第3話 ぷにぷにしているね

 あれから自室にこもって、わかったことがふたつある。

 どれだけ寝てもベッドに頭を打ち付けても醒めない以上、これは現実だということ。

 もうひとつは——


「武豊でも無理だって言ってんじゃん!」


 ——馬と話せる人間などいないということだ。

 もちろんネットを調べればいくらでも噂は出てくるが、信憑性はないし証明する手段もない。馬と喋れて困ってるなんて訴えても、まるで相手にされないだろう。

 それは従業員たちの態度を見ても明らかだった。


「あの逆ドッキリには驚いたよ! 志穂ちゃんすごい演技力!」

「マジでクリスと喋ってるみたいだったね、さ食べて食べて!」


 「いただきます!」の大合唱とともに始まったのは、住み込み従業員たちとの大焼肉大会だ。

 ずらりと並ぶ食材が慣れた手つきで焼かれ、それとは逆の手がジョッキを上下に動かしている。いちおうは『志穂ちゃんようこそ記念』と銘打たれた歓迎会なのだが、みんなは食事と酒に忙しい。

 こんな場で「馬と話せます」なんて言った日には、冗談だと受け取られておしまいだ。

 それもこれも身勝手なあの男のせいだ。

 志穂はリンゴジュースの缶を怒りのままに叩きつけた。


「ねえあの馬のことなんだけど! 本気で面倒見ろって言ってんの!?」

「カワイイだろ? しかもすごーくいい血統だそうだ」

「知らんし要らん! 元いた牧場に返してきて!」

「おー! これが反抗期ってヤツかー!」


 父親は、娘の反抗を肴にゲラゲラ笑ってグビグビ飲んでいた。

 みくる叔母さんから聞いていた「アニキのいつもの手」だ。都合の悪いことは酒のチカラできれいさっぱりなかったことにするらしい。


「いや聞けよ! だいたいエサ代は——!」

「よーし! 最高級黒毛和牛A5ランクだ! 食べたいヤツは声上げろーッ!」

「「「「「オオオオーッ!!!」」」」」

「いや聞けってば!?」


 従業員たち若手農家の食欲の前には、中学生女子の文句なんて風前の灯火だ。

 その後何度となく抗議しても立ちはだかる酒池肉林には勝てず、結局みんな仲良く夢の世界へ旅立ってしまったのだった。


「このクソ親父……」


 幸せそうにイビキをかく父親を蹴り飛ばして外に出た。

 春先の北海道は、日の落ちた夜ともなれば真冬並みに冷え込む。温まった体を芯まで凍らせるのは北海道の洗礼だ。

 事務所から自宅への渡り廊下、たった数十歩の距離を歩くだけで風邪をひきそうになる。小走りで廊下を渡っていたところで、志穂は足を止めた。

 聞こえたからだ。


『寒いー! おなかすいたーッ! この際バナナじゃなくてもいいからーッ!』

「あいつ、もしかしてあの小屋で過ごすの? この寒さを……?」


 新しい家族だといいながら、クリスに充てがわれたのはオーシャンビューならぬ草原ビューの見晴らしがいい馬小屋だ。いくらサラブレッドの故郷が北海道といったって、厳しい冷え込みはこたえるはずだ。実際寒いと言っている。


「だからこれは幻聴で……。ああ、もう……」


 悩んだが、志穂の足は自宅へ向いた。

 玄関戸を開けるなり向かったのは風呂場、そして押し入れだ。洗面器にお湯を貯めたところで、そこから父親の布団だけを引きずり出す。


「わざわざこんなことするなんて、やっぱ私イカれてるって……」


 もし馬の言葉がわからなかったら絶対こんな行動は取らなかっただろう。聞こえるから困るのだ。手間が増えるし、放っておけない。

 玄関先の猫車に布団と洗面器、ついでに冷蔵庫に入っていたリンゴを入れて、志穂は小屋へ突っ走った。


 *


『ねえ、とっても寒いの……それになんだか眠くって……』

「雪山みたいなこと言わないで! ほら!」


 草原ビューの馬房に着くなり、志穂は父の布団をクリスの背中に放り投げた。ちょうど晴れた日のベランダに布団を干すような感じだが、馬は想像以上に大きかった。一枚じゃ足りない。


