第4話 馬事文化研究会とは

 洞爺温泉牧場は洞爺湖のほとり、有珠山由来のミネラル豊富な牧草地にある。

 主にサラブレッドの繁殖を扱う生産牧場で、牝馬は五十頭あまり。繁忙期はやはり出産シーズンを迎えた春先だ。

 馬の妊娠期間はおよそ11ヶ月。初夏の種付けが成功すれば、雪解けの頃には未来ある仔馬が産まれてくる。

 ただし、そう単純でないのが命を扱う仕事の宿命だ。

 受胎しなければ仔馬は生まれないし、妊娠しても気は抜けない。馬は不調を伝えられないから、わずかなサインすら見落とし厳禁だ。ゆえにお産が近づくと、スタッフ総出で寝ずの番をすることになる。


「おはようございます。そろそろ交代の時間ですよ」

「ああ、おはよう晴翔はると君。さすがは未来の牧場長だねえ」

「家業ですから、このくらいは当然ですよ」


 家業を継ぐのは当たり前のこと。そう何の悪気なくあくび混じりに言うベテラン厩務員を前にして、北野晴翔の心はずきりと痛んだ。


 四月。

 年度が変わり中学三年生になった晴翔は、受験を控えた勝負の一年を迎える。志望校の倍率はおよそ三十倍。環境的には恵まれているが、他の受験生に大きく溝を開けられていることがふたつある。


 厩舎でいくつか手伝いをした後、晴翔が向かったのは観光客向けの乗馬厩舎だ。ここでも朝の仕事を手伝っていると、古株のスタッフが頭をくしゃくしゃと撫でてくる。


「おっ、晴翔。また背伸びたねー?」

「あんま触らないでくださいよ。それより、今日もいいですか?」

「ああ、この子たちも晴翔に乗ってもらえると嬉しいみたいだから」


 苦笑いを返しながらも、本心では笑えなかった。

 それでもプロテクターをきつくしめ、ヘルメットで頭を押さえつける。馬房に入って馬をあやし、馬具を取り付け、外までエスコートしてから背に駆け上がった。


「……うん。今朝もよろしくな」


 午前四時、まだ白む気配もない東を向いて、広大な放牧地を走らせる。ゆっくりとした常歩なみあしで体を温めて、速歩はやあしを経ずに駈歩かけあしへ。

 そして充分遠くまで来たところで、晴翔は馬を止めた。隠し持っていた鐙を鞍に取り付けるためだ。乗馬姿はそれまでの優雅なものから一転、荒々しく馬の背にまたがる小猿モンキーになる。

 最初からこう乗らないのには理由があった。

 こんな乗り方を牧場の人間に知られるワケにはいかない。悟られるワケにはいかないからだ。

 ——特に、晴翔が牧場を継ぐと信じてやまない父親には。


 午前五時。東の空が白んできたのを合図に、晴翔は練習を終わらせた。

 これから乗馬経験を積めるだけ積む。十四歳で男性の平均身長を超えてしまう、体格を補うための技術が必要になるからだ。


「なあ、俺は騎手になれると思うか?」


 背の上から、首筋を撫でながら尋ねてみるも、当然、馬の返事はない。

 もし馬と話が通じるなら、直接乗られ心地を聞くことができるのに。大きくなる体格や、親の反対を押し切れるほどの騎乗技術があるかを聞けるのに。


「まあ、居ないよな。馬と話せるようなヤツ」


 いつものバカバカしい空想を静かに笑って、北野晴翔は緩めた手綱を引き絞った。  


 *


「東京から来ました。加賀屋志穂です。よろしくお願いします」


 体育館に集まった全校生徒の前で、志穂は頭を下げた。全校生徒と言っても三学年合わせて総勢四十名。限界集落まっしぐらな洞爺の町の未来を思うと涙が出てくる。

 そもそもどうしてこんなお先真っ暗な場所に越してきたんだっけ。

 当初の目的もすっかり忘れて、志穂は早くも北海道生活を後悔し始めていたのだった。


「加賀屋さん。いろいろ初めましてなトコ悪いんだけど、部活選んでくれる?」


 放課後。職員室に呼び出された志穂は、今日もスルメを炙っている古谷ふるたに先生の指示にがっくりと項垂れた。


「部活って強制ですか?」

「自由意志と言う名の半強制。何がいい?」

「スルメ炙り部がいいです」

「それ以外で。一年に混ざって新人ヅラするのしんどい気持ちは分かるけどね」


 気持ちが分かるなら特例を認めてほしいが、そうもいかないのだろう。

 古谷先生はスルメをくわえて、地層のように積み重なった書類の山からプリントを引きずり出す。生徒会に認可されている部活動の一覧を記載したものだ。

 軟式野球、サッカー、吹奏楽など、どう考えても定員割れしていそうな部活の中に、妙な部活——いや、研究会を見とめて志穂は言う。


「この《馬事文化研究会》ってのはなんですか?」


 瞬間、古谷先生の目の色が変わった。

 それを瞬時に察知した志穂は、その下に記載されたパソコン部を指さそうとし——


「やっぱいいです——」

「大歓迎、部室行こっか! 私が顧問だからね!」


 ——捕まってしまった。

 よくよく書類を見ると、馬事文化研究会だけちょっとだけ目立つフォントで印刷されている気がする。つまりこれはワナだ、ハメられた!


「先生、私パソコン部に行きます! 行かせてください!」

「まあまあ見学だけでもしてってよ! 血湧き肉躍るよ! 大興奮だよ!」

「もう何する部活なのか想像できるんですけど!? 馬事文化って競馬——」

「はーい、入部希望者にはスルメをプレゼント!」

「んむーッ!?」


 口はスルメで封じられ首根っこを掴まれて、志穂が連れてこられたのは馬事文化研究会の部室——もとい生徒会室だった。遠慮のカケラも持ち合わせていない古谷先生がドアを開ける。


「北野くん、藤峰さん! 新人を連れてきたよ!」

「だから私はパソコン部に入るって——」


 生徒会室には、二名。ひとりは窓の外を眺めていた細身の男子生徒。

 もうひとりは、生徒会室には似つかわしくないメガネの私服女子だ。

 志穂が断りを入れるのも許さず、メガネの私服女子——藤峰が飛びついてきた。


「ジーニアス! これで馬事研ばじけんのサイアーライン繋がったよ先生!」

「教員たるもの研究の場は守らないとね」


 人間関係がまるでわからないが、古谷先生と藤峰は手を繋ぎ合って飛び跳ねている。よほど新入部員が嬉しいらしいが、志穂は逃げる気マンマンだ。スキをつこうと様子を伺っていると、細身の男子生徒——北野が呆れながら呟く。


父系サイアーじゃないでしょう。加賀屋さんは女性ですよ……」

「いいんだよ細かいことは! ハルトもあたしから継いだでしょ、馬事研の精神を!」

「あの、もう帰っていいですか?」


 後ずさりした志穂を逃さないのが、古谷先生だった。無言の笑顔で入部届をチラつかせている。入部しない限り帰さない気だ。半強制にも程がある。


「ともあれ、来ていただいた人を無碍に帰すこともできません」


 細身の男子生徒——北野は小さく会釈して、手を差し伸べる。


「生徒会長で、馬事研会長の北野晴翔です。よろしく、加賀屋志穂さん」


 差し出した手を握ったのは、明らかに無関係なメガネの藤峰だった。調子を狂わされた北野がため息をつき、その様子に藤峰がケラケラ笑っている。

 馬事研が何を研究する会かはまだわからないが、パワーバランスだけは志穂にもなんとなくわかったのだった。

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