第5話


 そうだった。

 元々今日は三位中将様と絢子の婚姻の日だった。

 しかし、大納言様が摂関家に断りの連絡を入れておくとおっしゃってくださったはずだが。


 考える間もなく、庭の方から高らかな声が響いた。

「右近少将泰成、表に出よ!」


 怯える兵衛を絢子のいる御簾の中に入れ、僕は庭に下りる。

 そこには三位中将様が一人、抜刀した状態で立っていた。

 月明かりを背に受けて後光が差す。

 憎たらしい程の美しいその容姿に怯みそうになる。

 傍目で見れば彼が姫君を助けに来た王子で、僕が悪者に映るのかも知れない。


「右近少将! この私の婚約者を奪うとは、覚悟ができているようだな」

 そう言いながら近付き、刀を振り下ろしてきた。

 僕は慌てて腰に下げた刀の鞘をつかんで受け止める。

 これは頭を下げて許しを請うべきか?

 一瞬、そう思ったが、明石の腕を思い出し気を改めた。

 そうだ。こいつはあんな事をする奴だ!

 僕は目の前に迫る彼の目を見据える。

「覚悟とは何の事でしょう。僕とあや……芙蓉の君は元々相愛だった、ただそれだけの話なのです」

 そして鞘で三位中将様の刀を振り払う。

 再度下りてくる刀に、今度は僕も刀を抜いて刃で止めた。

 金属音が周囲に響く。

「それはおかしな話だ。私の求愛の和歌に対して、芙蓉の君本人から直筆で返歌がきたので婚約という流れになっていたのだ。親同士で勝手に進めた話ではない。それに、お前は誰とも結婚せず仏門に入りたいと私に話したではないか」

「それは――あなたがお相手ならといったんは諦めたので」

「何故そのまま諦めない。大納言様の後ろ盾が欲しくなったか?」

「後ろ盾? 考えた事もありません。あなたこそ、たくさん恋人がいるのでしょう? ここまで芙蓉の君に執着するのは何故です?」

「政治的理由に決まっているであろう」

 彼はぞっとするような、低く冷たい声で言い切った。

「政治? 権力の頂点に君臨する親を持つあなたがこれ以上一体どうして?」

「芙蓉の君が二十歳になるまで、結婚の話がなかったのは何故だか知っているか?」

「入内の話があったと聞いたことがありますが……」

 二年前、絢子の兄君達が彼女を東宮后にしたがっていると聞いたことがあった。

 しかし東宮様はまだ御年八歳と幼少なので、元服を待ってという話だったが――

「その通り、芙蓉の君は東宮様の后がねだった。しかし、昨年、東宮様の御元服後、間髪入れずに即、摂政左大臣が私の妹を入内させた」

「知っています。芙蓉の君が東宮后になることで、今の摂関家から大納言家へ権勢が移るのを阻止するため、ですね?」

 しかし、后妃は一人だけとは限らない。

「まさか、今後も入内できないようにするために結婚するつもりだったと? 芙蓉の君を愛したわけではなかったのですか?」

「愛」

 三位中将様は眉をよせる。

「愛とは何だ?」

「え? 恋多きあなたがそれを聞くのですか?」

「自分から欲した事は一度もない。いつも女の方が声をかけてくる。私はそれに応じてきただけだ。芙蓉の君を除いては」

「つまり、誰も愛したことがないと?」

 よくそれで多くの愛にまつわる和歌を詠めたものだ。

「青くさい事を言うな。さあ、いつまでこうしているつもりだ。お前は摂関家嫡男の婚約者を横取りしたのだぞ。男らしく勝負をせよ!」

 合わせていた刃を振り払い、互いに一歩ずつ下がる。

 今度こそ本気で挑むかのように構えて向き合った。

 お互い近衛の武官だ。

 しかし、三位中将様は父親の引き立てで就いた地位。

 僕は父親のない身だが実力で少将まで上がったのだ。

 和歌では負けても武力では負ける気がしない――


 その時、パンパンと手を叩く音が鳴り響いた。

「そこまでだ」

 振り返ると、大納言様が簀子縁に立ち、こちらを見下ろしていた。


「だ、大納言様!」

 僕は慌てて刀を鞘にしまい、頭を下げる。

 横目で三位中将もゆっくりと刀を下ろすのを確認した。

「大納言様。邸内で失礼なのは承知。しかしこれは摂関家に逆らった男に対する制裁なのですよ」

「制裁?」

 大納言様が繰り返す。

「摂関家が嫡男の婚約者を直前に奪い去る。それを赦しては世が乱れると思われませんか?」

「なるほど。しかし、いくら摂関家の一員であろうと乱暴狼藉を働いて世を乱す男を皇太后様は赦されるかな?」

 皇太后様とは、今上帝の母后様のことだ。

 いくら摂政左大臣様であっても臣下の一人。

 国母には敵わない。

「乱暴狼藉とは失敬な。男同士が女を挟んで決着をつけるのは世の常でしょう。大体、娘の縁談が破談になり、入内すらも不可能な状態になってしまった原因だというのに、よくこの男を許せますね?」

「君は大きな誤解をしているようだ。入内は息子達が一家の反映を夢見て勝手に目論んでいただけだ。私自身は娘を后がねだと考えたことはない。意にそまぬ結婚を無理にさせるつもりなど、全くないのだよ。娘が土壇場になってこの右近少将と添いたいと訴えたのだから叶えてやるだけだ。ただ、娘も少将も決心するのに時間がかかり、君を巻き込んで期待させたのは悪かった。正式に謝罪を申し入れるつもりではいるが――乱暴狼藉の話は別だ」

 最後の部分は強い口調だった。

 そして大納言様はゆっくりときざはしを降りて三位中将様に近くまで寄る。

「内裏女房であった橘の宰相を知っているね」

 三位中将様の顔がさっと青ざめたのが分かった。

 橘の宰相? 確か、絢子の従姉妹の姫君――大納言様の妹君の一人娘だ。

「昨年の末から体調を崩し、実家に帰っている。当初、医師に診てもらった時には身体中痣だらけだったそうだ」

 身体中に痣――中納言様の女房の明石と同じ……。

 つまり、橘の宰相もこの男の犠牲者だったということか?

「妹が娘に聞いても、心身喪失状態で何も語ってくれなかったようだ。そこで私が中納言に依頼して秘密裏に調べさせていた。驚いた事に、橘の宰相と同じ目に逢った姫君がたくさん京中にいる事ご判明した。両手の指では足りない位に。彼女たちは皆、その相手の名を口にしなかったようだが、各お付きの女房、女童、雑色、牛飼童などに聞き込み、やっと一人の男の名が浮上したのだ。

中納言からのその調査結果が今朝方私のところに届いた。そして私は皇太后様に報告しに東二条殿まで赴いた。

――三位少将藤原伊長ふじはらのこれなが殿。

今頃は検非違使があなたの邸を捜索していることだろう」

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