第30話 「好き」が足りない
忙しい人向けの泥沼血統講座が始まった。
沼の住民もとい講師の茜音は、クリス——クリスエトワールの血統表をタブレットに表示する。サラブレッドにおける家系図である血統表には、五代前までご先祖様の名前が並ぶ。
クリスの場合は父方を遡ると《シンボリクリスエス》、父の父は《クリスエス》、そのまた父は《ロベルト》。母方の父だと《ブライアンズタイム》、その父はこれまた同じ《ロベルト》に行き着く。
つまりクリスにとってロベルトは、父方でも母方でもひいじいちゃんだ。
なんて説明されたところで「だからなんだ」と疑問符すら浮かばない志穂だったが、茜音はすぐに大村と同じようなことを言い出した。
「ロベルトのクロスがあるね。3×3」
「それ何?」
「クリスの血統表を遡ると、同じ馬の名前があるでしょ? こういう配合をインブリードっていうの。要は生物の授業で習う近親交配ね。ちゃんと説明した方がいい?」
志穂は一瞬考えて、首を横に振った。とんでもない長丁場になることが見えていたからだ。どう話を噛み砕くかこめかみに指を当てながら、茜音は告げる。
「インブリードのメリットはね、生まれてくる仔馬をご先祖様のそっくりさんにできること。たとえばあたしの目と鼻って父方のおじいちゃんのタケゾウに似てるんだけど、もし母方のおじいちゃんもタケゾウだとしたら、あたしの顔面はどうなると思う?」
メガネを外して茜音が見つめてくる。大学生だけあってオトナっぽいが、くりっとした両目にちょっと低めの鼻。これがタケゾウからの遺伝だとしたら、それがより濃くなるということは。
「もっとタケゾウに似た目と鼻になる?」
「じゃあお父さんもタケゾウだったら?」
実の娘との間にも子を作ってしまう、この世の地獄みたいなタケゾウハーレムの家系図が浮かんだが、これは馬の世界の話だ。人間の価値観を持ち込んではいけない。
「もはやタケゾウの生き写し……」
「そういうこと。インブリードは祖先の特徴をより濃く受け継ごうって配合法。きっとクリスの配合を考えた人は、ロベルトの特徴をたくさん受け継ぎたかったんだろうね」
「ええ。配合を決めた俺の祖父も、大枠ではそう考えてたそうです」
クリスの父方母方両方にいる、ひいじいちゃん馬、ロベルト。
見たことも聞いたこともないけれど、もしかしたら彼もクリスみたいにのんびりした性格だったのかもしれない。
「なら強い馬のインブリードを目指せば強い馬が生まれるってことだ?」
「そう……なんだけど、インブリードは諸刃の剣なの。受け継ぐのは何もいい特徴ばかりじゃなくて、体の弱さや気性の悪さも色濃く受け継いじゃう。それに近親交配は遺伝子疾患を招きやすい」
「奇形や臓器の機能障害の他、死産のリスクが高いんです。今は狙ったとしても4×3までですね」
「これを奇跡の血量という! 18.75%! メモして!」
疑問符ばかり浮かぶ会話だが、志穂は理解できたことだけをメモに書き留めた。
インブリードは、祖先の特徴を色濃く受け継げる配合。
ただし長所も短所も受け継ぐ上、仔馬が元気でいられるとは限らない。
「んー……元気な仔馬になってほしいからインブリードは反対」
「なら近親交配を含まないアウトブリードだね。まあ馬って十代遡るとどっかでインブリード起こしてるから、完全なアウトブリードはできないんだけど」
「そもそもクリスはロベルトのクロス持ちですからね。クリス自身はインブリードがキツくても、生まれてくる仔馬は4×4とマシになる。これを有効に使いたいところです」
「だね、アウトブリードは長所がぼやけやすいし。だからインブリードが絶対悪とも限らない。大事なのはどんな馬になってほしいか考えて、そこから逆算することかな」
インブリードの対義語、アウトブリードは近親交配を含まないこと。
ただし受け継ぐ特徴が定まらないから、どんな馬になるのかわからない。
「これが配合の基本的な考え方。もちろんホントはもっと細かくて、あたしのニワカ知識じゃ怒られるくらいだよ。それに生き物相手だから何が起こるかわからない。生まれてきてくれるだけで奇跡だね」
志穂に気遣ってくれたのか、ふたりの説明はわかりやすかった。
