第29話 単勝オッズ180倍

「うわあ……」


 馬事研メンバーの待つバーガーショップに向かった志穂は、古谷先生の見るも無惨な姿に目を覆いたくなった。


「志穂ちゃんおかえり〜。お昼は茜音ちゃんのオゴリだから遠慮せず食べてね〜」

「ねえ藤峰さん十五分肩揉むから三千円……いや五千円貸してくれないかな!?」


 いいオトナが大学生にたかっていた。それだけで馬券がどうなったのかは簡単に想像できた。いつものように絶命したのだろう。

 遠慮なく昼食のハンバーガーにかぶりついていると、古谷先生の視線がこちらを向いた。そしてヘラヘラ笑いながら近づいてくる。嫌な予感だ。先手を打とう。


「あげません」

「いやいや加賀屋さん知ってる? 代わりに馬券を買ってもらったらお礼に1%……いや5%払うっていうマナーがあるんだよ〜?」


 目を合わせると、茜音も晴翔も首を横に振っている。確認するまでもない。そんな理不尽なマナーあってたまるかである。

 頭を抱えながらも晴翔が厳しい口調で諌めていた。


「加賀屋さんにちゃんと渡してあげてください。冗談でも笑えませんよ」

「じょ、冗談だって〜。教え子にたかったりしないよ? だよねえ加賀屋さん」

「先生。そんなんじゃ上手くならないですよ、競馬」

「ぐえー!」


 古谷先生はまたしても憤死して、カバンからずいぶん物々しい封筒を、渡したくない感をひしひし感じさせながら手渡してきた。

 大袈裟だと思いながら受け取った志穂だったが、受け取った瞬間に食べていたポテトを落とした。

 封筒がすいぶん重い。重すぎる。


「なにこの大金!? たしかに会長におこづかい預けたけど、儲かっても三万円くらいじゃないの!?」

「そ、そうだよ〜? だから加賀屋さんは三万円むぐッ——!?」


 古谷先生は茜音にヘッドロックをかまされていた。代わりに「本当に素人ですね」と呆れた調子で晴翔が教えてくれた。


 馬券は百円から見られる夢だ。当たればもっと夢を見られる。

 的中した場合、払戻金は山分けとなるのだが、この金額を決めるのがオッズという指標である。

 オッズとは簡単に言えば、元手が何倍になるかを示したものだ。オッズ2倍の馬券が当たれば賭け金は2倍。百円賭ければ二百円。一万賭ければ二万が戻ってくる。ならばオッズが高い馬券、百倍とか千倍の馬券を買えば大儲けできる——なんて世間は甘くない。


 競馬はギャンブル。みんな勝ちたいのだ。


 それゆえ海千山千の馬券師ギャンブラー達は、文字通り勝ち馬に乗ろうと血眼になって情報をかき集め、買う馬券を絞っていく。結果、当たりそうな馬券ほどたくさん買われることになるが、払戻金はあくまで山分けだ。みんなが夢を託した馬ほど『山分けの分母』が大きくなるため、払戻金は目減りする。この『山分けの分母』をわかりやすく示してくれるのがオッズという訳だ。


「全然わからん! 要はどういうこと!?」

「みんなが勝たないと思っている人気のない馬ほどオッズが高い。そのぶん当たるとデカいということですね」

「で、モタはどうだったの? その人気とかオッズとか」

「最低の十五番人気、オッズは百八十倍です」

「へえそう……」


 途端、現実味がずしりと全身にのしかかる。封筒を持つ手が震えてきた。


「ひゃ百八十万円ってこと!? これもらっていいの? 捕まらない!?」

「名目上は先生が当てたことになっていますから、静かに……」


 そう。あくまでも馬券——勝ち馬投票券の購入は二十歳から。

 競馬は節度あるオトナの遊びである。


「ちなみに私も単勝万馬券ゲット! 豆券まめけんだけどね〜」


 古谷先生を絞めあげる茜音も少ないながら当てたのだろう。なら昼食代は遠慮しなくてよさそうだ。

 それより問題は百八十万円もの大金である。

 途端、志穂の頭の中で計算が始まって、終わった。


「加賀屋さん使い道決めた!? あのねあのね、先生来週誕生日なんだけど——」

「これでハルとクリスに馬房買ってあげられる! ハル用の馬具一式揃えてもまだお釣りがくるじゃん! あと水道も引きたかったんだよ馬房まで水汲んで往復すんの大変だったし! それにコンポスト買って馬糞肥料作れば親父に買い取ってもらえる! すごいすごい!」

「大村さん直伝の馬優先主義ですね……」

「先生のぶんは残ってなさそうだね〜」


 古谷先生はがっくりと肩を落としていた。あいにくお金の使い道はもう決まった。

 すべては、わざわざ恥ずかしい思いをしてドレスを着たおかげだ。

 ありがとう親分クリュサーオル様。

 『ゲハハハ』なんてガサツな笑いも今日くらいは我慢してやろうと、志穂は鼻歌まじりにハンバーガーにかじりついたのだった。


 *


 持ち歩くのが怖くて場外のコンビニATMに百八十万をぶち込む荒技をやってのけた志穂は、もうひとつの仕事に臨むことにした。

 失った金を取り返そうと馬券師に転職した古谷先生から離れて、馬事研メンバーは競馬サイトのデータベースと格闘する。

 目的は、クリスの婿探し。

 どんな種牡馬がクリスに相応しいか選ぶお見合いもどきの選定作業だが、当然ながら暗礁に乗り上げていた。


「みんな元気に走ってんだからお父さんなんて誰でもいいじゃん……」

「加賀屋さんにも一番になる馬を作る馬産家の苦労がわかったようですね?」


 自慢げに言う晴翔に腹は立つものの、自分が関わった仔が勝った気持ちよさはわからないでもない。ちょっと世話しただけのクリュサーオルでも、一番でゴールすると嬉しいのだ。


「茜音ちゃんさん血統とか詳しいよね? なんかヒントない? できればコスパ優先で」

「フフフ、よくぞ聞いてくれたね。あたしは屋根オタかつ名馬オタだが、メインは血統……。競馬が血の争いブラッドスポーツと呼ばれる由縁を教えてあげようじゃないか」


 茜音のメガネがキラリと光った。ついでに瞳は焦点が定まらなくなった。

 泥沼血統講座の開講だ。


「そういうのいいから。クリスに相応しいお婿さんを教えて」

「えー」

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