最終話
三位中将様は慌てて立ち去って行った。
彼の去った先に目をやりながら、大納言様が呟いた。
「これで摂関家も終わりかも知れぬな」
「え? 終わりですか?」
「皇太后様は左府の嫡男だろうが許されないであろう。おそらく彼は遠国へ左遷される事になる」
「三位中将様はそうでも、中宮様も東宮妃も左大臣様の姫君ですよね? 一家には影響ないのでは?」
「今はそうだが、左大臣は老齢で体調を崩しがちだ。そう何年ももたないのではと言われているのだよ。嫡男が不在となると后たちは後ろ盾を失うということだ。その時になれば右大臣やら参議からが娘を入内させ、一気に政権を奪うだろうね」
絢子以外に娘を持たない大納言様はもうそこに参加できない。
少し胸が痛んだが、謝るのも違う気がして何も言えなかった。
僕自身が真面目に務めを果たし、認められること。
絢子を泣かせることは絶対しないこと。
それらを自分の胸に誓い、果たしていくしかない。
「おや、そこにいるのは絢子か?」
えっと振り返ると、建物の前にそびえ立つ木の後ろに人影があった。
しかし、それは狩衣に指貫といった男姿で、手には弓矢が握られている。
でも絢子だって?
――近寄って行き、顔をよく見ると確かに絢子だった。
「な、何してるの?」
驚いて声が上擦ってしまう。
絢子はふっと目を細めて微笑んだ。
「泰成様に加勢しようと思って。弓矢はあなたよりも上手かったの覚えてるでしょう?」
「九歳か十歳の頃の話じゃないか――」
僕はため息をついた。
たおやかで美しく成長した今の姿に惑わされて忘れていたが、絢子は元々お転婆な姫君だった。
絢子は一歩前に出て表情を引き締めて弓を引き、庭の池に向かって矢を放つ。
矢は池の中心近くに建てられた的のど真ん中に命中する。
う、上手い。
これは今も時々練習しているに違いない。
「どう?」
「お、お見事。すまない、僕の認識が間違ってたようだね。いつからそこに隠れていたの?」
「刀の音が響くのを聞いた辺りから」
という事は、最初の方から聞いていたのか。
いつ着替える時間があったのだろう。
「はっはっは! 泰成君、君はこんな姫らしくない娘でも本当にいいのかい? 今ならまだ引き返せるぞ」
大納言様が絢子から弓をとり上げて揶揄うように笑い、階を上り去って行った。
「もう嫌だわ、お父様ったら」
絢子は頬を膨らませる。
「あ……泰成様は、嫌になった?」
心配になったのか、眉尻を下げて僕を見る。
長い髪を束ねているだけだからか、男の装束を身に付けていても可愛く見える。
僕はふっと笑ってその体を抱き寄せた。
甘い香りがふわっと漂う。
「君こそ、彼の姿を見て何とも感じなかった?」
「彼? 三位中将様のこと?」
「うん。君は昨日までは彼と結婚するつもりだったことだし……」
「だから、あの修羅場をどう乗り切ればよいのかハラハラしたわよ」
「そういうことじゃなくて――彼の容姿についてだけど」
「容姿? ああ、細くて女性のようなお顔してたわよね?」
「それだけ? みんな彼をひと目見ただけで虜になるそうだけど……」
「……私を馬鹿にしてらっしゃるの?」
「え?」
「先程の話を私もここで聞いていたのよ。従姉妹のお姉様をはじめ、たくさんの女性を傷つけた男よ。虜になるわけないじゃない」
「そ、そうだよね。ごめん……いたたっ」
絢子は手を伸ばしてきて、僕の両頬をつねって引っ張った。
「馬鹿ね、泰成様は。自分の事を分かってないのね」
「自分の事?」
絢子はつねっていた手を緩め、今度はそっと頬に掌を沿わせ、僕の目を見つめる。
「あなたの方がよっぽど凛々しくて素敵なのに」
そう言って、僕の顔を寄せ唇を合わせる。
「絢子……」
「部屋に……戻りましょう……」
その後、二日目、三日目と共に夜を過ごし、僕と絢子は晴れて夫婦となった。
***
「また今日もいらしたのですか?」
兵衛が僕の顔を見るなり、うんざりしたような顔をする。
「またって、夫が妻の所に通って何が駄目なの?」
「だって今日で七日目ですよ。いくら何でも姫様も疲れてしまいますよ」
「こ、こほん。絢子がそう言っていたのか?」
「姫様は何もおっしゃいませんが、分かります!」
「そう。案内が面倒なら結構だよ」
僕は兵衛を置き、一人で足速に絢子の部屋に向かう。
かすかに聴こえていた琴の音が、だんだんと近くなる。
奏でているのは絢子のようだ。
僕の姿を見つけ、音が止む。
「またいらしたの?」
絢子まで兵衛と同じようなことを言う。
僕はさすがにへこんできた。
「しつこい夫だと嫌になってきた?」
絢子は両肩を少しあげ、
「まさか」
と微笑む。
「ただ、ちゃんとお務めに行っているのか心配になって」
「ああ、それは大丈夫だよ。君に夢中だからと言って、やるべきことをサボる男じゃないよ」
「あら、言うようになったのね」
「サボる男じゃないって?」
「ふふふ。違うわ。私に夢中だってこと」
「あ……まあ、そうだね。琴の練習をしていたの?」
「ええ、今度お父様主催の宴で弾かなくてはいけないの。そうだ、泰成様。琵琶を合わせてみてくださらない?」
「琵琶? あまり得意ではないけど、いいよ」
奥に立てかけてある琵琶を手にし、バチで叩くように弦を弾いてみる。
低音が鳴り響いた。
「泰成様の琵琶、力強くて私好きなのよ。では最初から」
絢子がしなやかな動作で演奏を再開する。
僕はその音に合わせて音を入れていく。
音と音が合わさり、ひとつになる。
ああ、何だか、二人、こうやって過ごすのもいいな――
まだ空はうっすらと赤く、ほの明るい秋の夕暮れ時のこと。
――完――
満月の夜に 〜夜這乃章〜 斎藤三七子 @mami9721974
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