第33話 テッペンで待ってる
割れんばかりの歓声が、志穂の全身を震わせた。
ゴールの瞬間は見えなかった。怖くて見ていられなかったのだ。
恐る恐る目を開けると、中央の大型モニタに鹿毛——茶色のプレミエトワールが大写しになっている。
歓声、悲鳴、怒号。それらすべてがないまぜになった場内では、実況の声ばかりか近くにいる茜音や晴翔、古谷先生の声すらも聞こえない。
モニター横の着順掲示板に数字が並んだ瞬間、志穂はようやく声を捻り出せた。
18・1・13・6・5
プレミエトワールの馬番は18。祈るように合わせた手に挟んでいた応援馬券と、同じ数字が一着にきらめいていた。勝ったのは一番星だ。
「か、った……」
「す、すごいもの見た! これはホンットにすごい! 現地来た甲斐があった!」
「ええ! 大逃げのペース配分もすごいし、好位からきっちり上がってくるタイミングも! なによりあのハイペースで外回して末脚が持つなんて! とんでもない高速展開をきっちり読んで二千四百で差し切る……騎手も馬もみんなすごい……!」
茜音が感動を抑えきれないのは涙声でわかった。それよりも、普段静かな晴翔でさえ目をきらめかせてウイニングランを飾るプレミエトワールと騎手に割れんばかりの拍手を送っている。
そしてようやく、志穂も喜びに襲われた。
あの時の宣言通り、プレミエトワールは勝った。
クリスの娘が、ハルの姉が勝ったのだ。
「あは、志穂ちゃんも泣いてる! 推し馬が勝って脳がこんがり焼かれちゃった!?」
「……泣いてない!」
「素直に喜びましょう! ウチで生まれた子が勝ったんですから!」
志穂は理解した。
夢を託して応援した馬が勝つ。その喜びは何者にも代え難い。
大きく息を吸い込んで、勝鬨を上げようとした——
「カチカチの決着すぎるわーッ! 三着変なヤツ来てよォーッ!?」
——ところで、古谷先生の悲鳴が響き渡ったのだった。
先生の馬券は三連単——三連勝単式。一着二着三着を順位まで含めピタリと当てる高難度の馬券で、買い目は軸二頭総流し。一着プレミエトワール、二着スランネージュの二頭を固定して、三着は残り十六頭全通り買うというなりふり構わないものだ。
そう、全通り買ったから古谷先生は的中した。
的中はしたのだが、三着クラースナヤは三番人気。こうなると当てるのが難しい三連単と言えど払戻金は驚くべき安さになる。オッズは15倍。一万六千円が一万五千円になった。当たったのにトータル千円のマイナスである。
古谷先生は期待を裏切らず、やはりガミって絶命したのだった。
「先生は未来を見通す力が欲しい……あるいは馬と喋りたい……」
「喋れても先生が競馬ヘタなのは変わんないと思う」
「グフッ! ま、まだ12レースがある! 払戻金で全部取り返す!」
妄執と欲望の炎をたぎらせ、古谷先生は勝利の余韻も無視して最終12レースを控えたパドックに消えた。
古谷先生は反面教師。志穂は改めてそう思う。
一方、勝利を飾ったプレミエトワールは、ウイニングランを終えてスタンド近くにやってくる。
このチャンスを逃すと、次に会えるのはいつになるか分からない。志穂は再び子どもの武器を使って、観客席の最前列へと突き進む。最前列の柵はちょうど、帰りの地下馬道へと続くスロープの前だ。
柵に顔をめり込ませる勢いで近づき、優雅に練り歩くプレミエトワールに声をかけた。
「すごいじゃん! ホントに勝ったね!」
だが、彼女が足を止める様子はない。何も言わず、すたすたと目の前を歩いていく。
聞こえていないのかもしれない。なんせ観衆の祝福の言葉や無数のシャッター音にかき消されてしまうからだ。
だが、どうやら彼女には聞こえていた。やはり去り際に言い残していく。
『テッペンで待ってるわ。伝えておいて』
鳥肌が立った。プレミエトワールは——マリーは別に、ハルを嫌っている訳じゃない。ハルが夢を叶えるのを待ってくれている。
「絶対伝える! 私達もがんばるから、アンタもがんばって!」
呼びかけると尻尾が揺れた。それを返事だと受け取って、志穂は虚空を見上げていた。
この先、遥か北の空でハルとクリスが待っている。早く帰って本人に伝えてあげたい。
