ないものねだり 前編
いつの間にか年末になっていた。
明日はクリスマスで、町中にビカビカのイルミネーションが張り巡らされている。
別に、日下部とクリスマスを祝う気などない。
あいつはどこぞの女のところへ行くのだろう。
仕事が終わり、コンビニで弁当を買って帰宅していた。
マンションの前に行くと、日下部の姿があった。日下部は女と口論になっていた。
俺の目線からは、日下部の後ろ姿が見え、その背中の奥から相手の女の顔がチラリと見える。その女の顔に、俺は見覚えがあった。
どこで見たのだろうか――。
しばらく記憶を巡らせていると、香純の家に乗り込んできた女だと思い出した。
日下部は腕に縋り付いてくる彼女を振り解き、足早にマンションに入っていった。女は泣き崩れ、その場にしゃがみ込んでしまう。
どうしようか、と俺は悩んだ。
無視してマンションに入るのも良いが、以前の一件で俺は彼女に顔を知られている。もし気づかれたら面倒なことになりそうだ。
俺は踵を返して、彼女がいなくなるまでの間どこかで時間を潰そうと考えた。
そう考えている頭の隅では、凍えそうだな、とも考えた。
俺は彼女に近づき、腰を屈めて「大丈夫?」と声をかけた。
彼女は、ゆっくりを顔を上げ、泣き腫らした目で俺を見上げた。
俺と彼女は近くのファミレスに入った。
二人ともドリンクバーを頼み、俺は買ったコンビニ弁当を上着で隠しながら自分の隣に置いた。
彼女は
間宮は二十分くらいシクシクと泣いているだけだった。目を抑える左手の袖からは、痛々しいリストカットの痕が覗いていた。
こんな情緒が不安定そうな女性を
間宮は涙を拭って、鼻を啜りながらジュースを飲み始めた。
「落ち着いた?」
「……はい、ありがとうございます」
俺は胸を撫で下ろして、ズボンのポケットから煙草を取り出した。
「あっ、煙草、大丈夫?」
「あ、は、はい、大丈夫です」
俺は間宮に向かってニッと笑ってから、煙草に火をつけた。
「俺のこと、覚えてる?」
「……はい、あの、彼氏さん」
間宮は顔を伏せ、たどたどしく話す。
「あいつと、……まだ関係続けてたの?」
間宮はしばらく黙り込み、ジュースを一口飲んでから口を開いた。
「本当はキョウスケくんには、別れようって言われてたんですけど、私が、どうしても離れたくないって言って……。でも、キョウスケくん、全然会ってくれなくて。今日も、クリスマスくらい一緒にいたいって、マンションの前で待ち伏せて――」
そう言って間宮はまた泣き出した。
なるほど、恭子だから「キョウスケ」と名乗っているのか。
しかし、なぜ間宮は日下部にこだわるのだろうか。間宮はまだ若く、可愛らしい顔をしている。
「うーん、おじさんが言うとセクハラだって思うかもしれないけど、君は可愛いんだしさ。あんな奴、さっさと忘れなよ。あいつは、君を幸せにできないよ」
「そんな――、あなたはキョウスケくんのこと、何も――」
「高校の同級生なんだ」
俺は間宮の言葉を遮った。
間宮は目を丸くさせ、口をポッカリと開けた。
俺は煙草を灰皿に押し付け、コーヒーを喉に流し込んだ。
「えっ、同級生……?キョウスケくんって、いくつなんですか?」
間宮は呆気に取られながら尋ねてきた。俺は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
この娘、あいつの歳も知らなかったのか。
「……三十八」
「嘘……、見えない……」
それは日下部が若く見えるのか、俺が老けて見えるのか、どちらだ?出来れば、前者であることを願いたい。
「じゃあ、高梨さんは、その、彼の昔の姿を……」
「ああ、知ってる。……何ていうかな。ボーイッシュでミステリアスな美人だったよ」
俺の脳裏に、あの頃の日下部の姿が浮かぶ。
「……不思議な人ですよね。何考えてるのか、ちっとも分からない」
間宮は困ったように笑った。
「うん。分からない。一度も、あいつの考えていることなんて分からなかった」
すっかり夜も更け、俺は間宮を自宅まで送った。
その道中、間宮は一言も発さず、俺の顔を見ようともしなかった。俺は「明日は雪だってさ」「そこの焼き鳥屋、旨いよ」など、他愛のないことを一方的に話していた。
間宮の家は、古いアパートだった。アパートの下まで着くと、俺は「じゃあ、おやすみ」と言ってその場を後にしようとした。
「あの、ちょっと上がっていきませんか?」
間宮に呼び止められた。
「いや、いいよ。もう帰らなきゃ」
「でも、お礼したいです」
「大丈夫大丈夫。ドリンクバー奢っただけだし。弁当も早く食べたいし――」
その瞬間、間宮は俺に抱き着いてきた。
俺はびっくりして一瞬思考が止まった。しかし、すぐに正気を取り戻して、辺りに人がいないか見渡した。俺は人前だと手を繋ぐことすらできない。
「えっ!?ちょっと――」
「一緒にいてください」
今にも泣きだしそうな声がくぐもって、俺の胸から聞こえてくる。
おそらく、この娘は寂しいのだろう。日下部に拒絶された寂しさを、俺で埋めようとしているのだ。
俺は同情しながら、ポンポンと彼女の背中をさすった。
そして、両肩を持ってゆっくりと引き離した。
「やめときなよ、こんなおじさん。君が傷つくだけだから」
間宮は両目に涙を溜め、尚も懇願するように首を横に振る。
「ほら、これでも食べて、風呂入って、あったかくして寝な。今夜は冷えるよ」
俺は間宮に、袋に入ったコンビニ弁当を手渡して、その場を後にした。
背後で間宮が泣いているような気配がしたが、俺は振り返らなかった。
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