「まだ布はあるから! この洗面器の中身、飲んでて!」

『これは〜?』

「お湯!」


 もうもうと立ち登る洗面器をクリスの足元に置き、志穂は自宅に取って返す。

 布団はもう見当たらないのでとりあえず布だ。目についた布ならなんでもいいと父親の部屋のカーテンをひっぺがす。クソ親父にプライバシーなんて贅沢だ。

 そして馬房へとって返し、布団からはみ出た首元までを覆ってやる。人間でいうところのポンチョでも着たような格好にしてやると、クリスは湯気を立てながら首を左右に振った。


『ふかふかであったかいわあ〜!』

「そりゃ……」


 「よかった」と普通に会話をしかけて、今度は志穂は頭を左右に振った。


「アンタが寒そうだから持ってきてあげただけ。喋れてるワケじゃないから」

『いいからこっちへいらっしゃいな。あなたも寒いでしょう?』

「いや、私は——」


 のそり、とクリスの巨体が膝から折り畳まれた。馬房に敷かれた寝藁に腹をつけて寝そべると、両耳だけちょこちょこと動かしている。まるで手招きでもするようだ。


『寄り添った方があったかいわよ』

「デカいし危ないって! 寝返りうったら私死ぬじゃん!」

『大丈夫よお、寝そうになったら言うしい。あなた喋れるから平気でしょう?』

「しまった、また会話してるし!?」

『ほら、おいで』


 犬や猫ならともかく、相手はその何十倍もある馬だ。寝返りひとつで圧死しかねない。それでも——人間みたいに騒ぎはするが——クリスはどうやら大人しい馬だ。それに信じられないが、いちおうコミュニケーションは取れている。

 クリスの長い首が、ゆっくりと下げられた。志穂の眼前に、ぷにぷにした鼻がやってくる。白んだ鼻息が浴びせかけられる。臭気で一瞬、意識が飛びかけるも不快ではなかった。

 むしろ不思議と——


『ねえ、鼻撫でてくれないのお? 人間の愛情表現でしょう?』


 ——つんつんと鼻先を近づけてくる、鼻や唇をぷるぷるさせて待っている。

 クリスのみせる仕草のひとつひとつが妙に——


「さ、触ってって言うなら触ってもいいけど……」

『変なこと言わずに、ほらほらあ』


 おずおずと手を鼻先に押し当てた。

 ふにふにとした温かさと、髭の硬さ。ゆっくりと手を下げていけば下唇へ。そこはいつまでも触っていられそうなほどのたぷたぷとした柔らかさ。

 ——危ない。癖になりそうになる。


『んふー! もっといいわよお?』

「ちょ待って、暴れんなって——ぎゃっ!?」


 こらえきれないとばかりにクリスは顔を擦り寄せてきた。口ぶりからして「ご機嫌なおふざけ」だとは志穂にもわかったが、五百キロ近い馬体だとおふざけじゃ済まない。

 案の定、志穂はバランスを崩して腰から落ちた。痛む腰をさすっていると、クリスが長い首を伸ばして心配するように覗き込んでくる。馬の表情まで心配そうに見えてくるから不思議だ。


『あなたはそんなに強くないのねえ? 人間はみんな強いかと思ってたわあ』

「当たり前でしょ、まだ子どもなんだからさ……」

『子ども……』


 途端、クリスは思い出したようにいなないた。いわゆる「ヒヒーン」なんて鳴き声は何を言っているのかわからない。

 それでも、ただごとではないことは伝わった。


「どしたん? 何かあった?」

『どこへ行ったの? 私の子ども……!』


 それまで穏やかだったのに、クリスは子どものこととなると急変した。

 志穂を馬房の外へ押しのけて、狭い馬房の中をくるくる回り始める。見るからに不安を抱え、落ち着かないといった様子だ。


「そう言えばアンタ、ママだって言ってたっけ……」


 クソ親父いわく、クリスは繁殖牝馬。つまり競走馬のママだ。それ以上は聞いていないが、もしかしたら既に子どもがいるのかもしれない。

 くるくる回っていたクリスは、今度は志穂の鳩尾あたりをぐいぐい鼻先で押してくる。


『ねえ、話ができる人間さん。お願いがあるの!』

「どうせ買い戻せって話でしょ? 無理だって! 仔馬なんて自動車より高いんだよ?」

『違うの! そのリンゴ! リンゴ食べたい!』


 クリスが押していたのはパーカーのポケットに突っ込んだリンゴだった。

 子どもの話じゃないのかよ!

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