基本的な考え方は志穂もなんとか飲み込めたが、飲み込めたがゆえに難しい。
「てか馬産って学校で習った? なんでそんなこと知ってんの?」
「「好きだから」」
茜音と晴翔は目を見合わせて、何の気もなく同時に言い切ったのだった。
志穂だって馬が嫌いな訳ではない。クリスやハル、クリュサーオルは好きだ。修行先の牧場にいる他の仔馬達とも挨拶くらいはするようになったし興味もある。だが、ここまでの専門的な知識はない。
牧場生まれの晴翔はともかくとして、茜音は馬を飼ってる訳じゃないオタクだ。馬事研のふたりに水を開けられている。
「むう……」
馬を育てているのに、何も知らない自分がくやしかった。
きっと、いまの自分の「好き」だけじゃ、馬の幸せには繋がらないのだ。
ハルのためにもクリスのためにも。そしてこれから知り合っていくであろう馬のためにも、もっと馬について知らないといけない。
「覚えることが多すぎるって……」
「志穂ちゃんウマジョ始めて二ヶ月でしょ? たいしたモンだと思うよ?」
「大村さんも褒めていましたね。向上心があるし馬もよく懐いてるそうです」
「そういう慰めが欲しいんじゃないんだよなぁ〜……」
バーガーショップのテーブルに顔を伏せる。
知れば知るほど、考えれば考えるほど努力しなければならないことが山積みだ。頭や体に叩き込む知識の量を思うとうんざりしてくる。
「まあ……まずは、どんな馬が生まれてほしいか決めることか……」
だが、うんざりしている時間があるなら、できることをやるしかない。それがホースマンなのだろう。
メモに近々の課題を書いてぐりぐりと丸で囲ったところで、茜音が「よし!」と意気込んだ。
「とりあえずオススメの種牡馬は見つけたよ。その子どもがオークスに出るから観に行こうか」
「子どもの名前は?」
「芦毛の二歳女王スランネージュ! その名の由来はフランス語で静かなる雪! エモーい!」
静かなる雪、スランネージュ。聞き覚えがある名前だった。
記憶を掘り起こしていると古谷先生が戻ってきた。仮にも修学旅行中なのにビールをあおってご機嫌だ。たぶん勝ったのだろう。
「さあ生徒諸君! 本日のメインレース、オークスが始まるよ! パドックに集合!」
*
パドックの周囲は、どこから湧いてきたのか分からないくらい人でごった返していた。
どこを見ても人、人、人まみれ。もはや馬を見ているのか客の後頭部を見ているのかわからない。
「せっかくだし馬主席で見る!」と晴翔におねだりして高みの見物を決め込む古谷先生と違って、志穂はどうしても馬に近づかなければならない。会話するには距離が大事だ。
「よし志穂ちゃん、ここは子どもの武器を使おう! 目をキラめかせてお馬さんを応援するいたいけな子どもは、ギャンブルに荒んだオトナ達には目がくらむほどまぶしいのだ!」
「闇属性のクソどもを、光魔法で祓うってことね?」
「言い方! でもだいたいあってる! 人垣に突撃ッ!」
志穂は人垣の隙間をぐんぐん縫って進む。途中「見れないよ〜」とか「お馬さんどこ〜?」と普段より一オクターブ高い声で発すると、壁は自然と崩れていく。未来ある——ある意味では将来が心配な——子どもに、人々はやさしいのだ。
ありがとう、やさしい馬券師達。中には頑として譲らない地蔵みたいなのもいたので、外れてしまえと心の中で呪っておく。
「プレミエトワールは……いた!」
人垣に揉まれて窮屈だが、どうにか最前列の柵前を確保して小さく屈む。柵越しにパドックを周回する鹿毛の馬体、茶色いプレミエトワールの姿を見据えた。
そして一番に近づいたタイミングで、志穂は話しかける。大村から聞いた、彼女の子どもの頃の名前で。
「聞こえる? マリー」
マリーことプレミエトワールは歩みを止めた。そして両目で志穂を見つめてくる。
彼女は、急に話しかけても——人間の声が聞こえてもクリュサーオルのように慌てることはなかった。女王の気品すら漂わせる美しくしなやかな立ち仕草で、答えを返してくる。
『そう、話せるの。貴女、面白い人間ね』
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