第27話 カッコよく強く速い

「ねえ、クリュサーオル……。私ね、もう会いに来れそうもないの」


 最期にあいつがやってきた日を思い出す。

 撫でる指先も生草を持つ手も、呼吸すら衰えていた。人間の体の仕組みなんぞ知らなくても、死期が近い仕草は同じ動物なら変わらない。

 それでもあいつは笑っていた。楽しそうな姿だけを見せようとしていた。


「今日は最期のお別れを言いにきたんだ。見捨てていなくなるなんて悪い馬主だよね、ごめんね」


 あの時、お前は無理をしていたのか?


「最期に、クリュサーオルにお願いがあるの。たったひとつ約束してほしい。できるかな? ううん、絶対にできるよね。クリュサーオルは世界一カッコよくて強くて速くて、賢いもんね」


 無理してまで顔を見せに来て、今にも死にそうになりながら、何を言おうとしたんだ。

 何をオレ様に伝えようとしていたんだ。


「あのね——」


 ***


 私のぶんまで強く生きてね。約束よ。

 私の大事な、大好きな、クリュサーオル。

 がんばって。


 ***


「がんばって走れーッ!!! モターッ!!!」


《さあ四コーナー抜けて勝負の直線、先頭はハードラック! しかしあえて最内を選んだクリュサーオル、なんと三番手まで上がってきた!》


 芝二千四百はスピード、スタミナ、瞬発力。どれかひとつ欠けても勝ち切れない。ゴールまでの五百メートル直線には坂もある上、最内は余計に体力を消耗する稍重の馬場だ。こんなところを走って勝ち切る馬はそういない。

 だがそれゆえに、クリュサーオルの前方はガラ空きだ。これほどまでに飛ばしがいのある直線はない。


『……クリュサーオル様と呼べッつッたろ、メスガキが』


 鞭の合図など待つまでもなかった。レースなんて簡単だ。全速力で飛ばし切れば勝てる。


『親分らしいところを見せろ? 証明してみやがれ? ずいぶんナマ言ってくれンじゃねェか、メスガキの分際でよォ……』


 踏み込む。四本の脚に全精力を注ぎ込む。地面はぬかるんでいる。脚が芝に吸い付けられる。まとわりついてくる泥まじりの芝が鬱陶しく騒いでいるが、騒がしい地面なら踏み潰して黙らせてしまえばいい。


《15番クリュサーオル、手綱を持ったまんま上がってきた! そのままハードラックに迫る! 鞍上ここで鞭を入れた!》


 小刻みに脚を動かせば、ぬかるみに囚われる前に脚を出せる。速度を殺さないように脚元の回転数を上げる。体力はまだある。とろとろ走ってちょうど温まっている。メスガキとクソガキ相手に走り回った甲斐もあった。

 騎手から手綱の指示を受け取る。最内から馬場が回復しつつある外へ移る。これまで見えていた先頭の馬はもう見えない。ブリンカーの死角に入った。

 隣で必死で走る先頭の馬の声だけはうっすらと聞こえていた。さきほど『今日こそは一番!』と意気込んでいた馬だろう。相変わらず気を吐いている。


『悪ィな。こっちは世界一カッコよくて強くて速ェんだ』


 だから、負けられない。


『オレ様は……強く生きると約束した、クリュサーオル様なんだよォッ!!!』


 残された最後のギアを入れた。


《ここでなんとクリュサーオル信じられない末脚で一気に先頭に躍り出る!!! ハードラックついていけません!》


 騎手の判断は正しかった。馬場の最内を避ければ、そこはいつもの硬い地面だ。ゆるやかな登り坂が続いていようが、かえってその方が踏み潰しがいがある。


 脚よ、回れ。体よ、伸びろ。息よ、続け。

 強く、生きろ。


 ——勝手に死んだバカヤローに、死んだことを後悔させてやる!


《クリュサーオル引き離していく! その差三馬身、四馬身いやまだ飛ばす!? 会場すごいどよめき! なんという末脚!!! 信じられない大波乱だ!!!》


『ざまァみやがれェ、こンちきしょうめェーッ!!!』


 もう、他馬の気配は消えていた。

 新緑の少し湿った空気を引き裂いて、クリュサーオルは先頭を譲らずゴール板を駆け抜けた。


《なんとレースを制したのは15番! 亡き馬主に捧ぐ激走を見せたのは、最低人気から這い上がった金色のダークホース! クリュサーオルの覚醒だーッ!!!》


 *


「あンぎャーッ!!!」


 とんでもない勝利にどよめくスタンドで一番大きな断末魔を上げたのは、誰あろう古谷先生だった。そのまま泡を吹いて倒れて絶命した。

 一方、晴翔は着順を示す掲示板を睨みつける。今か今かと着順確定を待ち、一着が決まった瞬間勝鬨を上げた。


「よくやった、モタ! ざまあみろーッ!」

「ざまあみたよぅ、ひどいよう……。なんでクリュサーオル買えって言ってくれなかったのぅ……」


 鼻水をずびずび垂らした古谷先生が足元にすがってきたが、晴翔は無視を決めこんだ。

 そんな興奮冷めやらぬ晴翔と、逃した魚の大きさに意気消沈した古谷先生の元に、ドレス姿の女性が駆け寄ってくる。


「えっ? か、加賀屋さん……!?」


 真っ赤な市松模様のドレス。斉藤萌子の勝負服だ。それに身を包み、ほんのりと化粧をした志穂が肩で息をしていた。

 普段のガサツで蓮っ葉、作業服姿の田舎娘の面影はどこにもない。これまで何度となく顔を見てきた相手だというのに、煌びやかに着飾った志穂の姿に、晴翔は言葉を飲み込んでしまう。


「どうなった? モタ勝ったの……!?」


 枯れかけて過呼吸寸前の声で問われた瞬間、目を奪われてしまっていた晴翔は思わず吹き出してしまった。

 志穂がなぜドレスを着ているのかはわからないが、必死でクリュサーオルを応援していたのだろう。荒い呼吸から、額にうっすら浮いた汗から、それが充分伝わってきたからだ。


「……六馬身差の圧勝です。あいつの実力は本物でしたよ」

「そっか……」


 志穂は震える膝を屈ませて呼吸を整えてから、大きく息を吸って叫んだ。


「おっしゃー! ざまあみろーッ!!!」

「あっはは、いいねそれ! ざまあみろー!」

「ざまあみろーッ!」


 志穂に続いて、茜音も勝鬨を上げる。それは志穂が連れてきた斉藤萌子の両親も同じだった。目を丸くして顔を見合わせると、二人して涙ぐんで天高く拳を突き上げる。

 遥か空の彼方へ。勝手に死んだどこかの誰かに届くほどに。


「なんでみんなして先生を煽るの〜ッ!? イジメだぞそれ〜ッ!!!」


 古谷先生の抗議は、後検量を終えた勝ち馬が戻ってきて無視された。

 カメラやスマホで狙う人々の視線の先には、どこか誇らしげに口取式のウィナーズサークルへ向かうクリュサーオルがいる。周りを取り囲むのは関係者たちだ。騎手に調教師の香元、そして調教助手のふわふわ羽柴が涙目になってクリュサーオルを引いている。

 思い当たった晴翔はすぐさま志穂に告げる。


「加賀屋さん、モタの口取式に参加してやってください」


 「ざまあみろ」を連呼していた志穂はきょとんとした様子だ。少しは見直したもののまだまだ素人っぷりに呆れつつ、志穂の背を押す。


「ちょうどいいドレスも着ているじゃないですか。モタも喜ぶと思いますよ」

「いや私馬主じゃないし」

「今の馬主はウチの牧場です。その牧場の息子がいいって言うんだから問題ありませんよ。斉藤さんご夫妻も是非」

「ぞうでずよ〜! みんなでどりまじょうよ〜!」


 ちょうど間近まで登ってきていた羽柴も志穂の姿を見とめて叫ぶ。嗚咽まじりでほとんど聞き取れなかったが、ぶんぶん手を振って「こっちに来い」と合図を送っている。

 志穂は即座に言い切った。


「よし、みんなで口取式だ! 今回の勝利は、馬事研のおかげってことで!」

「先生は勝ってない〜ッ!」


 嬉し涙を流す人々の一方、予想を外した古谷先生だけはただ泣いていた。

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