第28話 照れ隠しだよバーカ

 G1レースでも新馬戦でも、勝ち馬とその陣営を待ち受けるのがこの口取式である。ウィナーズサークルに勢ぞろいして、馬を中心に記念撮影をする名誉の儀式。慣れた様子で鞍を持つ騎手に深々と礼をして、志穂はクリュサーオルの前に立つ。


「へへ、やるじゃん?」

『テメーよォ、よくも騙くらかしてくれたモンだなァ?』


 大方の予想通り、クリュサーオルは鼻息荒く苛立っていた。首をぶんぶん振って引綱を持つ羽柴を振り回している。即座にスタッフに誘導され、馬事研メンバーと斉藤夫妻は馬から離れた場所に落ち着いた。

 志穂もそれに続こうと歩みを進めたところで、声が聞こえる。


『どこ行くんだメスガキ。テメーが紐引け』

「アンタ噛む気でしょ」

『噛まねェよ。オラ、とっととしろ』


 迷ったが、あまり人前で馬と喋らない方がいいことは分かっていた。格好も相まって浮いているからこのままではイカれた馬主扱いされてしまう。

 志穂は念のためクリュサーオルの鼻先に触れてから引綱を預かる。暴れていたのに途端大人しくなった様子に、羽柴は「奇跡だ」とびえんびえん泣いていた。


『もっと寄れ。アイツはもっと近かった』

「私は斉藤さんじゃないんだけど」

『別にいいだろ、今日くらいワガママ聞いてくれよ』


 仕方ないか。そう呆れつつも、志穂はクリュサーオルの隣に収まった。

 そしてかつて口取写真に映っていた斉藤萌子のように誇らしく胸を張る。まばらに残った観客に祝福されると改めて勝利の喜びが込み上げてきて、ようやく自然に笑顔が出せた。


 撮影は滞りなく——古谷先生だけはしょげ返っていたが——終わり、晴翔の口添えで通された馬主専用室でようやく赤のドレスを脱ぐことができた。慣れないドレス、慣れないヒールからいつもの姿に戻るとようやく落ち着き——はしなかった。


 志穂にはまだ、この修学旅行でやらねばならないことが山積みだ。

 クリスをどうするか。クリス本人に聞いて、もし産んでもらうなら誰を合わせればいいのか、レースを見て種牡馬の研究をしないといけない。

 そしてハルの姉、プレミエトワールのオークスだ。もし近くに寄れる機会があれば、ハルやクリスのことを話してみたい。

 そして、もうひとつ。忘れてはならないクリュサーオルのこと。


『オウ、来たか。まァ楽にしてけ』


 口取式の終盤に『話がある』と志穂を呼びつけたクリュサーオルは、競馬場内の馬房でやはり隅っこに体を寄せていた。

 軽く挨拶した調教師の香元によれば、異常がなければ次走は一ヶ月後。秋までに賞金を稼げたら一年遅れの重賞戦線を目指したいと意気込んでいた。羽柴は羽柴で「あの脚があれば余裕です!」と自慢げだ。それだけ今日の出来はよかったのだろう。


「元気そうでよかった。で、話って何? 告白でもしてくれんの?」

『調子に乗んなっつの』


 うりうりと鼻先をくすぐってやると、クリュサーオルは噛んできた。もちろん甘噛みだったがそれなりには痛い。


「やっぱ噛んだじゃん噛まないって言ったのに!」

『テメーは黙って話も聞けねえのかよ……』

「照れ隠しだよバーカ」

『そうかよ』


 クリュサーオルは寝藁に横になった。隣で寝転べという暗黙の合図だろう。

 志穂は望み通り首元に腰を下ろして、たてがみを撫でてやる。出会った当初の陰った栗毛は、今では金色に輝いているように感じられた。

 しばらく首筋を撫でていると、クリュサーオルは独り言のように呟く。


『ずっとあの女を待ってた。認めたくなかったんだよ、アイツが死んだなんてな』


 死を悟っていたような物言いに志穂は少し驚くが、考えられないことじゃなかった。定期的に顔を見せていた者が急に消えたら、自分だって心配くらいはする。


「気づいてたんだ、斉藤さんのこと」

『あァ、弱って死にかけてるくせによ、幸せそうに笑ってやがったんだ。まったくイカれた女だぜ』

「アンタに幸せになってほしかったからだよ」

『ハン。だったら生きてろって話だ。死に目に合わせんじゃねェよ、バカが』


 クリュサーオルは吐き捨てる。不躾な口調の裏にある本心は、言葉にしなくても志穂には充分伝わった。

 死んでしまったらどうにもならない。生きているだけで偉いのだから。


『まァ、あんな女でもオレ様にとっちゃ一番だったんだ。悪ィな、手間かけて』

「私も騙してたし気にすんな。それにまあ、大事な人が死んだ気持ちはわかるよ。私も母さん亡くしたから」

『そうかよ、苦労してんだな』


 「亡くした」という言葉が喉につっかえる。

 なぜならもし自分を生まれなければ、母親は死なずに済んだ。

 だとしたら、母親の命を奪ったのは——


『ってオイ、今の話でなんで笑ってんだ? 不気味だぞ』

「……つらい時ほど笑えって大村のじいちゃんに言われてるからさ」


 ——やめよう。悲しみも怒りもやるせなさも、今はいらない。

 馬のために幸せであろう。そう強く心に誓う。


『誰も見てねェ。泣きたきゃ泣いていいぜ』

「カッコいいこと言ってんなよ、モタのくせに生意気だぞ」

『だな。ゲハハハッ!』


 クリュサーオルは歯をガチガチさせて笑ってみせた。余裕ぶった姿が癪に障ったのでたてがみをわしゃわしゃとかき回してやる。ちなみに、馬のたてがみは意外と硬い。


『ともかく、今日勝てたのはテメーのおかげだ。あんがとよ、し……し、

「アンタこのタイミングで名前呼ぼうって決めてたんでしょ? クッサ」

『うっせェなァ! とっとと帰れ! オレ様の部屋掃除して待っとけ!』


 厩舎の扉が開けられる音がした。水入らずの話もここまでだ。

 志穂が立ち上がると、クリュサーオルもそれに続く。雄大な栗毛の馬体を労るように撫でていると、羽柴が馬具を持って馬房の前にやってきた。帰りの馬運車が到着したらしい。


「はいはい。じゃ、気をつけて帰んなよ。クリュサーオル様」

『おう! ……ああ、待て』

「何?」


 クリュサーオルが馬房の隅から歩き出す。柵越しに首を伸ばして、志穂の額に鼻を押し当てた。


『テメーは死ぬんじゃねェぞ』


 ぶほぶほ荒い鼻先にデコピンならぬ鼻ピンを食らわせて、志穂は舌を出した。


「死なねーよ」

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