姉、プレミエトワールの強さを速さをたくましさを。そしてその美しさを。
だが同時に、志穂の胸に一抹の不安が押し寄せる。
桜花賞、オークスを勝ったプレミエトワールの次戦は秋。
三歳牝馬クラシック最終戦、秋華賞。
もしそれすら勝ってしまえば、彼女は遥か高みにのぼることになる。
ハルは、あんな激走をみせた若き乙女たちと同じ土俵に立てるのだろうか。
課せられた生来のハンデは重い。乗り越えるべきライバルも多すぎるというのに。
「姉はG1二冠馬か……」
——ハルが夢みる姉の背は、どんどん遠くなっていく。
*
『シホばっかりずーるーいーよーッ!!!』
洞爺に帰ったその足でふたりを迎えに行くと、案の定ハルはご機嫌斜めだった。放牧地で地団駄を踏むわ後ろ脚を思いきり蹴り上げるわの大暴れだ。
何より困ったのが、伝家のニンジン福紅すこやが効かなくなっていることである。あんなに美味しそうに食べていたのに、鼻先に近づけても『いらない!』とぷいっと顔を背けてしまうのだ。かといって他の仔馬にあげようとするとまた暴れ出す。たったの二泊三日でハルは気性難だ。
「ああ、ああもう……。じいちゃん迷惑じゃなかった?」
「よくあることさ。志穂ちゃんがいなくて寂しかったんだろうね」
「寂しいというよりはくやしい感ダダ漏れだけど……」
ハルの引き綱を握る大村は、ぶるんぶるん振り回されていた。大村だからなんとかいなせるものの、並のお爺ちゃんなら膝腰が壊されている。
よほど姉のレースを見たかったらしいハルをどうにか撫でてご機嫌を取りつつ、志穂は言う。スネているハルより大事なことだ。
「クリスのことなんだけど、本人と相談してみようと思うんだよね」
「ほう、志穂ちゃんほどになると馬の仲人さんもできるのかい! あっはっは!」
自分がイカれた人間であることを忘れていた。赤っ恥より冷や汗が背筋を伝うが、大村が冗談と受け取ってくれたのでセーフ。むしろ冗談と思わないほうがイカれている。
競馬場での修学旅行で、志穂はクリスの相手だけは決めていた。だが産むのはクリスなのだ。だったら志穂の希望なんかより、本人の気持ちが最優先である。どうしてもそれだけは譲れない。
「まあ、そうだなあ。志穂ちゃんはきっと、僕らより馬と心を通じ合わせられるんだろう。だったら、思うようにするのが一番だな」
「ありがと、じいちゃん」
これが馬産家としては甘い考えなのは志穂にもわかっていた。だが大村はそれ以上何も言わず、放牧地で仔馬たちと草を食んでいるクリスを迎えに行った。
我ながら、ありがたい師匠を持てたと志穂は思う。大村がいないと、どうにもならなかっただろう。
「待たせてごめんね、ハル」
一応ハルに謝りながらハルの鼻先を撫でていると、危うく指先を噛まれそうになった。困った。ハルはとんでもなくスネている。
『ボクもお姉ちゃんのレース見たかった! モタおじさんのも!』
「あとで見せてあげるってば。ふたりとも一番でカッコよかったよ」
『シホばっかりズルい……』
「モタおじさんのおかげでお家も綺麗になるよ?」
『シホばっかり……』
暴れ回っていたと思ったら急にしょげ返る。そしてニンジンも効かない。
仕方ない。本当はクリスといっしょに話そうと思っていた話題を切り出した。
「いやー、プレミお姉ちゃんはカッコよかったな〜。レース前、話したし」
『え……? お姉ちゃんと話したの? なんて言ってた!?』
「『テッペンで待ってる』だってさ。カッコよくない? 去り際につぶやいて歩いていくんだよ?」
伝えてあげると、ハルはようやく静かになった。
そして再び暴れ出す。喜びの舞かと思いきや、反応はまったくもって真逆なのだった。
『やっぱりシホばっかりずーるーいーッ!!!』
「えー!? お姉ちゃん待っててくれるんだよ!? よかったじゃん!?」
『なんでシホが話すの!? ボクだってお姉ちゃんと話したかったのにーッ!!!』
「だ、から引っ張ったらダメだって! ぎゃあああああッ!」
ハル、暦の上ではもう二歳。
デビューはいまだ未定だけど、困るくらい元気で健康だ。
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