神曲

神重 御子徒

第一部

献詩


違う!あの言葉ではない!

もっと歓喜に満ち溢れ!美しい言葉を紡ぎあげようではないか!


さぁ!開幕だ!開演だ!言葉達の演奏が!言葉達の演劇が!芸術の分からぬ輩は永久にコキュートスにあるルシファーの牙で嚙み砕かれるが良い!

 神曲

  mein Freund

 (墓標の前で佇む少女があった)

 (その名を安部 シオンと言った。彼女の心の中には豪雨が降り、雷鳴も途切れる事無く鳴り響いていた)

 (しかし、現実の天は雲一つもなく快晴だった。そして、彼女は、ぼそりとこう呟くのだった)


「我が友よ」


 校長

「シオン君。君宛てに、とある屋敷での演奏の仕事が来ているんだ」

 校長室の壁には、明治時代から現代にいたるまでの歴代の校長の肖像画が掛けられていた。今、私が話している校長の肖像画は、慣習によってまだ掛けられていない。肖像画が掛けられるのは、校長の席を退任した後らしい。

 私

「はぁ…?」

 その時の私は、言語化が出来ない複雑な心境をしていた。

 校長

「シオン君。自身では気が付いていないだろうが、君には世界でも、否、歴史にも通用するほどの才能が君にある」

 丁度この時、太陽が雲に隠れてしまったため、校長室の内部が暗くなってしまった。しかし、校長先生の鋭く貫く弾丸のような視線は、ずっと私を見据えていた。

 私は、校長先生から目線を外すために差し出された封筒の封を切った。封筒の中には100万円の小切手が入っていたが、私はそれを無視して招待状の方を見た。そして、差出人の名前を見て驚いてしまった。

「ビスマルク…」

校長

「そうだ、鉄血宰相の子孫だ。縁あって、第一次世界大戦後に来日したらしい。その招待状ではドイツ名を使っているが、本人は日独ハーフだ」

「元とは言え、なぜその様な大貴族が私なんかに…」

 相も変わらず、じっと校長先生は私を見据えている。その眼差しには情熱の炎が火山の噴火の様に燃え盛っていた。

 校長

「受けるのかね?受けないのかね?」

 私は返事に困ったので頭を掻いて考える。

(受けるか…受けないか…)そう考えている内に答えが出た。私は招待状を校長先生の机のもとの位置に戻した。

 私

「私には荷が重すぎますので、辞退させて頂きます」

校長

「本当にそれでいいのかね?」

「仰っている言葉の意味が分かりません…」

校長

「本当に君は、自分自身の心の声を聴いたのかね?君が聞いたのは、心の声かね?それとも、他者の声かね?」

 校長先生のこの言葉が何故かは分からないが、私の心臓に突き刺さった。

 私

「分かりました…しかし、考えさせてください…」

 招待状をポケットに滑り込ませた。それから、校長先生に恭しくお辞儀をしてから、校長室から出ていった。

 寄宿舎に帰っている時、ふと空を見上げた。空は美しい夕焼け色に染まっていて、雲が一つもなく快晴だった。だが、太陽はもうしばらく時間が経つと、西の地平線に消えてしまう。私はここで大きな溜息をした。

 そうやって黄昏ていると、寄宿舎の玄関先に着いていた。思案に夢中になっていたので、危うく通り過ぎる所だった。

 明治時代に建築された宿舎は歴史を感じる木造建築で、当時著名だった英国人の建築家が建てたそうだ。英国情緒が漂う建造物で、室内は意外に広く、1LDKもある。

 私は、玄関にある傘立てに傘を立て掛けた。今朝の登校時には雨が降っていたが、いつの間にか止んでいた。私の部屋は三階にあって、遠くの方にある富士山を一望出来る。そうだ、富士山と言えば、夏休みの期間、山梨方面の富士山の麓にある分校に、選ばれた音楽科の生徒は合宿するんだった。

 自分の部屋の鍵を開け、部屋の中に入り、ベットの上に学生鞄を放り投げ、制服と靴下を脱ぎ捨てる。自分の部屋が唯一、だらしなくても怒られない場所だ、上流階級出身の生徒は普段からお上品な生活を送っているのだろうが、中流階級出身の私には無理な相談だ。

「夕食まであと一時間あるし…寝よ…」

 私の朝は早い、まだほの暗い朝の6時に起きて、朝の散歩をする。朝の新鮮な空気を吸い、陽光を浴びなければ、どんな人間でも気が狂ってしまう。最近の若者は昼夜が逆転した生活を送っていて、しばしば社会問題としマスコミに取り上げられているが、私には昼夜逆転などとうてい考えられない。

 朝の空気と陽光を存分に楽しんだら。宿舎に戻り、朝食を食べる。宿舎に寝泊まりしている生徒は、朝の6時30分までには起きて朝の点呼の現場にいなければならない。もし、朝の点呼にいなかったら、問答無用で成績を下げられる。

 席に着いて暫く待っていると給仕が料理を運んで来てくれる。寄宿舎に来た当初はこのシステムに多少の感動と、多量の罪悪感を覚えたが、最早慣れてしまった。と、その時。

 黒部 深雪

「シオン…おはよぉ…」

 親友の深雪だ。彼女は、この学校の中で私を普通に扱ってくれる友人の一人だ。他にも、二人ほど友人がいるが、二人とも、親の勧めで海外留学に行ってしまった。海外留学は物凄くお金がかかるので、私はこの学校を卒業して奨学金を借りるまではお預けだ。奨学金なんて、海外でプロデビューすればすぐにでも払えるだろう。

 私

「おはよう」

 深雪は大きな欠伸をしてから、食堂の椅子を引いて座る。座った後も、深雪はうつらうつらしていた。

 深雪

「そうだ、シオンがザルツブルグ音楽祭で演奏していた夢を見たよ…」

 にへぇ~と笑いながら深雪が言った。

 私

「正夢になると良いね」

深雪

「シオンなら必ず実現できるよ…」

「ふふ…」

 私は朝食が来るまで、昨日校長先生に貰った招待状の事を考えていた。深雪は相も変わらずうつらうつらとしていた。枕を渡したらもう一度寝てしまいそうだ。

 私

「長門先生に相談するか…」

深雪

「なにが…?」

「ううん。何でもない」

深雪

「ふぇ…」

 そう言ってから、深雪は寝息を立てて眠ってしまった。

 毎週金曜日の放課後には、公開レッスンがあり、生徒の保護者等の色々な人が音楽堂にやって来る。そして、私は今日、初めて公開レッスンで演奏する。

 私

「緊張する………」

深雪

「シオンはいつも通りに演奏すれば良いんだよ」

「うん………」

 いよいよ、私が演奏する番が回って来た、今演奏している上級生が終われば、遂に、私の番だ。

 私

「どうしよう…何を演奏しよう…」

深雪

「まだ考えてなかったの!?」

「だって…」

 上級生の演奏が終わり、音楽堂には割れんばかりの拍手が巻き起こる。上級生が丁寧に恭しくお辞儀をしてから、舞台裏にやって来る。長門先生が上級生の演奏を批評してから、私の名前が呼ばれた。

 深雪

「行ってらっしゃい!」

 深雪が軽く私の背中を押す。いきなり背中を押されたので転びそうになったが、何とかバランス感覚を取り戻して、拍手が鳴り響くなか虚勢で胸を張りながらピアノに歩いてゆく。

 私はピアノの椅子を引き、座る。楽譜本の頁を捲ってから、ピアノの鍵盤に指を掛ける。そして、弾く。

 私

(駄目…こんな演奏じゃ…音色が固すぎる…緊張が演奏にも表れてる…)

 私は、ラ カンパネラを弾いたが、いつも通りの音色が出ない。こんなの中東の蛇がのた打ち回る音を聞いているのと一緒だ…

 演奏が終わり、ほっと安堵の息を一息ついて、椅子から立ち上がり聴衆にお辞儀をする。聴衆からは何故かは分からないが、上級生の演奏が終わった時よりも音量が大きい拍手が巻き起こる。そして、私は舞台裏に戻った。

 深雪

「今日の演奏も良かったよ!」

「う…うん…」

深雪

「どうしたの?そんな浮かない顔をして?ラ カンパネラを大勢の人の前で、しかもミスをしないで弾けるなんて、普通の人には出来ないのに?」

 深雪が心底不思議そうな顔をして聞いてくる。

 私

「いや…ラ カンパネラをミスしないで弾けくのは、私にとっては当たり前だからさ…だけど…」

深雪

「だけど…?」

「音色が固かった…」

深雪

「音色…?」

「そう…音色…」

 その時、舞台に上り、長門先生が公開レッスン終了の告知をしてから、私のいる舞台裏へと入って来た。

 長門 響

「どうした、今日の演奏はいつものお前らしくなかったぞ?」

深雪

「あ…先生…それじゃあ、私は失礼します…」

 深雪は私の事を心配そうに見てから、学生鞄を手に取って、舞台脇の階段を下りて音楽堂から退出していった。

 私

「申し訳ありません…緊張してしまって…」

長門先生

「そうか」

長門先生

「お前は、私やこの学校の生徒以外の人の前で演奏した事は無いのか?」

「塾の先生と、生徒たちの前でなら…」

 長門は大きな溜息をしてから、厳しい顔つきに瞬時に変化する。

 長門先生

「校長から話は聞いた」

「はい…」

長門先生

「せっかくのチャンスなのに、辞退しようとするとは何事だ!まさか、チャンスだとわからない程、愚鈍なお前じゃあるまい!」

「ですって…」

長門先生

「ですって?」

 私は一度視線を下に向けてから、長門先生の怒った顔を見上げる。般若の様な顔をしていた。

 私

「相手はお金持ちですよ…封筒に100万円の小切手をそのまま入れられるほどの…」

長門先生

「相手が金持ちだろうと、貧乏人だろうと、寄せられた期待に応えてやるのが、演奏家の義務だろう?」

「た…確かに…そうですけど…」

長門先生

「いいか?与えられた才能を生かすのも、殺すのも、お前しだいだ。だけど、私はお前にプロの演奏家になって欲しいと本気で願っている」

「先生…」

長門先生

「話はこれで終わりだ。早く寄宿舎に帰れ」

「はい…」

 私は、学生鞄を拾い上げて音楽堂から出て行く。音楽堂の出口で、校長と見知らぬ中学生くらいの少女が話し合っていた。そして、私に気が付いた校長が話しかけてきた。

 校長

「シオン君、丁度良い所に来てくれた。こちらの女性がビスマルク嬢だ」

 校長先生はそう言って、中学生くらいの品の良い少女を紹介してくれた。「この人が、あの鉄血宰相の子孫か…」と考えていると、ビスマルク嬢が挨拶をして来た。

 御令嬢

「お会いできて光栄ですわ」

「貴女が…」

御令嬢

「それでは、これにて私は失礼させていただきますわ。ご機嫌麗しゅう」

 御令嬢はお上品な挨拶(カーテシー)をしてから、去って行こうとした。が、その時、御令嬢が私の横に立って、一言だけこう言った。

 御令嬢

「今度は、もっと美しい音色を聞かせてくださいね」

 そして、行ってしまった。

 校長

「それで、決まったかね?」

「いえ…まだ…」

校長

「ビスマルク嬢は君の演奏を聴きたくて仕方がない。と、言っていたよ」

「はぁ…」

校長

「君の事をかなり高く評価していたし、場合によっては、君のパトロンになっても良いと言っていたよ」

「それは…有難い申し出でですね…」

校長

「そうだ、あの封筒の中に入っていた100万円はどうした?」

「まだ、引き受けるか決めかねているので、手を付けていません」

校長

「あれは、君へのプレゼントだから勝手に使って欲しいと言っていたよ」

 私は、驚きの声を漏らす。100万円をプレゼントだなんて、どんな大富豪なんだろうと想像しないわけにはいかなかった。

 私

「100万円をプレゼント…?」

校長

「そうだ。大事に使いたまえ」

「分かりました…」

 私は困惑しながらも、100万円を受け取る事になってしまった。

 校長

「それでは、私も失礼するよ」

「校長先生、さようなら」

 私は夢を見た。とてもとても不思議な夢だった。

 道化師

「ようこそお嬢様!」

「えっと…君は…?」

 私の前に、赤いチョッキと赤い長ズボンを着て、不気味なほど爪先が反り上がった赤い靴を履いている道化師が立っていた。

道化師

「まさか、お嬢様!?あっしをお忘れになられたんですか!?」

 道化師が世界の終わりを告知されたような表情で言った。

「申し訳ない…」

道化師

「確かに、お嬢様と最後にあったのは何年も前の事ですからねぇ…無理もないでしょう…」

 道化師は真っ赤な顎髭を触りながら言った。

 道化師

「忘れてしまった物は仕方が無い!あっしの自己紹介をしましょう!」

 と言って、道化師は懐から自身の身長の2倍はあるトランペットを取り出す。そして、喧しくトランペットを吹き鳴らしてから、それを道端に投げ捨てる。投げ捨てられたトランペットはどんどんと朽ちていき、最後に大きな木となった。

 道化師

「あっしの名前は「そこにあって、ここにない」と言います!今夜限り開園する「儚い国」の道化師です!さぁ!お嬢様!うんと楽しんでください!」

 そう言ってから、同じ格好をした道化師たちが何人も出て来て一斉に合唱をし始めた。

 道化師たち

「醜いは綺麗!綺麗は醜い!今夜限りの開園だ!明日になったら儚く消える!それが「儚い国」の夢なのさ!美女に美男子、醜い婆に禿げ爺!美しいクレオパトラに醜いスキュラ!怪物から聖獣までなんでもござれ!さぁ!ホイサ!ホイサ!ホイサッサッ!」

道化師たち

「あっしらの名前は「そこにはあって、ここにはない」え?変な名前だって?これが「儚い国」なのさ!さぁさぁ!細かい事は抜きにして楽しみましょう!なんたって明日には消えてしまうから!それが「儚い国」の儚い所以!」

 道化師たちは歌って踊り終わったら、みんなぞろぞろと何事も無かったかのように去ってしまった。

 最初の道化師

「さぁ!お嬢様!行きましょう!」

「うん!」

 何故かは分からないが、この時の私は「儚い国」に染まってしまっていたらしい。最初は困惑するばかりだったが、いつの間にか楽しくなっていた。私は道化師に手を引かれて「儚い国」と書かれた門を潜り抜けた。

 まず、門を潜り抜けると、犬たちが会議している不思議な出し物を見た。

 黒いスーツを着た白い犬

「今日の議題はドッグフードとキャットフードどっちが美味しいかについて。だワン」

白いスーツを着た黒い猫

「私はキャットフードの方が美味しいと思うにゃん!だって!キャットフードの方が栄養価が高いにゃん!」

黒いスーツを着た赤い犬

「そんなことはどうでも良いわん!国犬に芝の会をどう説明するワン!」

ヤジ

「そうだわん!そうだわん!」

道化師

「どうですかね?犬の議会は?」

「面白いよ!」

道化師

「そうですか!お嬢様に気に入ってもらえてなによりです!」

道化師

「どうでも良い事をまじめに議論して、挙句の果てには、今はするべきではない議論まで平気な顔をして出してくる。これほど滑稽な出し物はありませんよ!」

道化師

「さて、あとは乱闘が始まるだけなので、次の出し物に行きましょう!」

 次の出し物は、金持ち犬と貧乏犬という名前の悲劇だった。

 道化師

「この演目は人気でしてね、子供から大人まで大熱狂ですよ!」

 司会が舞台脇から出て来て一礼する。司会が演劇の開始を告知して、粗筋を説明し終えて演劇が始まる。

第一幕

      場所 町中

リッチ(金持ち犬) 登場

「今日も貧乏人共に恵みを与えて、愚かな民衆に良い印象を与えるかな!」

 リッチ、物乞いにお金を恵む。それを見て、周囲にいた犬がリッチを賞賛する。

デラシネ(貧乏犬) 登場

「今日も明日も明後日も金がない!万年一文無しだ!おや!あの犬は下衆のリッチ!物乞いたちに恵みを与えて善人ぶるつもりか!」

 リッチが拍手に答えて手を振る。

デラシネ

「何故拍手をする!奴は偽善者だ!何故それが見抜けないのだ!」

デラシネ リッチ 退場

第二幕

      場所 山

デラシネ 登場

 デラシネ

「おぉ!神よ!何故この世の中は、こんなにも不公平なのですか!下衆が賞賛され!正しき者が煙たがられる!愚か者が賢人とされ!賢人が愚か者とされる!」

デラシネ

「死よ!私を迎えに来てくれ!私は疲れてしまったのだ!お前がこの世で唯一私に優しくしてくれる!さぁ!お前が来こないのなら!私が行こう!」

 石に躓き、豪快に転ぶ

デラシネ

「おお…これは…」

 黄金を拾い、感謝の賛歌を叫びながら泣いて喜ぶ。

デラシネ 退場

第三幕

        場所 リッチの邸宅

 山師

「リッチさん!この投機は絶対に成功します!私が保証します!」

リッチ

「そうか!なら私の全財産を投機しよう!」

山師

「ありがとうございます!それでは、追って連絡いたします!」

リッチ

「頼むぞ!」

山師 逃げるように退場

リッチ 独白

「これで、儂ももっと大金持ちになれる!今日の晩飯は最高級フレンチだ!」

リッチ 退場

第四幕

          場所 町中

 デラシネ

「今日も貧乏人共に恵みを与えて、愚かな民衆に良い印象を与えるかな!」

 デラシネ、物乞いにお金を恵む。それを見て、周囲にいた人間がデラシネを賞賛する。

リッチ

「今日も明日も明後日も金がない!万年一文無しだ!おや!あの犬は下衆のデラシネ!物乞いたちに恵みを与えて善人ぶるつもりか!」

 デラシネが拍手に答えて手を振る。

リッチ

「何故拍手をする!奴は偽善者だ!何故それが見抜けないのだ!」

デラシネ リッチ 退場

 割れんばかりの拍手が巻き起こり、私も無意識の内に拍手をしていた。

 道化師

「お楽しみいただけたようで何よりです!」

道化師

「あの…お嬢様…大変心苦しいのですが…もう朝が近づいてまいりました…」

「もう終わっちゃうの…?」

 そう言われたとたんに、私は心の底から哀しみに染まった。

 道化師

「お嬢様!そう悲しまないでください!最後にとっておきが残っています!さぁ!会場に参りましょう!」

 私は道化師に手を引かれて、プラハ城の様な荘厳な城に導かれていった。

 私の目の前には深紅の城門が聳え立っていた。今までは遠くで見ていたので城の大きさは分からなかったが、近くで見ると高さ100m位はあると簡単に予想が付いた。

 考察している内に深紅の扉が自然法則に反して音も無く開き、私は城の内部に入っていった。ふと、私はいつの間にか道化師がいなくなっていた事に気が付いた。

 私

「道化師!」

 呼んでみたが返事がない。本当にいなくなってしまったみたいだ。

 少し心細くなっていると、道化師の聞きなれたあの声が聞こえた。

 道化師

「お嬢様!恐れる事はありません!さぁ!城の奥へと進むのです!」

 道化師の声の指示通りに、白の長い廊下を進む。暫くの間、騎士の甲冑や絵画が立てかけてある暗い廊下を進んだ。すると、気が付くといつの間にか、広大で悠久な黄金の世界に、私はいた。

 私は黄金の世界に圧倒されていると、遠くの方に雪の様なカトリック教会が立っていることに気が付いた。そして、私は急に、あの教会に行きたいと思った。

 教会の扉を叩き、教会の中に入る。すると、驚いた事に、私は雲の上に立ち、空には満天の星々が光り輝いていた。私は満天に広がるこの世で最も美しい芸術を鑑賞していると、ピアノの音が聞こえて来た。私は驚いて目の前を見ると、さっきまで無かったのにピアノが設置されていた。そして、ピアノを弾いていたのは、あのフランツ リストだった。

 リストが弾いている曲は、自身で作曲したハンガリー狂詩曲の第二番だった。うっとりとして音色を聞いていると、私はピアノの音色に混じったリストのか細いながらも荒々しいエネルギーを持った声を聴いた。

 リスト

「お嬢様!恐れる事はありません!あっしがいつまでも一緒にいます!」

 無窮の天井に配置された満天の星々が、筆舌に尽くしがたい程、美しく光り輝く。

 そして、夢から私は目覚めてしまった。

 私はとても古い洋館の扉を叩く。そして、数秒間、扉の前で待っていると、大きな扉が鈍い音を立てて開いた。

 メイド

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 メイドは恭しく日本式のお辞儀をした。

 メイド

「安部 シオンさまですね?」

「はい…」

 メイドが「どうぞお入りください」と言って、私を屋敷の中に招き入れた。

 メイド

「現在、お嬢様は自室にいらっしゃいますので、案内いたします」

 と言って、メイドが歩き始める。私はメイドの後に続く。彼女の歩く速さが尋常じゃないほど速いので、気を抜いて考え事をしようものならすぐに見失ってしまうだろう。

 廊下には肖像画や風景画、歴史画に宗教画まで、多種多様な絵画が掛けられていた。一々鑑賞する暇などないが、一度、これらのコレクションをゆっくりと見て見たいものだと思った。

 メイド

「こちらです」

メイド

「お嬢様。シオン様がお越しになられました」

御令嬢

「入って良いわ」

 扉の向こう側から、中学生とは思えない程の威厳とカリスマを放つ声が聞こえた。メイドが扉を開けて私が部屋に入る事を催促する。

 私

「失礼します」

 ビスマルク嬢は窓辺に立って、外の景色を眺めていた。メイドが一礼してから扉を閉めて、この部屋には私とビスマルク嬢以外に誰もいなくなった。

 御令嬢

「ふふふ…返事、遅かったじゃない?」

 ビスマルク嬢は、以前と違って私に対してため口で話しかけてきた。だが、私は分かっていた、この部屋に入った瞬間、否、初めて出会った時から主従関係は定まっていたのだ。無論、私が下僕である。何も、私が中流階級の子弟で、ビスマルク嬢が超上流階級の子弟だから、と言うのに留まらない。今の彼女の美しさには自ら従いたくなる魔力があった。それほど、ただ彼女は美しかった。

 私

「申し訳ありません」

御令嬢

「それじゃあ、なんの曲を聞かせてくれるのかしら?」

 ビスマルク嬢は目でピアノの位置を示した。私はピアノの椅子を引き、座った。この時、私はあの時に見た夢を思い出していた。

 私

「そうですね、ハンガリー狂詩曲の第二番でどうですか?」

御令嬢

「選曲は全部任せるわ」

 私はピアノの弦を一回だけ鳴らしてみる。すると、音楽堂のピアノの数倍は美しくて古い音が鳴る。私がこの音に少し驚く。

 御令嬢

「そのピアノは大正時代に作られてから、我が一族に代々継承されているの。学校のピアノの音とは深みが違うでしょ?」

 こう言われたので、ビスマルク嬢は人の心を読めるのではないかと疑った。

 あの夢で見たリストの様にピアノを弾き始める。不思議な事に、公開レッスンの時と違って、そこまで緊張しなかった。むしろ、母親の前でピアノを演奏するような懐かしい感覚が蘇って来る。

 ハンガリー狂詩曲を弾き終わる。

 御令嬢

「けほ!!!けほ!!!けほ!!!けほ!!!」

 すると、御令嬢が激しい咳をしたため、私は急いでビスマルク嬢の傍に駆け寄る。

 私

「御令嬢!大丈夫ですか!」

御令嬢

「えぇ…平気よ…それよりも、早く演奏を続けてちょうだい」

「止めといたほうが…」

 と、私が言うと、いよいよ恨めしそうな目で私を見てきたので、仕方なくピアノの前に座って演奏を続ける事にした。

 私

「月光」

 演奏し始めると、御令嬢は恍惚として演奏に聴き入っていた。もしかすると、御令嬢は何らかの病気で、音楽療法の為に私を雇ったのだろうか?

 月光を弾き終わる。すると、扉から執事風で白髪の生えた高齢の男性が部屋に入って来た。どうやら、紅茶を持って来たらしい。お盆の上にはティーカップが二つ載せられていた。

 御令嬢

「シオンもどうかしら?」

「良いんですか?」

御令嬢

「少し休みなさい」

 こうして、私は初めて貴族のティータイムに付き合う事になった。私は紅茶を嗜みながら、ビスマルク嬢と談話した。すると私とビスマルク嬢の間には共通点が多い事に気が付いた。そして、私たち二人が紅茶を飲み終えると、ビスマルク嬢が次の演奏を催促した。

 御令嬢

「次は何を聞かせてくれるのかしら?」

「それでは、最後にラ カンパネラを」

御令嬢

「前の時よりも美しい音色が聴ける事を期待しているわよ」

 演奏を始める。演奏していると、何故かは分からないが、急に母親が恋しくなってしまった。そういえば、この曲を弾けるようになって、初めて聞かせた人が母親だった事を思い出した。

 演奏を終える。すると、御令嬢はゆっくりと優雅に拍手をする。

 御令嬢

「素晴らしかったわ。次も美しい音色を聴かせてちょうだい」

「私の演奏で満足してくれたのでしたら幸いです」

 椅子から立ち上がり、ビスマルク嬢に一礼してから部屋の外に出た。メイドに玄関口まで案内してもらい、靴を履き、大きな扉から外に出る。

 空は黄昏色に染まっており、何だが哀しい気持ちになった。一日の終わりを表す言葉と、人間の盛衰を表す言葉を一緒にした、昔の日本人は、現代日本人以上に美的感覚に優れていたのだろう。

 屋敷から宿舎に帰る途中、手を繋いでニコニコ笑いながら歩いている母子を見つけた。その瞬間、私の心は情緒で満たされた。

 最初の訪問から一週間後の土曜日、契約に書いてある通り、また、屋敷を訪れた。契約の内容を要約すると、「毎週土曜日に演奏しに来る」また、「演奏時間は約一時間」という事になる。

 私は最初に訪問した時と全く変わらない調子で扉をノックする。そして、数十秒待っていると、黒い木の扉が軋みながら開き、中からメイドが出て来る。

メイド

「お入りください」

 メイドの言うとおりに、私は屋敷に入る。屋敷の中は相も変わらず手入れが行き届いており綺麗である。そこでふと、鹿鳴館もこの様な建物だったのだろうなと思った。

 メイドはいつも通りのとんでもない速歩で、私をビスマルク嬢の部屋へと案内した。本当にこの館は大きい、家なのに迷子になってしまいそうだ。

 メイド

「お嬢様はシオン様がいらっしゃるまで、お休みなられていましたので、寝間着姿での拝聴になります。ご無礼をお許しください」

「いえ…とんでもありません。私の方こそ、ドレスかスーツで来なくてはいけないのに、学校の制服で来ているのですから」

 この時、ドレスもいつか、買いに行かなくてはいけないなと考えていた。いつまでも、制服で訪問するわけにもいかない。

 メイドに促されるまま、私はビスマルク嬢の部屋に入った。ビスマルク嬢は中央に置かれている巨大なベッドに静かに座っていた。

御令嬢

「いらっしゃい」

 ビスマルク嬢はそう言って、私に初めて笑顔を見せる。その笑顔は、同性の私の心を強引に奪い去ってしまった。それだけではない、ネクリジェ姿の無防備な容姿や、寝起きだからか櫛で梳かれていないぼさぼさの髪の毛に何とも言えない美しさを覚えた。この屋敷に古典主義の大画家を連れて来て、今の姿のビスマルク嬢を写生させたら、ルノワールが書いた、あのイレーヌにも絶対に見劣りしない絵を描けるだろう。

 御令嬢

「今回はベッドから拝聴するわね。今回も期待しているわ」

 私は儀式の様に椅子を丁寧に引き、そこに座る。

 御令嬢

「そうね、今日はゆったりとした曲を聴きたい気分ね」

「それでは、エリーゼのために」

 この様な調子でいつものようにピアノを弾き終えた。ふと、私は窓を見ると、朝の天気予報の言ったとおりに激しい雨が降っているのに気が付いた。

 私

「雨か…」

御令嬢

「傘は持っているの?」

「いえ…降る前に宿舎に戻れると思ったので、持って来ていません…」

 そう言って、窓辺に立って雨の様子を見る。中々の豪雨で外に出るのは一苦労だろう。ビスマルク嬢もベットから降り、窓の傍に近寄って外の様子を見る。

 御令嬢

「ここから宿舎まで何分?」

「そうですね…大体20~30分の間くらいです」

御令嬢

「こんな大雨の中、20分も歩くなんて危険よ。雨が降り終わるまで、この屋敷にいなさい」

 私は少し驚いてビスマルク嬢の方を見る。

 御令嬢

「別に減る物でもないし。爺や、何時ごろに雨が止むの?」

執事

「残念ながら、今日中には止みません。それどころか、これから雨がますます強くなってきます」

 とても驚いた。いつの間にか、執事が私たち二人の背後に立っていたのである。扉が開いた音も無かったしどうやって入って来たのか不思議でしょうがない。

 御令嬢

「そう、ならシオン。今日は、この屋敷に泊まりなさい。爺や、ベッドの準備をしておいて」

執事

「御意」

「本当に良いのですか?これくらいの雨なら、帰れない事もありませんが…」

御令嬢

「黙っていなさい。もう決めた事よ」

 といって、ビスマルク嬢は私の事を睨む。

 私

(強引な人だな…)

 こうして私は、初めて貴族の大きな屋敷で寝泊まりする事になった。

 ビスマルク嬢の部屋を出たら、メイドが今晩寝泊まりする部屋に案内してくれた。部屋は、ビスマルク嬢の部屋の隣だった。しかも、寝間着の高級なネクリジェまで持って来てくれた。私は制服を脱ぎ高級なネクリジェを着てみたが、高級なだけあってシルクの肌触りが心地よく、普段着ている安っぽいパジャマよりも熟睡出来ること請け合いだ。

 メイドが、脱いだ私の制服も洗濯してくれたので、高級ホテルに泊まったような心地がした。普段は学校の方針で、家事は全部自分でしていたので、他者が家事をしてくれる幸せを今のうちに噛み締めておく。

 今晩寝泊まりする部屋は、流石に寄宿舎の自分の部屋よりも少し狭かったが、私の部屋とは違って、きちんと掃除がされていたので、こんなに綺麗な部屋に寝泊まりしたのは何カ月ぶりだろうかと思った。明日からしっかりと掃除をしようと心に誓う。少なくとも、心に誓うだけならいつでもできる。

 メイド

「何か御用がございましたら、そこのベルを鳴らしてください。すぐに参ります」

 メイドは丁寧にお辞儀をしてから部屋の扉をゆっくり閉めた。

 メイド

「申し訳ございません。お食事の方が出来ましたらお呼びいたしますので、それまで、ごゆっくりお過ごしください」

 扉を急に開けて言い忘れた事を言ってから、また、扉をゆっくり閉めた。

 私は部屋の窓の方に近寄り、外の雨の様子を見る。執事の言っていたように、さっきよりも雨脚が格段に強くなっている。

 私

「こんな雨の中を帰るのは、少し危険かもしれないな…」

 雨が屋敷の壁を打ち鳴らし、窓が少しガタガタと音を立てる。しかし私は、「雨が壁を打ち鳴らしている音がピアノの音だったら、どんな気持ちの悪い旋律が出来るのだろうか?」とくだらない事を考えていた。

 私は暇なので本棚から本を取ろうとした。本棚には、色々な本が保管されており、歴史的な価値がありそうな古い本や、独語、仏語、英語の本が下の方に蔵書として鎮座していた。残念ながら、私はドイツ語なら出来るが、フランス語と英語は出来ない。また、その他にも、小説や哲学書、政治本、果てには何を書いてあるのか全く分からない奇妙な本も鎮座していた。

 私は散々迷った末に、普通の小説を手に取った。私が手に取った小説(戯曲)は、ゲーテのファウストである。このファウストは中学生の頃に父親の本棚から偶然手に取って読んでから、歴史上で最も偉大な小説(戯曲)だと信じて疑わない。私は椅子に座って本を読み始める。

 小説を読んでいると、メイドが部屋の扉がノックしてから部屋に入って来た。

 メイド

「ご夕食の用意が出来ました」

 メイドに案内されて、この大きな屋敷の食堂に足を踏み入れる。食堂の壁には、色々な人の肖像画が掛けられており、私は歴史のある場所には必ず肖像画が掛けられているのだなと確信した。

 適当に長テーブルの開いている席に座ろうとしたが、ビスマルク嬢が「私の隣に座りなさい」と言ったので、ビスマルク嬢の隣に座る事にした。

 相も変わらず、ビスマルク嬢の髪の毛はぼさぼさだった。ふと、私は不可解な事に気が付いた。椅子が四脚しかない。その内の一脚に執事が座っていたので、残りの一脚は必然的にメイド用という事だろう。となると、ビスマルク嬢のご両親の椅子が無い事になる。今になって思い返してみれば、私はビスマルク嬢の両親に挨拶をした事が無い。それどころか、会った事はおろか、見かけた事も無いのだった。

 私

(ご両親はどこに行ってしまったのだろうか?元とは言え貴族だから、自分の所有していた領地に帰ったのだろうか…?一人娘を置き去りにして…?)

 御令嬢

「…両親は死んだわ」

 また、私はとても驚いた。ビスマルク嬢が私の考えていた事が分かった事にも驚いたが、それよりも、ビスマルク嬢のご両親が亡くなっていた事の方が驚いた。

 私

「その…申し訳ありません…」

御令嬢

「良いのよ」

 御令嬢は私の眼を見つめる。そして、私も御令嬢の青い眼を見つめる。

 それから数十秒後に、メイドが料理を運んで来た。封筒に100万円の小切手を入れられるほどのお金持ちの家なので、豪勢だと思っていたが、意外と質素な内容で、普通のコーンスープや簡単な肉料理、バスケットに入れられた黒パンだった。

 御令嬢

「豪勢な夕食だと思って?」

 私の意外そうな顔を見て察したのか、ビスマルク嬢がこう言った。

 私

「意外と庶民的だったので驚きました」

 夕食がメイドの手によって配り終わる、すると、ビスマルク嬢が指を組んで小声で何かぶつぶつ独り言を言ってから夕食を食べ始める。

 私も手を合わせて、「いただきます」とつぶやいてから食事を始める。

 夕食を食べ終わると、ビスマルク嬢がこっちを向いて話しかけてきた。

 御令嬢

「どう?口に合ったかしら?」

「とても美味しかったです」

御令嬢

「エリーゼ(メイドの名前)が作ったのよ」

「とても美味しかったので、シェフが作ったのかと思っていました」

メイド

「恐縮です」

 さて、私が席を立って部屋に戻ろうとしたところ、御令嬢が「待ちなさい」と言って呼び止めてきた。

「どうかされました?」

 一瞬、御令嬢がまごつく。

 御令嬢

「いえ…何でもないわ…」

「はぁ…?」

 ビスマルク嬢のこの言葉を不審に思ったが、まさか主人を問い質すわけにもいかないので、もやもやしながらも宿泊部屋へと戻ろうとする。

 この複雑な名称の付け難い感情の埋め合わせをする為にか、無意識の内に廊下に掛けられた美しい絵画を見ていた。

 廊下に掛けられた絵画の全てを一通り鑑賞し終えると、次は窓の外をまた観察した。雨は相も変わらず、屋敷の壁に突進してきているし、風は木々をざわざわと震えさせている。雨雲のせいで月は見えない。

 屋敷の中をゆっくりと歩いて思ったが、この様な広壮な屋敷を執事とメイドの二人だけで切り盛りするのは大変だろう。普通の家が三つ連結したのとほぼ同じ大きさをしている。気が付かないだけで、他にも使用人がいるのだろうか?

 私は部屋に戻り、ベッドの上に横になる。私は「これが高級品のベッドかぁ」と思いながら瞼が重くなる。そして、意識が遠のいてゆく…起きたら牛になっていても、ふかふかの魔性のベッドが全て悪いのだ…

 目を覚ますと、窓の外はとても暗かった。傍にあった時計の針を目を凝らして見てみると、午前0時であった。

 良かった、牛になっていないと安堵する。私は「メイドや執事は眠ってしまったのだろうか?」と考える。変な時間に目を覚ましてしまったなと思いながらも、また眠ろうとする。しかし、隣の部屋からビスマルク嬢の激しい喘息が聞こえて来たので、急いで様子を見に行く。

 私

「大丈夫ですか!」

御令嬢

「シオン…?寝てたんじゃないの…?」

御令嬢

「ごほ!ごほ!ごほ!ごほ!」

 激しい咳をする。

 御令嬢

「心配してくれてありがとう…でも大丈夫よ…ただの発作だから…」

御令嬢

「ごほ!!ごほ!!ごほ!!」

 また激しい咳をする。私が慌てふためいていると、御令嬢の様態がますます悪くなってくる。激しい喘息症状のせいで、ビスマルク嬢は喘ぎ声を漏らす。

 御令嬢

「ごほ!!!ごほ!!!ごほ!!!ごほ!!!」

 「どうすれば良い…薬でも持ってくるか…でも、どこに薬があるのか、全く分からないではないか…」と考えていると、ふとピアノが視界に入った。

 ビスマルク嬢の部屋は防音が出来るので、夜でも近所を気にせずに演奏する事が出来る。私はピアノの椅子に座る。

 私

「ちょうど夜なので!月の光!」

 演奏していると、ビスマルク嬢の喘息症状も安定していき、やがてうつらうつらとしてくる。次のカノンを演奏し始めると幼い子供らしく寝息を立てて眠り込んでしまった。

 カノンを演奏し終え、ビスマルク嬢の方に近寄る。無論、寝顔を拝見するためだ。ビスマルク嬢の寝顔には、年相応の幼さが表情に出ていた。スマホは持って来ていないが、今、この場にスマホがあったら寝顔を隠し撮りした事だろう。普段は凛々しい表情ばかりしているビスマルク嬢の今の表情は中々見れるものではない。

 御令嬢の寝息

「すぅ…すぅ…」

「どんなに取り繕っても、子供は子供なんだな…」

 と言って、私はビスマルク嬢の頭を眠りから醒めないように、優しくゆっくりと撫でる。

 御令嬢

「お母様…すぅ…すぅ…」

 私は欧米のクリスチャンがやるように、愛情を込めて額にキスをしてから宿泊部屋に戻ろうとした。そして、ビスマルク嬢の寝室から出る際に、私は、こう呟いた。


「お休み…」


10

 私の身の回りでは、よく物がなくなる。そして、なくなった物がゴミ箱から発見される。詰まる所、私はいじめられている。事実、上流階級出身の彼女たちから見たら、中流階級出身の私が演奏で評価されている事が面白くないのかもしれない。

 実際、もし私が彼女たちと同じ立場ならいじめに加担していたかもしれない。だから、聖人になりたいわけではないが、彼女たちの気持ちも痛い程分かるので、甘んじていじめを我慢している。

 そんなある日の放課後、またいつもの如く物がなくなった。いつもなら、探すのも面倒なので新しい物を買うのだが、今回ばかりは話が違う。最も恐れていた事が起きてしまった。私の音楽ノートがなくなった。あれはピアノを習い始めて母が「必要だろうから」と買ってくれてから、大切に持っていた思い出の品なのだ。油断して机の上に放り出していた事を今になって強く後悔した。

 いつもなら教室のゴミ箱に捨てられているため、私はゴミ箱を必死になって探したが、しかし、どこの教室のゴミ箱にも入っていなかった。

 私

「ない…」

 冷静な心を取り戻すために、いったん窓の外に広がる群青色の空を見上げる。

 私

「どこだ…」

 長門先生

「さっきから必死になってゴミ箱を漁ってどうしたんだ?」

 私は飛び上がる程にとても驚いた。いつの間にか長門先生が教室の入口に立っていたのだ。

 私

「先生…いつからそこに…」

長門先生

「お前がこの教室に入った時からだ。それよりも、お前は何を隠している?」

 私はこうなっては白を切れないと思い、事の一部始終といじめの事を話した。

 長門先生

「馬鹿!何で私に相談しないんだ!」

「ごめんなさい…」

長門先生

「それで、その音楽ノートは見つかったのか?」

「いえ…」

 長門先生は腕を組んで「うーん…」と唸って何か考え事をしている。その後、長門先生が口を開いて言った。

 長門先生

「もしかしたら、落とし物として職員室に届けられているかもしれない。私と一緒に確認しに行こう」

「はい!」

 長門先生が職員室に入り、落とし物として届いた音楽ノートをすべて持ってくる。ノートの数は五冊だった。

 長門先生

「どうだ?この中にあるか?」

 私の音楽ノートはそこら辺の店で売っている物なので、表紙を見ただけでは分からない。そこで、私は一枚ずつノートを手に手に取って頁を捲って確認する。

 私

「違う…」

 次のノートを手に取る。

 私

「これも違う…」

 また、次のノートを手に取る。

 私

「これじゃない…」

 三冊目のノートを手に取る

 私

「…違う」

 四冊目。

 私

「…」

 五冊目。

 私

「落とし物として届いていないみたいです…」

長門先生

「そうか…弱ったな…」

 長門先生は長くて綺麗な黒髪を弄りながら考え事をする。

 長門先生

「他に考えられる場所とかないか?」

 私は考える。必死に考える。

 私

「………」

「…音楽堂をまだ調べていないので、もしかしたらそこにあるかもしれません…」

 この学校の音楽堂は小さな歌劇場と同じくらい広いので、この音楽堂の何処かに隠されたとしたら、ノートを見つけるのに骨が折れるだろう。

 長門先生と二人で手分けして音楽ノートを捜索した。椅子の裏や下、幕の裏側や舞台脇、舞台裏などを探したが見つからなかった。

 私

「見つからなかったらどうしよう…」

 私は、一筋のしょっぱい涙を流す。

 長門先生

「仕方ない…私が他の先生たちと音楽ノートの事を共有しておくから、見つかるまで待っていなさい」

「はい…」

 その後、私の音楽ノートは見つかる事は無かった。

11

 平日は必ずと言ってよい程、音楽堂で長門先生と二人で特別に放課後レッスンをする。昔は、他に二人いたが、彼女たちはドイツに留学に行ってしまったので、私一人だけが受ける事になってしまった。

 この学校に入学してから初めて受けた放課後レッスンでは、今までの悪い癖を直すために長門先生から出来の悪い子供に親が怒鳴りつける様に怒られた。愛がある先生だが、今までの私の人生で会って来た先生の中で最も怖い先生だ。これからも、この記録が破られる事は絶対にないだろう。

 私は初めて長門先生の演奏を聴いたとき、初めてピアノの音色を聴いたときの感動が蘇って来たのだった。あの時、長門先生が弾いた曲はパッヘルベルのカノンだった、その音色を聴いたとき、忘れていたピアノの音色の美しさを思い出して涙を流した記憶がある。涙を流す私を、他の二人には不思議に思ったが。

 あのカノンを演奏した長門先生は、カトリック教会の聖母マリア像の様に美しかった。長門先生の艶やかな黒髪は音楽堂の証明を受けて光り輝き、鍵盤を押す手の動きには一切の無駄が存在しなかった。スマホがあったら写真を撮影したかったが、あの当時スマホは持っていなかったので撮影する事は出来なかった。

 長門先生が演奏し終えて、いよいよ受講生の私たちが演奏する番になった。私は他の二人より先に演奏する事になった。しかし、これが不幸の始まりだった。私は、長門先生がお手本に弾いたカノンを弾いたが、気持ちよく弾いている途中、突然演奏を止めるように合図を出されたので演奏を止めた。

 長門先生

「そんな演奏では死ぬほど退屈だ!お前が金を払って聴衆に聞いてもらう程度の演奏だ!

 と言われ、幼心に私は心に深い傷を負った。私は混乱した。

 私

(ミスをしたわけでもなければ、旋律を崩したわけでもない、殆ど完璧に先生のお手本通りに模倣したはずなのに…)

 と、思った矢先に、他の二人は途中で止めるように指示されず、それどころか、長門先生が高い評価を付けたので、幼かった私は長門先生に強い憎悪の念を抱いのだった。今思うと、私が評価されなかったのは当然の事だが。

 私

(あの二人は、旋律も狂っていた所もあったし、ミスした所もあったのに!私はミスもしていないし、旋律も完璧だった!なのに何故私だけが途中で止められて、他の二人は止められないんだ!不公平だ!)

 私はそれ以来、あの般若を超えてやろう、あの般若よりも上手く完璧に演奏してやろうと心に誓ったのだった。そして、そのあくる日も放課後レッスンがあったので、今度は途中で止めさせないために、私の自慢の一曲のラ カンパネラを演奏したが、また途中で長門先生に演奏を中断するよう要求されたので、少し嫌な顔をしたが演奏を中断した。

 そうして、また長門先生から昨日と同じような事を言われて激怒した。

 私

(ラ カンパネラを弾ける人なんて高い評価を受けて然るべきだろう!先生は音楽について何も分かっていない!他の二人なんて弾けないのに!どうせ先生だって弾けないくせに偉そうにして!前の塾の先生の方が私を評価してくれた!)

 長門先生は私の不満を表情から読み取ったのか、ニヤリとメフィストフェレスの様な意地の悪い悪魔の笑みを浮かべて、ピアノの演奏を始めた。

 驚いた事に、先生もラ カンパネラを弾いたのだ。しかも、私よりも美しい音色を響かせて。

 私

「何で…私と同じ曲を弾いているはずなのに…同じ楽譜のはずなのに…同じピアノのはずなのに…」

 私はその次の日も、その次の日も、またその次の日も長門先生の放課後レッスンを受けた。毎日毎日𠮟られ続け、心が折れそうだったある日のこと、突然の事だったが、長門先生の言わんとしている事が分かったのだ。

 そう私の演奏は、機械的だったのだ。心が籠っておらず、ただピアノから旋律と音を出していたのに過ぎなかったのだ。そう私が悟ってから、先生は私の事を初めて評価した。

 この出来事以来、私は謙虚な姿勢を示してきたが、これが他の人に誤解を与えるきっかけになってしまったらしい。

 思い出に浸りながら自主練習していると、音楽堂に般若が入って来た。私は長門先生に椅子から立ち上がって、丁寧に挨拶をしてから、また、ピアノの椅子に座った。今日も明日も明後日も、私は長門先生に叱られるだろう。しかし、私は長門先生を尊敬しているし、長門先生の愛にも答えたいと思っている。

12

 これは、長門先生と一緒にドレスを買いに銀座へ行った時の話である。

 白状しよう、私は今まで銀座には一歩も足を踏み入れた事は無い。それどころか、出来る事なら銀座には足を踏み入れたくなかった。中流階級出身の私が、上流階級が集う銀座なんかに行くと、なにか罰が下るような気がするのだ。

 私たち二人は途中で電車を乗り換え、銀座線の電車に乗り、銀座駅で降りた。私は銀座駅を降りると私は目を疑った。

「これが…お金持ちの街…」

長門先生

「ほら、早く行くぞ。観光のために来たわけじゃないんだ」

 そう言われたので、足早に急ぐ長門先生の後を追った。せっかちな人だ…もう少しゆっくりすれば良いのに…

 目的地は長門先生が贔屓にしている洋服店らしい。何でもそこは、銀座の有名店にも匹敵する品ぞろえを揃えているが、会員しか買い物が出来ないという。長門先生曰く、そこの店のドレスは少々値が張るが、品質は本物だそうだ。しかし、私はドレスに品質がある事に驚いた。

 私たちは、一目見ただけで上流階級だと分かる人たちの合間を縫って歩いていく。スーツなのか普段着なのか分からないお上品な服を着たご婦人や、あまり面白くない韓流ドラマや日本ドラマに出て来そうな人を見下すタイプのマダム、スーツをビシッと決めた仕事が出来そうな40代くらいのおじ様、私と同年代くらいの学校でよく見るお嬢様の群れ、共産主義国家だったら真っ先に粛清されるであろうでっぷり太った資本家等々、沢山の人が歩いていた。

 しばらく歩いていると、長門先生が急に大通りから外れた人通りの少ない、裏路地と言うには広すぎるが、分かれ道と言うには小さすぎる微妙な路地に入って行った。

 私

「この道で合っているのですか?」

長門先生

「移転さえしていなければもうすぐだ」

 その後、3分程度歩いていると目的地に到着したらしく、長門先生が足を止める。突然長門先生が足を止めたので、私は止まった事に気が付かずに先生を追い越してしまった。

 私

「ここですか?」

長門先生

「そうだ。懐かしいな、私もお前くらいの年に、この店で初めて自分自身でドレスを選んだんだ。それ以前は、親が選んだのを着ていたから、そのドレスを着た時は感動したよ」

「はぁ…?」

 私は生まれてこの方、ドレスなんて着た事が無いから長門先生の気持ちはちっとも分からない。

 長門先生

「少し待っていろ」

 と言って、先生は私を残して店内に入ってしまった。暇になった私は看板を見上げて店の名前を確認する。看板には「マルガレーテ」と書かれていた。

 私

「…あのファウストのグレートヒェンの事かな…?」

 店の外で一分、二分、三分と待っていると、長門先生が店のドアから顔を出して私の事を呼んだ。

 長門先生

「入って良いぞ」

「はい」

13

 私は店の中に入り、装飾品の豪華絢爛さに度肝を抜かれた。シャンデリアが天井に掛かっているし、そのシャンデリアは金メッキ(多分、本物の金だろう)が施されていた。その他にも、床には赤い絨毯が敷かれており、まるで古代ローマの英雄が祖国に帰還した時の様な気分に浸る事が出来た。

 店内音楽はこれまたお上品でお高級な弦楽四重奏に編曲されたありとあらゆるクラシック音楽が流れていた。

 店内を鑑賞して茫然自失としていた私の様子を見て、長門先生はあのメフィストフェレスの様な底意地の悪い微笑みを浮かべる。

 長門先生

「ふふふ…」

長門先生

「さて、お目当ての品を探すぞ」

「はい」

 ドレスは、この店の主力商品だけあってドアから入って数歩の所にドレスコーナーがあった。私はここでも度肝を抜かれた。真っ黒な美しいドレスもあれば、純白のディズニーのプリンセスが着るようなドレス、商品札に英国王室御用達のブランドの名前が記載されたドレス、大富豪の奥方が着るようなパーティードレス、夏用の肌面積が多くなった真っ黒のドレス、その他にも数え切れない程のたくさんのドレスが売られていた。多分、この店にあるドレスを一々書いていたら、それだけで一冊の本が書けてしまうだろう。

 長門先生

「どうする?どんなドレスが良い?」

「どうすると言われましても…」

 私はドレスの商品札の値段を見て絶句した、ただのドレスが10万円もするのだ。私は先生に動揺を悟られないように冷静沈着を装いながら、ほかのドレスの商品札の値段を確認する。全てが10万円以上はした。それどころか、英国王室御用達ブランドともなると、100万円に近い価格設定だった。

 私

「ぼったくりじゃないか…」

 つい私は本音を漏らしてしまった。幸い、店員は長門先生と会話中だったので、私の失言を聞かれる事は無かった。

 私は狂ったようにドレスの値段を確認していた。そんな私を不審に思ったのか長門先生が話しかけてきた。

 長門先生

「どうした、そんなに値段を気にして?」

「さすが…高級品は違うなって…あはは…」

 長門先生は「お前の考えている事は分かっているぞ」と言うように苦く微笑えんだ。

 長門先生

「ほんと馬鹿々々しいよな。死後の世界に金も、高級なドレスも、高価な宝石も、預金通帳も、他者の評価も持っていけないのに、人々は皆、文字通り一生を掛けて財産や名声を求めるんだ」

長門先生

「そんな単純な道理も理解できない程、度し難く、そして、憐れむべき生物が人間なんだ。人間より知能が劣っている犬や猫は毎日生きているだけで十分に満足しているのに」

 私は長門先生の明け透けな本音を聞いて驚いた。

 長門先生

「こんなの良くないか?」

 長門先生が手に持っていたのは、如何にも上流階級の女性がパーティーの時に着るパーティードレスだった。しかも、海外のパーティードレスなので肌の露出がとても多い。先生が手に取ったドレスは、如何にもセイレーンの様に男性を誘惑できるだろう。

 私

「それはちょっと…肌の露出が多すぎます…」

長門先生

「パーティーのために買うんじゃないんだから良いだろ?」

「それでも…」

 長門先生は不満な体だったが、パーティードレスを元の場所に掛けなおして次のドレスを手に取る。

 長門先生

「これはどうだ?」

 次に手に取ったドレスは、如何にも「西洋の上流階級でござい」と言ったようなドレスだった。スカートが滑稽なほど大きく、走るのはもちろん、歩く事すら私には困難だろう。

 私

「こんなにスカートが大きいと、ピアノを弾くにも支障が出そうですし、止めておきましょう」

長門先生

「確かにそうだな」

 お次に手に取ったドレスはさっきと同じ系統のドレスだったが、19世紀、20世紀初頭の欧州貴族が着ていそうな伝統的なドレスだった。至る所に意味のないフリルばかりが刺繍され過ぎていて、フリルがドレスを刺繍しているとしか思えない。服の生地も最高級な品を扱っているのだろう、ドレスが光沢を放っている。キラキラ光りすぎていて照明にも使えそうだった。

 私

「そう言うパーティーとかで着るようなドレスではなくて、演奏会で着るようなドレスは無いんですか?」

長門先生

「それなら、これは?」

 先生が次に手に取ったのは、著名な女性ヴァイオリニストやピアニストが演奏会で着ていそうな赤色のドレスだった。

 私

「そうですね。その様な系統が良いと思います」

長門先生

「色はどんなのが良い?」

「それでは、無難に黒で」

 高嶋ちさ子さんが着ていそうな赤いドレスを元の位置に立て掛け、黒色の同じようなドレスを手に手に持つ。

 私

「それが良いです!」

長門先生

「そうか、ならこれにしようか」

 私がドレスの値段札を確かめる。

 私

「やっぱり…高級品ですね…」

 ドレス一着が10万円以上もするなんて、高級品と言うよりも詐欺なのではないかと不審に思ったが、ただのバックが100万円もする世界なのだから、ドレスが10万円なのは逆に良心的なんだと自己暗示を掛けて乗り越えようとするが、やはりドレス一着に10万円は解せない。バックに100万円は発狂しそうだ。

 私(小声で)

「10万が…」

長門

「うん?何か言ったか?」

「いえ!何でもありません!」

 これでドレスは一件落着だが、まだ買うものが残っている。それはヒールである。ドレスを着たのに裸足か普通のローファーで演奏をした日には竜頭蛇尾も良い所だ。

 と言っても、ビスマルク嬢の屋敷は日本の家と同じく靴を脱いで上がるため、裸足で演奏する事になるのだが(因みに、いつもは靴下で演奏していた)なので、未来に向けた買い物である。

 ヒールコーナーは入口から少し遠い所に鎮座していた。例の如く、私はチーターの如き速さで値段表を確認する。すると、私は絶句した。

 私

「ヒールに…20万…」

 私はつい本音を吐露してしまった。この店に来てから驚かされてばかりだ、同級生たちは、ただのバックやヒールにこんな大金を払う狂った世界に住んでいたのか…

 私

(ドレスよりもヒールが高いって…)

 並んでいるヒールの多くは、足の甲から足指まで露出して見えるので、ヒールと言うより裸足と言った方が正確だろう。

 長門先生

「どうだ?決まったか?」

「これにします」

 私はやけくそになってGucciの最高級ヒールを手に取ってしまった。

 私

(10万も、20万も変わらないよね?)

14

 私は今日の一日で、ビスマルク嬢から貰った100万円の小切手の約三分の一を使い切ってしまった。新しい事ばっかりでとても疲れていたので、帰って仮眠しようと思っていた矢先の出来事だった。

 長門先生

「ストリートピアノか…」

「へ…?」

 先生の言う通り、大通りの真ん中にピアノが設置されていたのに気が付いた。とその瞬間、吐き気を催すほどの嫌な予感が私の心臓を貫いた。

 長門先生

「弾いてみろ」

「無理!無理!無理!無理!無理です!こんな大勢の前で演奏するだなんて!死んじゃいます!絶対に嫌です!」

 私は必死になって先生に懇願した。その様は、傍から見れば殺人鬼に命乞いをしている

ようにしか見えないだろう。

 私

「銀座を歩いている人なんて、上流階級の人たちばかりですよ!彼らなんて、プロの演奏を、何十、何百と聞いているんです!そのおかげで、コンサートを聴ける有難さを忘れ、平気でブーイングを鳴らす人たちばかりです!絶対に嫌です!いくら先生の願いでも絶対に嫌です!」

長門先生

「わかった、わかった。まず、私が最初に演奏するから、その後に演奏しろ。これなら良いだろ?」

「何も良く…!」

 だがしかし、先生は私を黙らすために、ピアノの椅子に座って鍵盤に指を置く。そして、一回だけ音色を響かせる。

 長門先生

「やっぱり、学校のピアノよりも音色は劣るな…」

 先生はこう呟いてから、両手両指とも鍵盤の上に配置する。先生が演奏する曲は季節外れのヴィヴァルディの冬だった。すると、好奇心旺盛な聴衆がぞろぞろと集まって来る。その数はどんどんと増える一方だった。

 私

(なにも良くないじゃん…)

 隣で長門先生の演奏を聴いていたマダムがひそひそ話を始める。

 赤い服のマダム

「あの人、長門さんの娘よね」

青い服のマダム

「そうね」

赤い服のマダム

「そう言えば、若い時なんて不良みたいな格好ばっかりして、よく先生に指導されていたわよね」

青い服のマダム

「それに、しょっちゅう問題起こすわ、親は泣かせるわ、先生も泣かせるわ、友達も泣かせてたあの娘が、名門中の名門の金華女学院の教師になるだなんてねぇ」

 そんな話をマダムがしているとは露も知らない長門先生が、演奏を終えて私の方にやって来る。

 長門先生

「ほら、次はお前の番だぞ」

 私は半ば強制的にピアノを演奏する事になった。鍵盤の上に両手両指を配置して、音楽を奏で始める。長門先生が冬だったので、私は夏を演奏した。

 私が演奏を終えるまでに、聴衆は長門先生が演奏をしていた時よりも増えていた。私は立ち上がって足を止めてまでも聴いてくれた聴衆に向かってお辞儀をする。すると、雷の様に拍手が鳴り響く。この時の喝采の音は私の心にも鳴り響いた。

 長門先生

「どうだ?」

「もう二度としたくないです…」

長門先生

「ふふ…」

 いつもの様に、先生はメフィストの様な意地の悪い笑みを浮かべる。

 長門先生

「そうだ、まだ用事があるんだった」

長門先生

「シオン、私と一緒に実家に挨拶しに来てくれないか?長い事、親と会ってないから、私一人だけだと気まずいんだ…」

 私は「えぇ…」と不満を漏らす。

 長門先生

「ドレスを一緒に買ってやっただろ!」

「分かりました…」

15

 長門先生の実家は銀座の中心地から少し外れた、高級な住宅ばっかりが軒並みを連ねている場所にあった。これほどまでに豪邸が並んでいると、豪邸と言っても大した事は無いと錯覚してしまうが、銀座に豪邸を建てるなど普通の一般市民では出来ないから、やはり、錯覚である。

 だが、長門先生の実家は、そんな豪邸たちが普通の一般住宅に見えてしまうくらい大きかった。私はただ大豪邸の大きさに茫然としているしかなかった。ビスマルク嬢の住む館の二倍の大きさはあるだろう。

 長門先生

「それで、シオン。お前にやって欲しいのは挨拶だけじゃない。私の両親の前でピアノを演奏してほしいんだ」

「え!?」

長門先生

「私が教師として、ちゃんと生徒を指導できているんだぞって事を教えてあげたいんだ。子供の頃、物凄く迷惑を掛けたから少しでも親孝行をしたいんだ」

「親を泣かせた事もあるんですよね?」

長門先生

「なんでそれを…?」

 いつも先生に怒られているので、ここぞとばかりに復讐をする。

 私

「曲の指定とかありますか?ご両親が好きな曲とかの方が良さそうですけど?」

 私は先生の質問を無視して、会話を強引に進める。

 長門先生

「そうだな…親が好きな曲か…えっと…」

「忘れないで下さいよ…」

長門先生

「そうだ!水の戯れだ!」

「分かりました、先生にはいつもお世話になっているので、一肌脱ぎます」

長門先生

「ふふふ…私も良い教え子を貰ったな…」

 そう言った後、先生は一台の車が余裕を持って通れるくらい大きな門に付いているインターホンを鳴らす。

 長門先生

「私だ」

 大きな門が自動で開く。

 長門先生

「良かった…」

「何がです?」

長門先生

「いや、こうやって実家に顔を出したのは、実に何年かぶりだから「どなたですか?」と言われたらどうしようかと思ったんだ」

「何年もあってないだなんて、本当に親不孝者なんですね…」

長門先生

「半ば勘当された形で家を出て行ったからな…本当に迷惑をかけたよ…」

「そう言えば、ご両親はピアノやその他の楽器を演奏する事があるんですか?」

長門先生

「いや、両親とも、自分で演奏する事には興味がないんだ。元々、下流階級の出身だという事もあるだろうが」

 そう言うと、長門先生はしきりにきょろきょろと辺りを見回した。

 長門先生

「出迎えは無しか…仕方ない、シオンついてこい」

 長門先生がシャーマン戦車が通れそうな大きな門を潜って敷地内に足を踏み入れる。

 長門先生

「4年ぶりだな…」

 そう独り言を言ってから歩き始める。私は歩き始めてから暫くすると、長門御殿の庭を見回した。庭は手入れが行き届いており、実際に今も複数人の庭師が汗を垂らしながら働いていた。

 私

「はぇ…大きな庭ですね…ビスマルク館の庭もこんなに大きくは無いですよ…」

長門先生

「両親自慢の庭なんだ」

 私たちは生垣の様に切り揃えられた植物の線路に沿って進んでいった。私がふと周りを見回してみると、大きな樹に隠されて見えなかった東屋が見えるようになった。その近くには蓮が浮いている小さな池もあった。

 長門先生

「あの東屋は、よく両親がお茶をする時に使うんだ。私も幼い頃はあそこで遊んだよ」

「貴族みたいですね」

長門先生

「まぁ、貴族の方がましかもしれないな…」

「何でですか?」

長門先生

「父親の経営している企業は、人に言えない事を平気でして儲かった企業だからな…」

「確か、飲食店チェーンを経営している企業ですよね?人に言えない事なんて、想像もつきませんが…」

 長門先生が大きな、そして、哀しみが溢れる溜息をして、優しく微笑むと小さな声でこう話してくれた。

 長門先生

「人件費を削るために、平気で従業員にワンオペをやらしたり、周りの個人経営の料理屋を嫌がらせによって潰したり。だけど、その様な悪い噂は報道されなかった、テレビ局を金で買収してたんだ」

「酷いですね…」

長門先生

「そんな事も知らずに、一般人は今日も明日も明後日も、店の商品を食べ続けるだろう。便利で美味しくて安い。に支配されている事にも気付かずに」

長門先生

「正義って…何なんだろうな…」

16

 話している内に、長門亭の玄関先に到着した。長門先生はいつも私がビスマルク館でやるようなノックをする。

 扉が開いて使用人が出迎えてくれた。

 使用人

「どうぞ、お入りください」

 心なしか対応が冷たい気がする。実の娘が四年ぶりに帰って来たというのに。

 私

「そっけないですね…扱いがまるで他人みたいです…」

 長門先生

「そうだな…」

 長門館はビスマルク館と違って、西洋の慣習を則っているので、家内でも靴を脱がなくて良かった。

 先生の顔を見て見ると、これから本番を迎える演奏家の様な、大海原へと進んでいく漁師のような覇気が宿っている。

 私

(いつにもまして、先生の顔が厳しい…あぁ…あの般若顔が恋しいなぁ…)

 先生がある部屋に前で足を止めたので、私もそれに合わせて足を止める。

 扉

「カンカンカン…」

 長門先生が扉をノックすると、扉の内側から男性の低い声が帰って来た。やはりと言うか、ビスマルク嬢の様な威厳とカリスマとは違う威厳とカリスマを感じた。これが汚い手を使ってまでも這い上がった人の声なのだと感心していると、長門先生が扉を開いて中に入って行ったので、私も慌てて長門先生の背中についていく。

 長門先生

「お久しぶりです」

 長門先生が突然お辞儀をして挨拶をしたので、私も咄嗟に長門先生の様にポッシュなお辞儀をする。先生が敬語を使う相手は校長先生くらいしかいなかったから本当に珍しい。

 父君

「まぁ、座りなさい」

 と言われて、私たち二人は父君に勧められた椅子に座る。

 座ってから間もなく、使用人が長門先生の母君も連れて来た。母君の顔と長門先生の顔が思っていたよりもそっくりだったので少し驚いた。

 私

(血は争えない…か…良く言ったものだ)

父君

「そちらの人は?」

長門先生

「私の教え子です」

「いつも先生にお世話になっております」

母君

「ちゃんと娘は教師の仕事できているかしら?」

「はい、私が保証します」

 先生が意味ありげに目配せをしてくる。私はその目配せに答えて口を開く。

 私

「論より証拠です。一曲ピアノで演奏しましょう」

 私は室内にあったグランドピアノの傍による。これも学校のピアノと同じくらい高級なピアノだろうと推測する。

 私

(音色はどうだろうか…ちゃんと調律されてればいいんだが…)

 私は試しにドの音を弾いてみた。すると、学校のピアノにも勝るとも劣らない綺麗な音が奏でられる。

 私

(ふふ…調律だけは欠かさなかったみたいだ)

 私は微笑みを浮かべながら、ピアノの旋律を奏で始める。

17

 私が演奏している最中、長門先生のご両親は恍惚としてピアノの美しく光り輝く音色を聴いていた。

 私が演奏を終えると、ご両親は二人とも拍手をしてくれた。何故だろう、他者の前でピアノを演奏するのがあんなにも苦痛だったのに、今は何ともなかった。

 父君

「君、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌを弾けないか?」

母君

「私たち二人の思い出の曲なの」

「勿論です。私に弾けない曲は、無い曲だけです」

 私は椅子に座り直し、ピアノの目に見えない輝きを解き放つ旋律を奏で始める。二人はまたもや恍惚として聴いている。驚いた事に、先生も両親と一緒に恍惚としながら聴いている。

 私は演奏を終わり、うっとりとして上の空な聴衆に丁寧にお辞儀をする。と、その時、私のお腹が鳴ってしまった。聴衆の殆どがクスクスと無遠慮に笑い始める。

 母君

「昼食はまだなの?」

「はい…」

母君

「それなら、家で食べて行きなさい」

 私は先生の顔を見る。先生が「そうしてもらえ」と表情で伝えて来たので、私はお言葉に甘える事とした。

 昼食は、さっきの長門先生の話に出て来た東屋で食べる事になった。ご両親が一番好きな場所らしい。長門先生から聞いた話だと、祝い事がある日は、いつもここで昼食をとるらしい。と、言う事は、長門先生が帰って来た事は祝い事に値する、という事だろう。

 東屋は遠くから見ても分かったが、とても綺麗に手入れされており、その美しさは芸術作品と言っても、誇張ではあっても、噓ではないだろう。植物が生垣の様に手入れされており、柱や床には歩行の邪魔にならない程度の細い蔦が、自由に這いずり回っていた。

 空には雲一つなく、雨が突然降って来る事は無いだろうと胸を撫で下ろす。

 暫くの間辺りを見回していると、東屋のテーブルに昼食の御馳走が運ばれてきた。高級そうなステーキや色とりどりの野菜を盛りつけられたサラダ、良い香りを漂わせる魚料理などがある。最後に、最高級物のワインが運ばれてきた。ワインがグラスに並々と注がれ、その紅い色は液体状になったルビーの様だった。

 長門先生

「お前に酒はまだ早い」

「薫りだけで酔っちゃいそうですね」

 私は純白のテーブルに並べられた御馳走を口に運んで食べ始める。どの料理もとても美味しかったので、どんどんと箸(ナイフとフォークだが)が進んだ。大人の三人は乾杯をしてから、グイッとルビー色の紅いワインを飲み干した。私は驚いた、ワインは少しずつ少しずつ飲んで薫りを味わうものだと思っていたからだ。

 私たち三人が料理を食べ終わると、父親が立ち上がって長門先生に話しかけた。

 父君

「長門。庭園を一緒に散歩しないか?」

長門

「喜んで」

 長門先生は椅子から立ち上がって、静かに父君について行く。私たち残った二人は、父子水入らずの雰囲気を破壊しないように、黙って見守っていた。長門先生と父君は迷路の様な、植物で出来た生垣を歩いている、二人で何かを話し合っている声が聞こえた。だが、二人が遠ざかるにつれて声は小さくなり、果てには聞こえなくなってしまった。

 二人は小さな池に掛けられた橋の上で立ち止まり、何やら話し込んでいる。暫く話し込んでいると、突然、長門先生が父君に抱き着いた。父君も優しく抱き返す。

 私

「親子の絆ほど、美しい作品は存在しないな…」

18

 この前の出来事があったので、私はこれから毎週土曜日、ビスマルク嬢のお屋敷で寝泊まりする事になった。ビスマルク嬢自身は「そこまでしなくても良いわ」と言っていたが、私が蛇の様に何度も頼み込んだので、遂にはビスマルク嬢も折れてくれた。

 私

「ゴールドベルク変奏曲」

御令嬢

「お願いするわ」

 私が演奏を始めると、ビスマルク嬢は母に抱きかかえられた子供の様な、安心しきった顔をして私の演奏を聴いていた。

 あの日以来、私の中にビスマルク嬢への尊敬と信頼の他に、庇護欲が湧いてしまった。幼い彼女が両親を失った時の気持ちは、私には久遠に分からないだろうが、彼女が安心した表情を見せ続けてくれるならば、死ぬまでこの屋敷で演奏を続ける覚悟がある。

 御令嬢は終始静かに、何事にも動じない多くの時代を見て来た大木の様に、静かに、優雅に、美しく、そして、子供の様に私の演奏を聴いていた。

 私

「幻想即興曲」

 そう、美しい旋律を聴いている今の御令嬢は、最初に会った時の威厳とカリスマは全く感じられず、今、そこにいるのは喘息を患った幼女である。

 御令嬢の喜びが、私の喜び。

 御令嬢の笑顔が、私の笑顔。

 御令嬢の哀しみが、私の哀しみ。

 御令嬢の怒りが、私の怒り。

 理性ではない、直観だ。

 神は、私たち二人が出会う計画を、天地開闢の時から固く決めていたのだろう。

 私

「バラード 第1番」

 私は彼女の物。

 私は彼女の従僕。

 彼女を喜ばす事が、私の生きる意味。

 私は仕える。誰に?彼女に。

 私は彼女を愛している。

 私は、今、幸せだ。とても、とても。


 こんな日が、久遠に続けば良い。


19

 私は演奏を終えると、ビスマルク嬢の方を向いた。ビスマルク嬢は安心し切った表情で寝息を立てながら寝ていた。私は、ビスマルク嬢が風邪を引かないように布団を掛けて、前にしたように、額に優しくキスをしてあげた。

 私は窓辺にあるビスマルク嬢お気に入りの椅子に座り外を見ていた。木々の葉が微風に吹かれてザワザワと音を立てて、ワルツを踊るようにゆっくりと揺れていた。太陽は、太陽らしくこの地球上に存在する、ありとあらゆる物を平等に照らし、悪人、善人の差別なく陽光の恵みを与える。若い植物たちは、それを喜ぶ。

 私は空気を味わうために窓を開けた。窓を開けると、風が私の顔に突進して来て少々驚いた、深く深呼吸をする。草の香り、土の香り、木の香り、花の香り、生物の香り、ありとあらゆる香りが私の鼻をくすぐるように刺激する。

 私

「幸せ者だ…私は…」

 小さく呟く。

20

 今日も学校の授業が終わり、放課後レッスンが始まる。「今日も、長門先生にたっぷり叱られるんだろうなぁ」と考えると、少し憂鬱な気分になる。この時、私は職員室の前に鎮座している金銀銅のトロフィーたちを思い出していた。置いてあるトロフィーの受賞者たちの中には、スポーツや芸術、学問などで現在も名を轟かせている人たちが数多くいた。その数は、数え切れない程だった。ここ金華女学院はそれほどの名門なのである。しかし、一番驚いたのが、長門先生が幾つもの音楽コンクールで優勝トロフィーを獲得している事だった。ざっと数えただけでも四個はあった。それを見た私は、なるほど、噂通りの神童だったんだなと思った。また、そんな神童に指導を受けているので、誇らしいくも思ったものだ。

 私が考え事をしていると、深雪が話しかけてきた。

 深雪

「今日のシオンの放課後練習を見て良い?」

「良いけど…部活は?」

深雪

「今日の部活は休み。自主練の一環だよ」

「どういう事?」

 私は深雪の言っている事が分からずに困惑する。

 深雪

「演劇以外の芸術作品も見ないと、頭が凝り固まって一つの視点でしか物事を見られなくなり、良い演技が出来なくなるんだって。先生が言ってたよ」

「確かに、一理あるね」

深雪

「あの、私以外の部員も連れて来ても良いかな?」

「別に構わないけど」

 そう言うと、深雪はさっそく、一緒にクラシック鑑賞をする部員を見つけるために教室を出て行った。私は教室に一人になってしまった。普段は生徒たちでごった返しているので、静かな教室は新鮮だ。暫くすると私は立ち上がり、学生鞄を手に手に持つ。

 私

「変ったな。私も」

21

 私はビスマルク館の借りている寝室で制服からドレスに着替える。初めてドレス姿を執事やメイド、御令嬢に見せた時は似合っていると高評を受けた。

 窓を開け放った寝室に、湿っぽい一陣の風が吹き込む。この風の香りを嗅ぐと、何とも言えないワクワク感に心が突き動かされ、今日も頑張ろうという気概にさえなる。そう、夏の始まりである。

 私はビスマルク嬢の寝室のドアをノックする。そうすると、「入って」というビスマルク嬢の声がする。しかし、初めて出会った日の様なカリスマと威厳は放たれていない。その代わりに、最近は私の目の前で無邪気に笑ってくれる事が明々白々に多くなった。そんな彼女の笑顔に釣られて、私も自然と笑顔になってしまう。

 私はいつもの様に鍵盤の上に私の白い指を配置する。そして、曲はショパンの英雄ポロネーズだ。

 彼女は旋律の調べを暁光待ち望む花の様にゆったりと、何も言わずに、ただ受け身になって聴いている。

 今日もピアノの演奏をしていると、彼女はベッドに横になって、いつの間にか眠ってしまうのだろう。最近は喘息の発作も出ていないので、私も安心して彼女との時間を過ごせる。だけど、気になる事がある。それは、ビスマルク嬢は私に何か隠し事をしているみたいなのだ。私がそれについてやんわりと問い詰めてみたら、ビスマルク嬢は「気のせいよ」と言って取り次いでもらえなかった。仕方が無いので、その日以来、この話題を口に出した事は無かった。

 私は意図的に、最後の曲は静かで眠れる曲を弾いている。そのおかげか、ビスマルク嬢は演奏が終わる頃には幼い子供らしく、ぐっすりと寝息を立てて眠ってくれる。メイドの話によると、私が来る前まではこんなにぐっすりと昼寝をしてくれた事は無かったらしい。

 私はビスマルク嬢が寝た事を確認すると、ベットのすぐ横に椅子を配置してビスマルク嬢の寝顔を見守る。

 私

「私の昼寝を見守っている母も、こんな気持ちだったんだろうな…」

 ビスマルク嬢の寝顔を見つめていると、私も眠ってしまいそうだ。そして、いつの間にか、私はビスマルク嬢のベッドに突っ伏して眠ってしまう。御令嬢のベッドは黄金の薔薇の様な匂いだった。

 御令嬢

「起きなさい。シオン」

 私はビスマルク嬢の優しい語り掛けによって目覚める。眼を擦り顔を上げると、聖母像の様な微笑みを浮かべたビスマルク嬢がいた。

 御令嬢

「よく眠れたかしら?」

 私は何も言わずに、ただ、頷く。

 御令嬢

「二人して、何時間も眠っていたみたいね」

 窓を見て見ると、さっきまで外は明るかったのに、もう蒼穹が黄昏色に染まり始めていた。

 御令嬢

「そうだわ、今のうちに話すけど。シオン、来週の土曜日は、この屋敷で演奏しなくても良いわ」

「どういう事ですか…?」

 私は巨人に心臓を握り潰された様な気持ちになる。絶望が表情に出ていたのだろう、ビスマルク嬢は「ふふふ…」と微笑んでからこう言った。

 御令嬢

「安心して、契約を切るわけじゃないわ。来週の土曜日、私と一緒にサロンに出席して欲しいの」

 私は心臓の底から安堵した。

 私

「サロン…ですか…?」

御令嬢

「まだお金持ちは苦手?」

「いえ!行かせて頂きます!」

御令嬢

「そう言ってくれて嬉しいわ」

 と言って、御令嬢はメイドを呼び出して紅茶をご所望した。そして、暫くすると、メイドは紅茶を入れて来て、御令嬢と私に紅茶を手渡す。

 御令嬢

「………」

御令嬢

「ねぇ…シオン…」

 ビスマルク嬢の普段は絶対に見せないような暗い顔をした。そして、私は警戒する。

 御令嬢

「これからも、一緒にいてくれるかしら?」

「御令嬢が年老いて老衰で亡くなるまで。絶対に、お約束します」

御令嬢

「ありがとう…」

御令嬢

「シオン…大好き…」

 ビスマルク嬢は私に向かって、星空の様に煌々とした微笑みを浮かべた。

22

 私と御令嬢は執事の運転する、独逸の高級車ベンツに乗せられている。

 御令嬢

「そうだわ。爺や、金華女学院に寄って。あそこの校長と話したい事があるの」

執事

「御意」

御令嬢

「シオン。貴女はここで待っていなさい」

「分かりました…」

 少しだけ、私は哀しくなる。今の私は主人に置いてきぼりにされた飼い犬の様だ。

 ベンツが母校の駐車場に停車すると、執事が車の外に出て、ビスマルク嬢がいる方の後部座席のドアを開けた。そして、執事とビスマルク嬢は私を置いてきぼりにした。

 暇になった私は母校の駐車場の景色を見た。今夜は風が無い日なので、木々が死んだように、また、眠ったように静かに仁王立ちしてその場に佇んでいる。

 東京の空は大気が薄汚れているので、星々が全く見えなかった。山梨に行ったら満天の星々を拝めるんだろうか?と、考えている内に3分が経過した。

 私

「遅いなぁ………」

 仕方が無いので、持って来たバックの中を弄って、ゲーテの若きウェルテルの悩みを取り出した。この本は屋敷にあったのを少し拝借しているだけだ。

 ビスマルク嬢が帰って来たのは、それから20分後の事だった。

 御令嬢

「お留守番、ご苦労様。偉いわね」

 まるで、飼い犬を褒める時のような口調だ。だが悔しいかな!まさしくその通りだった!

 飼い犬の気持ちになっていると、白塗りのベンツは発進した。私は飼い犬の様に窓の外を見る。見える星は大きな月だけだった。

 東京都の銀座にある、目的地のサロン会場の駐車場に執事がベンツを止める。前に記述した通りの順番で後部座席ドアを開ける。

 御令嬢

「2時間ほどで帰って来るわ」

執事

「行ってらっしゃいませ。お嬢様」

 執事は恭しくお辞儀をした。ビスマルク嬢と私は駐車場にあったエレベーターに乗り込む。因みに、サロン会場は高層マンションの最上階にあったので、見晴らしは最高だろう。東京都を一望できそうだ。

 私が黙ってエレベーターに乗っていると、御令嬢が急に話しかけて来た。

 御令嬢

「どう?緊張してる?」

「はい、少し」

御令嬢

「あの時の公開レッスンと比べると、どう?」

 私はハッとした。

 私

「その時よりかは緊張していません…」

御令嬢

「そう」

 そう言うと、もう御令嬢はエレベーターの中で口を開く事は無かった。

 エレベーターが最上階に到着すると、「チーン!」と言う音が鳴って、それから扉が開いた。

 まだまだ会場は人が疎らだった。これからもっと増えて行くんだろうなと思うと、少し憂鬱な気分にもなる。しかし、ビスマルク嬢の顔に泥を塗るわけには行かないので、気合を入れなおす。

 会場には数々の御馳走がビッフェスタイルで並んでいた。私は物欲しそうに御馳走を眺める。私の顔に気づいたのか、ビスマルク嬢がこう言った。

 御令嬢

「シオン。貴女も食べて良いのよ。だけど、本番に支障が出ないように加減しなさい」

 私はおやつを見せつけた犬のような顔をする。私はさっそくお皿を取って御馳走を取り分ける。ビスマルク嬢の言う通りにお腹がいっぱいになって眠くならないよう、少ししか取り分けなかった。私がビッフェで御馳走を取り分けている最中、ビスマルク嬢は大企業の社長と談話していた。

 ホクホクになって、誰も座っていない席に座ると御馳走を食べ始めた。どの御馳走を食べても自然と笑顔が零れてしまう程美味しかった。こんな御馳走をタダで好きなだけ食べられる事に罪悪感が芽生えたが、御馳走を一口一口と食べ進めるごとに、少しずつ、少しずつ、罪悪感が消滅していった。やはり、体は噓をつかないらしい。

 ?

「シオン。お前も来ていたのか」

 いきなり背後から名前を呼ばれたので驚いてしまった。誰に呼ばれたのだろうと思って振り返ってみると、そこには群青色のドレスを着た長門先生が立っていた。気合を入れているのか、普段よりも化粧が厚かった。

 私

「先生。こんばんは」

 私は長門先生にお辞儀をする。

 長門先生

「やけに見覚えのある高校生だなと思ったら、やっぱりお前だったか」

「先生もピアノを演奏するんですか?」

長門先生

「いや、私は客として呼ばれたんだ」

長門先生

「説明されていないのか?このパーティーでは慣例で、参加者が推薦する演奏者の独奏会が開かれるんだ。そして、今年はビスマルク嬢が推薦する番なんだ」

 私はとても驚いてしまう。その時、この様な考えが脳裏を馬の様に駆け巡った。

 私

(これは、ビスマルク嬢が私の事を信頼してくれている証拠なんだ。信頼してくれていなかったら、他の著名な演奏家を指名するだろう)

 ?

「あ!シオンもやっぱり来てたんだ!」

「深雪?君も来ていたのか?」

 深雪は裾の短い、真っ白な生地を鮮血で染めたような真っ赤なドレスを着ていた。深雪も化粧をばっちりしているので、私は化粧をしてこなかったのを後悔する。

 辺りを見回すと、学校で見た事のある女学生が大勢いた。中には私の事を睨んでいる生徒もいた。多分、彼らの奇異な習慣の賜物だろう。私はその睨んでくる生徒に小さく手を振った。

 深雪

「シオンが演奏するの?」

「そうだよ」

深雪

「シオンなら絶対に大丈夫だよ!あの放課後レッスンの様に、自然体を保っていれば!」

「アドバイス、ありがとう」

深雪

「それじゃあ、一緒に来た友達が待っているから!じゃあね!」

 私は一言二言、深雪に別れの挨拶を贈る。深雪は別の席で御馳走を食べていた、同じ演劇部の生徒と合流した。

 長門先生

「頑張れよ!期待しているからな!」

 と言って、先生は私の背中を強く叩いてから、自分の両親の席へ戻ってしまった。背中に先生の手の跡がついていないか心配だ。

 暫くすると、我が飼い主が戻って来て、私の真正面に座った。

 御令嬢

「待たせたわね…」

 ビスマルク嬢が席に座ってから、また暫くすると、タキシードを着たボーイが御馳走を運んで来た。

 御令嬢

「ご苦労様」

 ボーイはお辞儀をして立ち去っていく。ビスマルク嬢は早速、ナイフとフォークを正しく持って、ステーキを切り分ける作業に入った。私は、ナイフとフォークを持つ手の左右が反対だった。

 御令嬢

「もう少しすると、舞台の幕が上がるわ。準備をしておきなさい」

 ビスマルク嬢に言われると、私は急いで残りの御馳走を口に放り込む。すると、舞台脇にあるドアが開いて、私の名前が呼ばれる。

 御令嬢

「行ってらっしゃい」

 美しき笑顔で御令嬢が言う。彼女の笑顔に釣られて、私も笑顔になってしまう。

 私

「はい!」

 と、私は一言だけ答えた。

23

 (幕が引き、シオンが現る。すると、会場は拍手に包まれる。その拍手に呼応するが如く、シオン、聴衆に向かい恭しくお辞儀をす。演奏する曲は、まず、シューベルトの魔王であった)

 私の魔王の演奏が終わると、鼓膜が破れそうになるほどの拍手が、会場に割れんばかりに鳴り響く。

 私は、ハンガリー狂詩曲と愛の夢を弾き終わり、時間的に次が最後の一曲となった。そして、最後の一曲は私の自慢の一曲の、ラ カンパネラにした。

 会場に拍手が鳴り響く中、最初の全音を鳴り響かせる。すると、拍手が鳴り止み、あたかも聴衆がいなくなった様に会場が静かになる。

 そして、拍手喝采の中、私の独奏会は幕を閉じた。


第一部 完

 校長

「シオン君。君に会いたいという訪問客が来ているんだ」

「私にですか?」

 奇跡の独奏会を終えてから、時間は光の様に早く過ぎ去って二週間となっていた。

 私は、校長先生に連れられて、校長室に入る。校長室で待ち構えていた人物に、私の体中に戦慄がアキレウスの様に駆け抜ける。

 母

「もう!なんで連絡を寄こさなかったの?」

「ごめんなさい…」

 と、私がしょんぼりしながら謝ると、母は堪え切れず、笑い出してしまった。

 母

「別に怒ってないわよ。校長先生から話は聞いたわ、頑張っているそうじゃない。お母さんも嬉しいわ」

「ほんと、貴女は私の自慢の娘よ」

 いきなり、母は私に抱き着いてきた。私も母を抱き返す。

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神曲 神重 御子徒 @wasuruna0729

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