第18話 オレ様VSクソガキ

「体がいでえ……」

『あらあら〜。だいじょうぶ〜?』


 寝藁を替える動作のひとつひとつが、志穂の体を軋ませた。

 昨日、クリュサーオルいわくの「流し」に付き合っただけでこの有り様だ。こんな重労働を毎日のように繰り返しているプロ騎手は全員バケモノだろう。

 ひいひい言いながら腕を上げてクリスを撫でていると、背中を一撃された。なんの悪気なく鼻先を槍のように突き刺す差し馬。ハルである。


『シーホーッ! いつになったら競争できるのー!? 走りたいよーッ!』

「いやあ、そうは言ってもさあ……」

『はーしーりーたーいーッ!』


 ハルはまるで人間の子どものようにダダをこねていた。人間と違うのは三、四百キロ近い馬体でドスンドスン大地を揺らして跳ね回るところである。馬と話せなければ絶対に近づいてはいけない。もちろん、馬と話せたって危ないことには代わりない。

 『暴れちゃダメよ〜』とクリスは嗜めていたが、ワガママが収まる様子はなかった。


『私も昔はみんなと走ってたけどお、ハルにはお友達がいないものねえ〜』

「牧場に頼んでみようか。他の仔もいるし、大村の爺ちゃんもハルに会いたがってたから」

『走れるの!?』


 思い浮かんだのは洞爺温泉牧場の仔馬放牧だ。

 あそこなら同世代の仔馬がたくさんいる。それにここから数キロ程度だから、ハルにとっては放牧感覚で日帰りできる距離だ。幸いにして道程も大草原なので蹄を痛める心配もないし、文字通りに道草も食える。

 ただそうなると、問題は志穂である。


「歩くのか、あの距離を……」


 すこやかファームからの行きは下り、帰りは上りだ。自転車でもツラい坂道を、これから毎日ハルを連れて歩くことになる。

 想像しただけで太ももが痛い。そもそも太ももは痛いのだが。


『ハル? ちゃんとシホの言うこと聞いて、いい子にできる〜?』

『できるよ! ボクいい子だよ!』

『えらいわねえ〜。じゃあ行ってらっしゃ〜い♪』

『行ってきまーす! シホ! 行こ!』

「勝手に決まってるし!」


 結局、決まった。馬中心の生活は大変だ。


 *


『牧場のおじいさんだ! シホ、このおじいさんいい人だよ!』

「知ってる」


 幼い頃から目をかけてもらっていたからか、ハルは大村相手にはしゃいでいた。

 馬は人間を見分けられるし、してくれたことは覚えている。クリュサーオルと馬主の関係のように特別な間柄なら決して忘れない。


「ああ、そうだ志穂ちゃん。羽柴さんが呼んでたよ——お?」


 大村はハルの脚元を、正しくは跳ね上げたひづめを見留めて言った。


「馬体も育ってきたし、蹄鉄ていてつを打ってやってもいいかもね」

「そうだ。それも相談しようと思ってて」


 蹄鉄。それは傷みやすい馬の蹄を守る靴だ。

 U字型で、競走馬の場合はアルミ製。炉で燃やして赤熱したそれを、焼きごてのように蹄に押し当てて、釘で何箇所も打ちつけて固定する。それだけ聞くとまるで拷問だが、蹄には痛覚がないので痛くはないらしい。


「ちょうど装蹄師さんが来ているから頼んでおくよ。モタの件のお礼だ」

「ありがとうございます。ほら、ハルもお礼」

『ありがとー。よくわかんないけどー』


 おかげで蹄鉄代が浮いた。よしよし。

 ハルの装蹄を大村に任せ、志穂は羽柴の待つクリュサーオルの馬房に向かうことにした。


 *


「で、私にモタに乗れと……」

「数日だけでいいんです。しばらくは低斤量きんりょうで体をほぐしてほしくて」


 志穂はまたしても、クリュサーオルの上にまたがることになるのだった。

 羽柴が言うには、一ヶ月近く馬房の中に留まっていたクリュサーオルのための特別メニューらしい。勝ちの目がある一ヶ月後のレースに向けて仕上げていきたいが、体がなまっているうちの激しい乗り運動は危険度が高い。

 そこで低斤量、すなわち背負う重量が少なくて済む志穂に白羽の矢が立ったというが。


「ねえ、それって羽柴さんが重——」

「乗り方はわかります? あ、もちろんモンキー乗りじゃなくて天神乗りでいいですよ」

「痩せたらいいんじゃ——」

「手綱はハミに繋がってるんです。だからなるべく短く持って曲がる時はその方向に」

『ほっとけほっとけ、どうせ走ンのはオレ様だ。テメーは落ちねェように捕まっとけ』

「無茶言うよ……」


 ちなみに、馬の背にどっかり腰を下ろす一般的な乗馬姿勢が天神乗りだ。

 一方で、馬の背には乗らず、自転車のペダルのようなあぶみに足をかけ、中腰の前傾姿勢で顔を上げるのが騎手の行うモンキー乗りである。


「私は無茶だと思ってません。昨日の志穂さんの騎乗は見事でしたから」


 クリュサーオルに言ったつもりだったが、羽柴は真剣な面持ちで告げてきた。ふわふわの髪の毛は、やっぱりヘルメットの形になっている。


「私がすごいんじゃなくて、モタが合わせてくれたからですって」

『ゲハハハッ! よく分かってんじゃねェか!』


 微妙に腹が立ったので、両脚で胴体を挟み込んでやった。『おうふ』と声が聞こえる。


「その間柄があれば問題なしですよ! あ、落馬したら意地でも頭は守ってくださいね? 体育の授業でやったことありますよね、柔道の受身の要領です! ファイトです!」

「待って簡単に言わないで! 落ちるって何!? そんな飛ばすの!?」

『その辺のヘボ馬と一緒にすんな! オレ様が落とすかよッ!』


 聞こえた途端、体が後ろに引っ張られた。ゲートを出た瞬間のような猛然とした急加速だ。腹筋と背筋が悲鳴を上げる。息ができない。

 それでも、志穂はどうにか耐える。一度耐えてしまえば、あとは慣性に任せてしまえばいい。


「し、死ぬかと思った……」

『加減してやったんだ、当然だろ! 今日は飛ばすぞ!』

「信じるからね!?」

『おう!』


 クリュサーオルは駆ける。一周千二百メートルの芝コースに他馬はいない。なだらかな起伏を下りながら柵沿いを曲がっていく。今度は横方向に振り落とされそうになる。遠心力だ。それも耐えると、長い直線が待っていた。


『視界良好だ! ブチ抜くぜェッ!』


 ギアが変わったとはっきり分かった。直線での再加速はこれまでの比ではない。一気に志穂の視界が狭くなる。

 サラブレッドの最高速は時速六十から七十キロ。速度計がついている訳ではないので定かではないが、志穂が生身で体感したことのないスピードだ。


「……ははッ! すごいじゃん! 速いじゃーん!」

『ゲハハッ! わかるようになってきたじゃねェか——おン!?』

『シーホーッ!』


 まさか。聞こえるはずのない声が聞こえて、志穂は身をかがめつつ振り向く。

 なんとそこには——ハルだ。鞍も何もつけていないハルが全速力で駆けている。


「アンタ何やってんの!? 蹄鉄は!?」

『すごいんだよ! アレつけてもらったらすっごく速いーっ!』

『ハーン? こいつテメーの飼ってるガキだな?』

『ハルだよ! 競争しようよ、オジさん!』

『オジさんッ……!?』


 そして、驚くべきことが起こった。

 猛烈なスパートを駆けるクリュサーオルに、ハルが並ぶ。いや、並ばない。そのままぐんぐん引き離していく。差は半馬身から一馬身へ。


「嘘でしょ!? ハルすごい! まだ実質一歳なのに!」

『ボクが勝っちゃうよーッ!』


 だが、これがクリュサーオルの魂に火をつけた。火をつけてしまった。


『調子ノッてンじゃねェぞ、クソガキがァッ!』


 直後の末脚は、熾烈のひと言だった。

 とうとう耐えきれず、志穂はクリュサーオルにしがみついた。


 いくらなんでも無茶苦茶だ。これはマッチレースにもならない。

 騎手はド素人で、乗り方は掛け布団。クリュサーオルは走りにくいことこの上ない。一方のハルは誰も乗せていない。誰よりも身軽な状態だ。


『わっ、オジさんすごい! 追いつかれた!』


 離されたハルとの差は再び半馬身、そして並ぶ。クリュサーオルが意地を見せる。とんでもない馬力だ。もうどちらがどうすごいのか志穂にはわからない。

 ただ、コーナーが見えた。この速度だと確実に振り落とされる。


「とまーれーッ!!!」


 途端、クリュサーオルがようやく速度を落とし始めた。それはハルも同じで、ゆるやかに駈歩から常足へとおさまっていく。

 ようやく止まった。志穂はもうフラフラだ。全身が筋肉痛と緊張からの弛緩で震えていた。


「おしっこちびった……」

『キッタねェなァオイ!?』


 最悪の乗馬体験を終え、ずり落ちるように芝の上に座った志穂の元に、羽柴と大村が駆け寄ってくる。さすがの大村にはいつもの笑顔はないが、羽柴は——


「すごいすごい! 一ハロン十五秒は出てましたよ! しかも天神乗りで!」


 ——志穂が素人であることをすっかり忘れてはしゃいでいた。

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