬までいる。恐ろしいほどのピンキリの世界だ。
それゆえに志穂は悩む。
血の優劣が成績を決めることは、現地で競馬を観戦してこれでもかと理解させられたのだ。
「オークスに出てた十八頭、全部高額種牡馬の子どもだったんだよなあ……」
あの十八頭のうち、いちばん安上がりな種牡馬がスランネージュの父。茜音にもオススメされた《ゴールドシップ》の三百万円である。産駒の成績を考えたらもっと高くてもいいはずなのに意外とお手頃だ。ただそのお手頃価格ですら手が出ない。クリュサーオルがもぎ取ってくれた百八十万円は馬房と水道工事と牧柵と馬具でさっぱりなくなってしまったのだ。
「ダメだ、金銭感覚がマヒしてきた……」
『パパ探しは大変なのねえ〜』
「クリスから希望とかないワケ? イケメンの白馬がいいとか、デカいのがいいとか、小さい方が好みとか」
『仔馬が元気に生まれてくれるなら特にこだわりはないわあ〜』
肝心のクリスに聞いてもこの調子だ。実際、何枚か種牡馬の写真をクリスに見せてみたが、結果はどれも同じ。『あら〜素敵ねえ〜♪』のひと言である。
「クリスだって優秀なんだし、どこの馬の骨かわからんパパでもいいか……」
なるべく安上がりな十万円台種牡馬のリストに目を通していると、クリスの耳がぴくりと動いた。
『あらあ、聞き慣れない車の音がするわあ〜』
「迷い込んだ観光客じゃない?」
『でもこっちに向かってきてるわよお?』
はたと気づいて志穂も顔を上げる。丘の麓から続く一本道を一台の乗用車が向かってきていた。そのまま迷うことなくすこやかファームの門前で車は停まり、運転席からスーツ姿の女性が降りてくる。足元はなぜか長靴だ。
来客だろうか。目を合わせると、女性客がにこやかに近づいてきた。
「すみませーん、《月刊馬事》の花村です。近くまで来たので、ご挨拶に伺いましたー」
《月刊馬事》。すこやかファームに取材を申し込んできた馬事文化専門誌だ。
レースの予想よりも馬の魅力や馬産家や調教師、騎手、はては馬場馬術から乗馬のコツ、各地の馬のお祭り、引退馬の密着など、馬ならなんでもネタにする馬オタク向けの雑誌——だと記者からはメールで説明をもらっている。
だが、取材日はまだ先のはずだ。
「あ! あなたが噂のウマ娘こと加賀屋志穂さんですね?」
「ヒト娘です。ていうか今から取材だとその……準備できてないんですけど……」
主に馬房とか。オンボロ馬房を隠すべく花村の視線を誘導しようと躍り出たが無駄だった。花村は犬小屋を一瞥して顔面を引き攣らせている。恥ずかしい。
「洞爺温泉牧場の大村さんに密着取材をすることになりまして、ついでだから志穂さんに会ってきたらと」
余計なことを。と思った矢先に、花村の視線は取材対象のクリスに向いていた。目をキラキラさせている。
「あの子がクリスエトワールですね!?」
『あらあ? お客さん?』
「クリス、おいで。悪い人じゃないよ……たぶんだけど」
後半の方は聞こえないようにボソっと呟く。さすがに馬雑誌の記者とあって、花村は馬に慣れていた。鼻先や頬にやさしく手を伸ばし、温かさを噛み締めるように触れている。
「それと! ハルちゃんはどこですか!? ぜひ会ってみたいんです、ゼロ年度産駒に!」
「ハルならあそこにいますけど……。ゼロ年度?」
『わー! 知らない人がいる! シホこの人誰? 走るの速い!?』
噂をすれば、とハルが丘の上から例の右回りで猛スピードで下ってきた。ようやく力加減を覚えてくれて吹っ飛ばされることはなくなったが、相変わらずの鼻先スピアを全身で受け止める。
そのハルの馬体を見て、花村は大いに沸き立っていた。
「この仔が幻のゼロ年度産駒! 噂になってるんですよ!」
「その『ゼロ年度産駒』ってのはなんなんですか? ハルはハルでしょ」
花村は瞳を輝かせながら、ハルの黒い馬体を撫でながら言った。
「ハルちゃんは早生まれだから他の初年度産駒より一歳年上なんです。だから編集部では『ゼロ年度産駒』って呼んでまして」
「ふ〜ん……」
『シホ、この人暑苦しい……』
「お父さんそっくりの黒鹿毛と流星ですね……! ハルちゃんの流星は、流星鼻梁白鼻白——眉間から鼻先にかけて細い流星が流れている感じ。お父さんの流星は受話器の形なんですよ。それにお尻のハリも——」
『うわあ! なんか怖いーッ!?』
志穂はなんとなく察せた。花村の本当の目的は志穂でもクリスでもなく、ハルなのだろう。そのハルは花村を怖がって、志穂の影に隠れてしまったが。
そういえばマリーの父は知っているけれど、ハルの父は調べていなかった。
仮にも育てているのに知らないというのもアレなので、志穂はそれとなく聞いてみる。
「そうですよね、ゼロ年度なんですよね。ところで何がゼロなんでしたっけ」
「もう、からかわないでくださいよ。ハルちゃんは超がつくほどの良血なんですよ?」
「まあお母さんがいいし。それにお父さんも」
「そうです! お父さんもお祖父さんも無敗の三冠馬なんですから!」
大村と種牡馬の話になったとき、ハルの父親も一千万円クラスの超高額種牡馬だとは聞いていた。ただ父も祖父も無敗の三冠となると、そのすごさは今の志穂ならちょっとはわかる。
「ハルちゃんのお父さんは《コントレイル》号。《ディープインパクト》号から連なる三冠馬の系譜にして、ハルちゃんはたった一頭しかいない幻のゼロ年度産駒なんです!」
開いた口が塞がらなかった。
『ねーねーシホ、この人なに言ってるの?』
「わかんね……」
ハルにかけられた期待は、想像以上に重い。
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