終章
あれから数日。
ダグラスは少し落ち着くと、クリスが言っていた「ノート」の事を思い出した。
あの時、クリスが指差していたサイドテーブルに目をやる。
すると、そこには
近付いてノートを見ると、表紙には『ダグラス・アーサー社長へ』と書かれている。
そして、中には、クリスが亡くなった後の対策が、手書きの文字でびっしりと書き込まれていた。
そして、最後のページにはこう
『迷惑をかけると思って今まで言えなかったけど
最後に言わせて
社長の事、大好きだったよ
クリスより
親愛なる社長へ
愛を込めて』
ダグラスはそれを見て、
クリスの要望通り葬儀は行われず、
その死は
周囲も代理業社の成績から、近いうちにクリスがいない事に気付くだろう。
クリスがなぜ代理業社にいないのか、その理由は分からないにしても。
ダグラスは、クリスが書き残した対策を実施する
そして、ダグラスは一ヶ月でクリスの記していた対策を全て実行した。
しかし、忙しさから解放されると、また、
以前のように仕事をこなしはするが、ぽっかりと空いた穴はどうやっても
この気持ちを共有出来る相手がいるとするなら、レイ以外には考えられなかった。
それに、まだ、レイにはクリスの死を伝えていないし、言わなければならない事もある。
ダグラスは、
内線をかけて、しばらくするとレイが通信に出た。
『よう』
レイが軽く
「クリスが死んだ」
『ああ』
レイは、
それに、ダグラスが人目もはばからず、クリスの遺体を抱いて『愛している』と叫んでいた事も。
しかし、それを
「約束を守れなかった。すまない」
ダグラスは、レイが止めるまで、声を震わせて謝り続けた。
『クリスが死んだのは、あんたの
レイは、ダグラスを
『もし嫌じゃなかったら、俺の部屋に来るか? 話したい事が山ほどある』
「私も話したい事がある。今から行ってもいいか?」
『来いよ。待ってるぜ』
ダグラスは、缶ビールを持ってレイの元を訪れた。
「久しぶりだな、レイ」
レイは、ビールを受け取ると、テーブルの上に置く。
「挨拶はいいから、まあ座れよ」
そう言って、レイは
「ありがとう」
ダグラスは、礼を言って椅子に座った。
「それで、クリスは
レイは、ビールを開けると、一口飲んで
ダグラスもビールを開けて一息に飲み干すと、空き缶をテーブルに置いた。
「泣きながら、笑っていたよ」
ダグラスは答えてみたが、クリスの笑顔の意味がよく分からなかった。
それは、苦しみから解放される安心感から来る笑顔にも、心配をかけまいと無理に作った笑顔にも思えた。
レイは、なにかを
「そうか。クリスは寂しがり屋だからな。最期に、あんたが
そう言うと、レイは、しばらく考えるように黙り込んでから口を開く。
「クリスは、自分の過去についてあんたに何か話したか?」
ダグラスは、少し考えてから答える。
「母親と二人暮らしだったとは聞いている」
それを聞いてレイは苦笑した。
「そうか。何も話してねえのか。あいつらしいな」
それから、真剣な顔をしてダグラスを見る。
「あいつが、ここに来るまでの話を聞くか?」
「話して
ダグラスも真剣な目でレイを見た。
「あいつの性格が
レイはそう言うと、クリスから聞いた事をダグラスに話しはじめた。
「あいつは、実の父親に三歳の時から毎日レイプされてたらしい。それをあいつの母親は、助けもせずに黙って見ていたんだとよ。クリスは耐えきれなくなって、五歳の時に父親を殺した。だがな、その後は母親にレイプされるようになった。救われねえよな。だから、今度は母親を殺そうとしたが失敗しちまった」
母親は、その時の
「クリスが女を怖がるのは、間違いなく母親の影響だ。助けて欲しい時に助けもしないばかりか、クリスを散々に犯した。おまけに寝たきりになった母親の面倒まで見なきゃならなくなった。そんなもん世話せずにほっときゃいいのに、あいつは律儀なところがあるからな。放っておけなかったんだろうよ」
クリスは、お金を
「クリスが六歳の時だ。クリスは毎日、何人もの客を取らされたらしい。おまけに仕事が終わって金を貰いに行くと、毎回、店長に汚ねえ言葉で
クリスは店が終わると、母親の世話をする為に家に帰った。
「店で心も体もボロボロにされて、帰ったら家には、大嫌いな母親が待ってる。あいつの居場所なんて
そうやって、クリスは二年間、店と家を往復して暮らした。
「クリスは、エリオットって
レイはそこまで話すと、ビールを一息に飲み干した。
「これが俺の聞いた全部だ。まあ、クリスが話してねえだけで、他にもつらい事はいっぱいあったんだろうけどな」
ダグラスは、それを聞きながら涙を流した。
クリスの過去は、ダグラスが想像していた以上に
それを
ダグラスは、クリスがここでの生活をしあわせだと言っていた理由がやっと分かった気がした。
レイは、立ち上がると、ウイスキーの
「飲むか?」
「貰おう」
「ロックでいいか?」
レイは、返事も聞かずに、グラスに氷を入れてウイスキーを
そして、席につくとまた話しはじめる。
「多分、あいつの感情がなくなったのは、店で働くようになってからだ。クリスが感情を殺さなきゃいけなかったくらいだ。相当つらかったんだと思うぜ。なのに、俺は昔の話を聞く事で、クリスの感情を引き出す手伝いをしちまった。何も知らなければ、まだ生きて行けたかも知れねえのにな」
レイは話し終えると、涙を
ダグラスは、レイを見て言う。
「私は、感情がないまま生きるより、自分らしくいる事が出来る世界を知れて、良かったんじゃないかと思う。どんなにつらくても、感情を殺したまま生きる事がしあわせだとは私には思えない。ただ、クリスの場合は、その所為でつらい思いをする事になったが」
ダグラスの手の中で、グラスの氷が音を立てた。
レイはその音に顔を上げると、
「俺は、あいつが誰かを本気で好きになる事なんて一生ねえと思ってた。だから、人を好きになるって感情を持てて、あいつがしあわせだったってえのは分かるし、祝福したい気持ちがねえ訳じゃねえ。でもな、それを許せねえ気持ちだってある。俺は
そう言うと、レイは一息にグラスを飲み干した。
ダグラスは何も聞かずに、レイのグラスにウィスキーを注ぐ。
「クリスは最期まで、会社の心配をしてくれていたよ。分厚いノートにびっしりと、自分が死んだ後の対策を書いていた。これを準備して
ダグラスのグラスを持つ手が震えていた。
「俺が言うのなんだが、お互い自分を
レイは、涙を堪えてグラスを開けた。
「あんたの周りに気を使うところは、クリスにそっくりだな。あいつはあんたのそう言うところに惚れたのかも知れねえな」
ダグラスは、また、レイのグラスに酒を注ぐ。
「それを言うなら、クリスにとってレイの
「あんたは口が
レイは苦笑した。
ダグラスはそれを聞いて、思い出したように口を開く。
「口が上手いと言えば、パーティーの席でこんな事があったんだ。パーティーの主催者がクリスにリップサービスは得意だが、夜の方はどうなのかと聞いて来たらしいんだが、その時クリスはなんて答えたと思う?」
「分からねえけど、あいつの事だから下ネタ言って挑発したんだろ?」
ダグラスは笑った。
「その通りだ。リード出来るくらいのテクを身につけてから聞きに来いと言ったらしい」
レイは、手を叩いて笑った。
「そりゃ無理だ。あいつをリード出来る奴なんている訳がねえ」
「私も同感だ」
レイは、空になっていたダグラスのグラスに酒を注ぐ。
「あんたが大丈夫なら、朝まで飲まねえか?」
「ああ。飲もう。ただし、明日の仕事に触るといけないから、このグラスを空けたら次からは水を飲む事になるが」
それを聞くと、レイは椅子から立ち上がり、財布を手に取る。
「じゃあ、いつも飲み物を差し入れて貰ってる礼に、ソフトドリンクでも買って来てやるよ。なにがいい?」
「スポーツドリンクかお茶で頼む」
「了解した」
そうして、二人は、朝まで飲み明かした。
閉じられた自由の中で 汐なぎ(うしおなぎ) @ushionagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます