第17話 志穂ちゃん愛してる

 遡ること十数分前。

 大村と羽柴に請われた志穂は、クリュサーオルの馬房に舞い戻るなりこう言った。


「モタってさ、ホントに人乗せたことあんの?」

『テメエ、バカにしてんのか? メスガキだからって容赦しねェぞ!?』


 クリュサーオルは鼻息をばふばふ吹いて憤っていた。前脚で馬房の寝藁を掻きながら、志穂を片目で睨みつけている。通常であればかなり危険な状態だ。


「んなことしないでしょ。私が死んだら呼べないよ? 赤いドレスの女の人」

『クソガキが……』


 クリュサーオルは溜飲を下げてくれたが、これ以上の嘘はつきたくなかった。

 うまく転がして外に出そうと思っていたが、志穂は正直に話すことにする。


「羽柴さんが来てんの。知ってる? ふわふわした髪の人」

『そうかよ……』


 憤っていたクリュサーオルはすぐに耳を引き絞った。そして定位置になった馬房の隅に体を擦り付ける。

 一歩たりとも動かない。外には出ない。もしかしたら、斉藤萌子が来るかもしれないから。

 そう言っているように志穂は感じる。


「私さ、モタの走るトコ見たいんだよ。アンタを待ってんのはドレスの女だけじゃない。私もこの牧場も、アンタに関わる人間はみんな、クリュサーオルの復活を信じてる」

『……』

「だからさ、ちょっとでいいから外に出てくんない? 掃除もしたいし、アンタだってこんな狭いトコに閉じこもってんの息が詰まるでしょ」

『……別に息なんて詰まんねェ。快適だ』


 確かに馬は狭いところが落ち着くらしい。だが、青空の下をのびのび走り回るのだって大好きだ。それはハルが教えてくれたこと。


「そりゃ快適でしょ。なんたってこの私が掃除してるからね」

『テメエのそのつけ上がる性格はどうにかなんねえのか……』

「人のこと言えんの? 志穂って呼んでくれないじゃん」

『いッ、今それは関係ねえだろうが!?』

「いいや、関係あるね!」


 志穂はクリュサーオルの横っ腹に触れた。思わず吐き出してしまいそうになるくらい可愛こぶって言う。


「クリュサーオル様、お願いがあります。私ぃ、あなたが外に出て走るところ見たいなぁ♪」

『きめェ……』


 こいつ……。


「なら志穂って呼べ」

『ああッ!?』

「アンタの選択肢はふたつ! 今すぐ『志穂ちゃん愛してるヒヒーン』って言うか、外に出て走るか! さもなきゃドレスの女は来ない!」

『テンメェーッ! 卑怯だぞォッ!?』


 鼻息荒く憤って、クリュサーオルは馬房の中を歩き始めた。円を描くように、ただ視線だけはハッキリと志穂を見定めて。思案するようにくるくる回ると、脚を止めた。


『しッ……シ……』

「お? 言うんだ? ほらほら、言ってみなよ志穂ちゃん愛してるって。クリュサーオル様よぉ?」

『だァーッ! オラ、行くぞ! 柵外せメスガキッ!』

「そこまでイヤなの私の名前!?」


 釈然としない気持ちは満々だが、外に出る決心はしてくれた。志穂は急いでハミと引き綱をクリュサーオルに取り付けて、馬房の馬柵を外した。


 そして、クリュサーオルは外に出た。

 厩舎から出たふたりを待ち構えていたのは大村と羽柴だった。二人とも大慌てで駆け寄ってくる。


「すごいな志穂ちゃん!? どんな魔法を使ったんだい?」

「ええとまあ、ノリと勢いで……」

『オラ、メスガキ。喋らねえ人間乗せてもつまんねえ、乗れ』

「はあ!?」


 クリュサーオルの気分が変わらないうちに、ということだろう。羽柴が手早く鞍や鎧を取り付けていく。途端、クリュサーオルは膝を折って地面に伏せた。

 あまりに珍しいことなのだろう、羽柴は乗ろうとすらせず様子を窺っている。


『何も本気で走るワケじゃねェ、適当に流してなまった体をほぐすだけだ。ただ乗ってるだけならテメーにもできるだろ』

「いやいや私騎手じゃないから! 乗ったこと……はあるけどあんなの乗馬にカウントしない——」

『信じられねえってか? テメーはオレ様の復活を信じてんだろ?』


 クリュサーオルの言う通りだ。

 性格も口調もひどいものだが、彼は悪いヤツじゃない。馬房の掃除もさせてくれるし、暇なときの話し相手にもなってくれる。


「ハハハ、まるでモタと話してるみたいだねえ。よし、羽柴さん。プロテクターを」

「まだ子どもですよ!? もし何かあったら責任問題になりますって!」

『乗ンのか? 乗らねェのか?』


 クリュサーオルは本物の競走馬、現役馬だ。

 流すとは言っているが、クリスとは訳が違う。


「……流すだけ。それでいい?」

「よくないですから〜!」


 鼻息をぶほっと吐いて、彼は短い返事をする。

 ならば、信じよう。

 志穂は羽柴の手からヘルメットを引ったくった。止めようとする羽柴を振り切ってまたがると、それを待っていたかのようにクリュサーオルが立ち上がる。

 視線が急激に高くなった。遥か先には、青空と草原を塗り分ける地平線が走っている。

 空は澄み切っていた。手元には伸びた馬の首。降り注ぐ四月の陽光が、ずっと翳って燻っていた彼のたてがみを金色に輝かせている。それがとても綺麗だった。


『軽ィなァ、テメー。ちゃんと食ってんのかよ?』

「アンタらの世話してたら食っても食っても痩せんの」

『ハッ! 頑張ってる証拠ってこったな! 行くぞ!』


 そして手綱の操作も受け付けず、クリュサーオルは走り出す。


「ほら暴走したーッ!」


 背後で羽柴の声が響いたが、「大丈夫!」と志穂は答える。

 「流す」というのは本当だった。一周千二百メートルのコースを、久しぶりの芝の感触を確かめるように疾走する。それに跨ってひたすら志穂は耐える。普段使わない筋肉が明らかに酷使されていたが、それでも耐えられたのは楽しかったからだ。


『ゲハハハッ! ヘッタクソな乗り役だなァ、オイ! レースで乗る連中はもっと快適だったぞォ!』

「プロと一緒にすんな! 私は素人だっ!」

『だがまァいい、許してやる! 約束は果たしてもらうぜ!』


 斉藤萌子のことを思い出して胸を痛める——ような余裕は、志穂にはなかった。

 ただただ必死で、腹筋と背筋に走る痛みに耐えていたのだった。


「アンタ流すだけって言ったじゃん!? アホーッ!」

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