第19話 なら迎えに行くまで
「三冠なんて贅沢は言わない! 目指すはキミのお父様も勝った日本ダービーだ! たっくさん応援するから一緒にがんばろうね、モタくん!」
その日はいつもと違っていた。
知らない女がやってきたからだ。
外から来た人間だろう。牧場の連中と違って身綺麗にしていた。触れ方も撫で方も下手くそで褒められたものじゃない。そのくせキャンキャンはしゃぐだけの、まるで使えない女だった。
「決めたよ。君の名前はクリュサーオル。
そして、女の言葉は何ひとつわからない。そもそも人間とは話せない。
だが、女は何度もやってきた。
だからこそわかることもある。
「じゃーん! これが私、斉藤萌子の勝負服! 騎手とお揃いの、真っ赤な市松模様のドレスなの! えへへ〜奮発しちゃった。ゼッタイこれ着て応援行くよ。コーナー出口で待ってるから、ちゃんと見つけてね。クリュサーオル」
この女はいつも《クリュサーオル》と呼ぶこと。
いつも上機嫌で、幸せそうに笑っていること。
「デビュー戦三着なんてすごいよ! がんばったよ〜、クリュサーオル! クリュサーオルががんばってるって思ったら、私もすっごくがんばれる! ダービー見るまでゼッタイ死なないからね!」
大勢の馬と走るたびに、草を持ってやってくること。
「こないだは惜しかったね。だからお土産! 牧草持ってきたよ。これ食べて強くなろう。わっ! 私の手で食べてくれた〜! かわいい〜ッ!」
走る場所が芝でも土でも、見える景色が違っても。
前を走れなくたって、この女は幸せそうなこと。
「ねえ、パドックでウチワ振ってたの気づいた? じゃーん、推しウチワ持ってきたよ。『クリュサーオル目線ちょうだい!』って書いてあるの! 目線ちょうだーい! クリュサーオル様ーッ!」
「今日ね、ダービーだったの。でも私、レース見なかった。だって私の一番はクリュサーオルだもん。あなたが一番。イッチバンかっこよくて速くて強い馬。それがクリュサーオルだから」
「
次第に——弱っていったこと。
「一着おめでとう、クリュサーオル。せっかく元気で、がんばって勝ってくれたもんね。私も、がんばらないといけないよね」
最後にやってきたときは、撫でる力すらも弱かった。
いつものようにはしゃぎもしない。声にハリもない。
「ねえ、クリュサーオル……。私ね——」
どこへ行くんだ。お前には子分としての役目があるはずだ。
あれだけ足繁くやってきただろう。まったく、子分失格だ。
だがいい、許す。オレ様は寛容な親分だ。
だから待っていてやる。早く会いに来い。
お気に入りらしい、真っ赤なドレスでな。
*
「モタ元気〜?」
『ゲハハハッ! 見りゃァわかンだろ、ビンビンだぜ!』
人間なら百パーセントお縄になるような犯行に及んでも、お咎めなしなのが馬である。クリュサーオルが元気いっぱいなのは、そのブラブラ感から理解できた。
『オイ、スルーかよ? ノリ悪ィなァ?』
「
志穂はハッピーを張り付けたにこやかな笑顔で、これ見よがしに指先をねじる動作をしてやった。何をねじ切るかは想像にお任せするが、クリュサーオルは耳を畳んで股間を締めていた。
調子が上向いている証拠だろう、馬っ気も愛嬌だ。それは声が聞こえる志穂だけでなく、大村や羽柴にも伝わっていた。
ここ数日での朗報がふたつある。
ひとつは、クリュサーオルの復帰レースが決まったこと。
東京競馬場、芝二千四百メートル。四歳以上一勝クラスの条件戦。
そしてふたつめの朗報が——
『オジさーんッ! あーそーぼーッ!』
『ッたくよォ。ガキはガキ同士走ってりゃいいだろうが……』
——ハルが、調教パートナーを勤めるようになったことだ。
『えー! オジさんと走りたいーッ! オジさん速くて強いもーん!』
『おっ、そうかそうか分かってんじゃねェか! ゲハハハーッ!!!』
『げはははぁ〜!』
「それはマネしちゃダメ」
なんと、この間のマッチレースに可能性を感じた羽柴は、二頭を実戦形式で走らせることにしたのである。前代未聞、現役馬と実質一歳馬の
コースの走り方も知らないハルに併せ馬が務まるのは、「モタをマネして走れ」と伝えたから——だけではない。ハル自身の飲み込みの早さと、レースへの前向きさあってのことだ。
「あの引きこもってたクリュサーオルを連れ出すなんてさっすが志穂さん! それじゃ今日もウォーミングアップをお願いしますね! ハルちゃんのためにも!」
くわえて羽柴は——志穂を転がすのが上手かった。
できれば乗りたくない志穂でも、併せ馬がハルの訓練になると聞けば話は別である。それに命を預ける馬は悪いヤツじゃない。
「じゃ、行こっか!」
『おーし、ついて来いチビ。走り方を教えてやる』
『えー、ボク一番前を走るのがいいー!』
『分かってねェなァ! これだからガキは困るぜ!』
そうして志穂を乗せたクリュサーオルと、空馬のハルがコースを駆ける。あくまで流すだけなので、風の気持ちよさを感じる余裕が志穂にもあった。
五月。北海道の雄大な大自然がいよいよ芽吹きだし、世界を青と緑の二色に塗り分けてしまう季節である。
「慣れたら気持ちいーんだよねー、乗馬ってさー」
『ゆるんでショウベン垂れんじゃねェぞ』
爽やかな気分もぶち壊しだ。両脚でクリュサーオルの胴を挟んで締め付けながら、隣を走るハルを見る。
「ハルはどう? 楽しい?」
『ねーもっと走ろうよー。こんなのんびりペースつまんないよー!』
『バーカ、ハナから飛ばしたらバテちまうンだよ。黙ってついてこい』
『はぁ〜い……』
ハルは今にも飛び出していきそうなくらい不満そうだったが、羽柴によれば我慢を覚えさせるのも訓練の一環だそうだ。後先考えない全力疾走よりは、他馬と走ることの方が学びが多いのだという。
『しっかし、いいモンだな。走るのを楽しいって思えたのは久しぶりだぜ』
「私のおかげ?」
『これだ。すーぐ調子に乗りやがる』
「素直に認めればいいじゃん?」
『まァ、そうかもな。テメーのおかげだろうさ』
クリュサーオルは言うと、再び静かに走り出した。聞こえるのは風の音。二頭分の蹄の音に、息づかい。それを注意深く感じて、志穂も息を合わせる。すると人馬の息がぴったり合って、途端に乗りやすくなる。合わせてくれたのだろう。
心が通い合った。そう思えて嬉しい反面、騙しているという事実が志穂の心臓を締め付ける。
『……なァ、メスガキ。あの女のことだけどよ』
手綱を握る手がこわばった。
ついたままの嘘をどうすべきか考えているうちに、クリュサーオルは続ける。
『伝えといてくれるか。見に来いってよ』
「アンタ明日には東京でしょ?」
『違ェよ。走りを見に来いッて話だ』
「え……?」
『このオレ様がわざわざ出向いて走ってやるって言ってんだ。親分に迎えに行かせンじゃねェよ、まったくよォ』
クリュサーオルが引きこもっていたのは、斉藤萌子を待っていたからだ。
だが別に、斉藤萌子が現れるのは馬房だけとは限らない。嫌な予感がする。
「も、もしかして競馬場に呼べって言ってんの……?」
『アレ競馬場って呼ぶのか。じゃあ、そこだ!』
完全に失念していたのだ。
何度も何度も世界の果てみたいな洞爺まで通うようなお金持ちが、レース本番を見に来ないはずがないのだ。実際、口取り写真にも映っていたじゃないか。
マズい方向に話が転んでいる。
「で、でも東京に住んでるかどうか……」
『関係ねェ。あの女はどこで走ろうとやってきやがった。となりゃァ、このオレ様復活の晴れ舞台を無視するワケねェよなァ? だろ?』
「……」
『おい返事はどうした?』
死者と連絡を取る方法はない。さすがに馬と喋れても、死体と話す能力まではないのだ。試していないから分からないが。
「……そうね」
またしても嘘をついた志穂の喉は、きゅうっと締まる。
願うのはもちろん、クリュサーオルの幸せだ。だが、騙し続けるのと伝えるのではどちらが幸せなのだろう。そもそも彼にとっての幸せが何かわからなくて、志穂の口は重い。
『ま、待っても来ねェなら迎えに行くまでだ! それをあの女に伝えろ』
「がんばってみるよ」
『オウ、頼りになンのはテメーだけだ。頼むぜ!』
騙されているなんて疑いもしない上機嫌な言葉を残し、クリュサーオルは馬運車に乗って旅立った。
「どうすりゃいいのよ……」
ダメ元で『三週間で身につくイタコ講座』と検索して、志穂は頭を抱えるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます