放課後月面旅行

蛉主水

1《憧憬》

---月面って、燻ぶった珈琲の匂いがするんじゃないかな。焦げ臭いらしい宇宙空間と使い古した宇宙服。そんな匂いがしそうだな。

 脊髄から湧き出たこのローマ字の羅列を私は脳裏にタイピングし、怠惰な私の口は音を再生することなくセリフを言ってのけた。いったい私は誰に向かって話しているんだ。

 きっとそうだ。確かにそうだ。ずっとそうだった---私の頭に居候する精神異常者が不思議なことを常識かの如く囁いてくる。コーヒー飲んで黄昏ている私になんて雑念を仕込むのだと呆れたところだ。


 今日もフラペチーノが苦く感じる。

 ネットが進化したこの世代においても、私は十歩とは言わず百歩皆から歩調を遅らしていた。ついぞ先妄想していた月の話も、今までもこれからも就活に苦しまれるであろう私から捻り出された不安の副産物である。いっそのこと、月面旅行という名目で地球を脱出すればいいんだ。貧弱な私の学チカとセットに来る企業からのお祈りメールの塊、学生時代大した偉業もなく、何をしていたかも覚えていない。採用されなくて当然のようにも思える。国外でも昨今は就職難・リストラをよく聞くし、いっそのこと地球人をやめた方が気が楽なのではないかと思う今日この頃である...


 喫茶店『月面珈琲』はいつものように限界集落だった。


 月面とは名ばかりの、この喫茶店兼自宅には埃被った宇宙船の模型やらタコの火星人やらで親が趣味で集めた昭和の玩具ものばかりであった。冷戦の宇宙開発競争時代ではブームだった月の世界も、今はちょっぴりばかし富豪が旅行に行くという動画で話題になるだけ。就活で内定を勝ち取った友人たちはなおさらそんな夢言葉を気に留めることすらない、廃れた世界の隅っこで、しがない就活浪人生こと私は延々と自堕落に居候しているだけなのだ。いや、こんな真昼間から戯言をくっちゃべる私は真人間と呼ばれる資格はない、地球にすらいるべきではない、地球人と呼ばれるべき資格すらないんだとおもう。


「あーいっそ人間やめて月でも深海にでも移住したいなぁ」

 ため息つきながら私は机に突っ伏す。

{月は難しいけど、海なら今すぐいけるよ?}

 そうささやく声が聞こえた。正確には聞こえた気がした。彼女は対角線上の隅っこで佇んでいた。

{いつまで独り言するのかなぁってラジオ感覚で聞いてたけど、人間やめたいだなんて、君面白いこと言うね}

「...」

 私はたぶん一生このことを後悔するだろう。この時間帯、今まで誰も来たことのないこの喫茶店であろうことか赤の他人にこのような失態をさらすとは社会人失格待ったなしである。しかしなぜ今まで彼女の存在に気付かなかったのか。私の庭ともいうべき誇張されたプライベートスペースでは、侵入したコバエの一匹すらタイムカードを切るというのに、彼女はいつの間にかそこに当たり前のように寛いでいた。そういえば向こうからかすかにブラックコーヒーの香りが漂ってくる。


{あなたが淹れたこれ、なかなかおいしいよ?ありがとね}

 近くのソファに彼女は腰掛ける。

「あ...あぁ、どうも。」社会人未満の私は虫の息で返事する。

{しっかしまぁ一人で淹れといたものをてっきり飲むのかと思ってたけど、ずっとそこにおきっぱだったから冷めちゃう前に飲んじゃった。もしかしてブラック苦手?フラペチーノさんッ}


 ギクッとオノマトペが私の背後を襲う。


「そうです...私はカッコつけて淹れといて、香りだけ嗅いで放置する珈琲屋の不届き者なんです。」

 過度に卑下する私の悪い癖を彼女は有難いことに気にとめなかった。が、私は彼女に気になることが仰山あった。


{月は私も行きたいの。誰にも邪魔されない私だけのプライベートビーチを月に構えて、レゴリス(月の砂)の丘で橇を漕いでみたいの。ここの寂しさはちょうど月の虚空と似てて、よくお邪魔するのだけれども、まさか君のようなキツツキさんが居ただなんて思わなかったよ}

 黒いベレー帽に黄色い水玉模様のインバネスコート。黒いショートパンツに片足のみの黒ニーソ。しまいには尾ひれのついたブーツと来た。黒一色に黄色の激しいコントラスト、こりゃいったいどこのパリコレで流行ったファッションなのかとまじまじ見ていたが、見上げると彼女は不満げな顔でこちらを覗いていた。

{ポルカそんなに変な見た目してる?}

 少し睨んでる彼女の目は黄色くて、まるで大きな野良猫が今にでも私に襲い掛かりそうだった。ついでに尻尾も揺れている。ふわふわな猫しっぽなんかとは違う、つやが映える棘しっぽは今にでも私を刺し殺せそうだ。 驚きで顎が閉じない私は彼女の尻尾を指さし弁明した。

{?...あぁ僕のこれ、見える?すぅごいね!今まで誰にもばれなかったのにびっくりだよ}

 こっちのセリフじゃいと思いつつも彼女はさり気なく説明する。

{僕はポルカ。ポルカドットスティングレイって呼ばれるんだけど、この姿はそれの名残りなんだ}

 そう言いつつ彼女はインバネスコートをパタパタさせる。

{このぉ前に切り口があるひらひらはねぇ、突然変異種にしか現れないんだって。こう見えて僕は海の世界ではVIPなんだッ!}

 凛々しい見た目からは意外なさわやか笑顔。ついぞ会ったばかりの他人なはずなのに、彼女からはやけに親しみを感じる。ポルカ---どうやら彼女は一種のエイの変身らしい。水玉模様でポルカと安直な名前だが、不思議と彼女にぴったりだ。

{君に僕が見破れるのも多分特異体質だから、ニンゲンの突然変異種かもしれないね。就活の独り言を話すブラックコーヒーがおいしく作れる不思議ちゃん---これでも充分魅力的だと思うがねぇ}

 勝手に彼女は納得する。


「どこから突っ込めばいいのかわからないんだけれど、これって自分の幻覚ではないのですか?」

{かもしれないね。でもちょうどいいと思わない?君は今、現実社会から逃避したい。僕はそんな君を助けたいと思ってる。まぼろしや夢なんかだったとしても、就活難で藁にもすがりたい君の現状からしたら、大して気にならないと思うけどなッ}

 なんだかとんでもなく言いくるめられている気がするが、そもそも私の気が気でないのかもしれない。不思議の国のアリスではないが、気分転換にたまには一風変わった女の子からこんなお誘い、乗ってもいいんじゃないかなぁと思えてきた。

「助けるって...何をどう助けるんですか。」

{どうせ留学のガクチカがウケないんでしょ?じゃあ僕がとっておきのインターン(体験)をあげるッ。名前なんて言うの?}

「下地塑空(したじ そら)。すぐ近くの大学に通ってるただの学生です」

{ソラ君ね、よろしく!}


 にやにやしながら私の手を取るポルカ。蒼白く、やわらかで繊細な指が私の手を強く握る。少しばかり海の香りがする。太陽に焼かれた砂浜に、横たわるさざ波から伝わる水晶のように澄んだ空気。焼き焦げた水面に散らばる法螺貝とサンゴの山。飾らない冷たさと、ほのかな日のぬくもりを感じる潮の狭間にある水の香りが脳裏に染み付く...

{プッッッハハハ!なにぃ感傷に浸ってんの?キミィ小説家の才能あるよ}口には出してないが彼女には伝わっているらしい。

「からかわないで下さい。小説家気取りで結局未だに一つも作品が完成したことないんですから」

{いやいやまぁなんていうか、そこまでものごと観察できるんならガクチカも就活も君にとっては大したもんじゃないんじゃないかって思ってね。まぁせいぜい海の世界を楽しんでくれればこっちとしても嬉しいよッ}


「それで、どうやって私を海の世界に誘ってくれるんです?竜宮城にまであなたが背中に乗せてくれるんですか?」

{やぁなこった。そんな古い行き方今時だぁれもやってないさ。ってか気づいてないの?僕らもう着いてるよ}

「着いたって何ですか、ここはうちの喫茶店でs...」

 言いながらあたりを見回して私は言葉を失った。窓の外が確かに海色の景色だったからだ。見慣れない街、サンゴの馬車にワカメのアーケード。法螺貝の信号機や溶岩石のアスファルト。人...そう人もこの街には仰山いる。しかし誰もがポルカのように尻尾を生やしたり、鱗が生えていたり、中には角を生やした者すらいる。何も前触れなく異世界に転送されるとはロマンもかけらも感じられない。そんな猶予はあらかじめなかったのだろう。


{信じられないって顔してるけど、僕てっきり君は海底にいるってこともう知ってるのかと思ってたよ。君の言う『月面喫茶』も元からこの海底世界に存在するもので、僕はこの閑散としたお店の常連さん。我が物顔でコーヒーを淹れ始めた時はちょっとびっくりしちゃったよ。いつの間に店主がニンゲンの学生さんになったんだって}

 どうやらこの喫茶店に入った時点で私は海底世界に居たらしい。おかしい、実におかしい。私は店に入る前までは大学のキャンパスでぶらぶらしていた筈だ。キャリアセンターで募集要項を一瞥し、帰り際にイクラのおにぎりを頬張った。東京の一角で海底二万マイルが出来るわけないじゃないか。しかし現に私は今海底にいる。日照りで蒸し風呂サウナの東京とはおさらばということだ。


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放課後月面旅行 蛉主水 @Raym0

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