第16話 九十万円くださいな

『シホ〜! 今日は風と競争して勝ったんだよ〜! 撫でて撫でて〜!』

「よーしよし、ハルは速いねえ〜」


 ハルは風になった。風よりも速く疾った。

 ——なんて言えば聞こえはいいが、ただ競う相手が居ないだけだった。


 普通、仔馬は広い放牧地に集団で放牧され、他の馬たちと走り回って遊びながら成長していくらしい。大村に教えてもらったことだ。

 一方、すこやかファームの馬は二頭。うち一頭はもはや牛である。どこぞの引きこもりと違って家からは出るが、そこまで動き回らず食っちゃ寝するのが日課だ。


『ねえ〜シホ〜。背中のあたりがかゆいわあ〜』

「はいはい。この辺?」

『そこそこ〜。あ〜♪』


 のんびり屋のクリスは健康維持程度でいいけれど、ハルにはなるべく走り回って強く育ってほしい。本人も走るのは好きなようだし、世代の頂点に立ってしまった「お姉ちゃんと走る!」ためには欠かせないことだ。

 ただ、焦ってはいけない。

 実際、新馬戦を控えた二歳馬を触らせてもらって志穂は理解したのだ。


『ボク、けっこう大きくなったでしょ!』

「そうだねえ〜」


 ——えっ? うちの二歳馬ハル、小さすぎ!?


 早生まれについては考えないようにしていたが、ハルと同じ二歳馬の成長度を見ると否応なく分からされてしまう。あんな筋骨隆々な馬群の中に揉まれるハルは見たくないし、そもそもついてすらいけないだろう。

 何かハルをすこやかに育てられる画期的な方法はないものか。


「そしてついでに九十万円稼げる方法がいい。それが私のささやかな願い……」

『あらあら〜。人間大変なのねえ〜』

って……」


 思うところはあったが押し留めた。私はハッピーピープルです。

 しかし、そうそう簡単にハッピーとはいかないこともある。


「来たよモタ〜」

『オウオウ来たかメスガキ! で、アイツから返事はあったかよ? いつ来るって言ってた?』

「なかなか連絡がつかなくてさ。ごめんね」


 クリュサーオルの馬房を訪ねるときは、どうしても表情筋に力を込めてしまう。

 ワガママ放題なオレ様気質のくせに、帰らぬ人となった馬主の斉藤萌子を健気にも待ち続けていると思うと喉が詰まるから。


『まァ、仕方ねェか。なんつってもテメー、まだまだ小さいメスガキだしな』

「ねえそのメスガキってのやめてくんない? 私には志穂っていう、クソみたいな母親が唯一遺してくれた綺麗な名前があるんだけど」

『テメーがクリュサーオル様って呼んだら呼んでやるよ! ゲハハハハーッ!』

「わかりましたクリュサーオル様」

『お、あ? えッ? お、おう……』

「呼べよ!?」


 とはいえ、当の本人はこの調子だ。気落ちしている訳じゃない。

 そもそもこの洞爺温泉牧場では、気落ちした馬なんて見たことがなかった。たまにケンカや「お母さんに会いたい」とダダをこねる仔馬はいるが、みんなのんびり幸せそうに草を食んでいる。大村のモットーが息づいているのだろう。

 噂をすれば、そのハッピーピープルが厩舎の外で手招きしていた。


「ああ、志穂ちゃん。ちょっと来てもらえるかい?」

「はーい。じゃ、後でちゃんと私の名前呼べよ、モタ」

『か、考えといてやる……』

「このやろ」

「ははは、モタともずいぶん打ち解けたねえ。志穂ちゃん」


 マズい、話しているところを見られた。

 どうにか大村をごまかそうと言葉を取り繕っていると、背後から例の笑い声が聞こえた。


『馬と喋れるイカれ人間ですってジイさんに教えてやれよ、ゲハハハハ!』


 鞭で闘魂注入してやろうかという気持ちを引きつった笑顔で抑えつけた。

 私はあくまでもハッピーピープルです。

 

 *


「実は、モタのことで志穂ちゃんに頼みたいことがあってね」


 厩舎の外にいたのは大村と、遠路はるばるやってきた調教助手の羽柴だった。

 調教助手とは読んで字のごとく調教師の助手。その仕事は競走馬をレースに向けて訓練・調整すること——だと大村から聞いた。

 ついさっきまでヘルメットをかぶっていたのだろう。ふわふわの髪の毛が綺麗に固まった頭で羽柴は頭を下げてきた。


「そろそろモタの調整を始めたいんです。だからあの子を外に連れ出してくれませんか!」

「私が!?」


 思わず大村の顔を見上げて、本気なのだと悟った。例の優しくもどこか悲しい、弱った微笑みを浮かべている。


「情けない話だけど僕たちではお手上げなんだよ。あそこまでヘソを曲げてしまった馬は僕たちでも経験がなくてね」

「いや、モタは待ってるだけに見えるっていうか……」

「斉藤さんか。晴翔くんから聞いたよ」


 大村はすべて承知の上なのだろう。


「まあ、やる気を削ぐようで悪いけど、そこまで期待はしていないよ。ダメ元だ。だから気負わずにやってみてくれるかな? うまく行けばお駄賃も出すよ」

「なら九十万くれます? クリスとハルの家を新築したくて」


 大村も羽柴も固まっていた。もちろん、志穂もダメ元だ。期待なんてしていない。


「冗談です、こっちもダメ元なんで」

「やってみてくれるかい?」


 志穂はニカっと笑って答えた。


「どうにかしてあげたいのは私も一緒ですから」


 *


「晴翔くん大変だ! 奇跡が起こったぞ!」

「どうせパチンコで勝ったとかでしょう? 佐橋さんは大げさなんですよ……」

「いいから来てくれ! 一大事だ!」


 たまたま外出中の事務員に代わって留守番をしていた晴翔の元に、千円勝った程度で大喜びするスタッフの佐橋が飛んでくる。あまりに大げさなジェスチャーで「来い!」と手招きするので、晴翔も仕方なく立ち上がって牧場へ出た。

 そこで晴翔は、いつもの大げさではないと気づいた。

 スタッフたちも皆仕事の手を止めて、千二百メートルのコースの方を見ているからだ。


「アレだ! ありゃあ奇跡だ! キセキの大逃げだッ!」

「な、なん……でだ……!?」


 信じられない光景に、晴翔は持っていたスマホを落としてしまう。

 女子中学生が——志穂が、馬に乗っていたのだ。

 しかも彼女の乗っている馬は。


「あのクリュサーオルが……外に出た……?」

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