ないものねだり 後編 ※11/22修正

 俺が帰宅すると、日下部はリビングのソファに腰かけて「随分遅かったな」と言ってきた。

「ああ、ちょっと、外で飯食ってて」

 俺は適当に嘘を吐いて、日下部に背を向けて寝床に向かおうとした。

とか?」

 俺はビクッと体が震えた。

 俺が振り返ると、日下部はニヤニヤとこちらを見ている。

「見てたのか?」

「マンションの前で、お前があの女を慰めてるのは見たよ」

 俺はため息を吐きながら、襟足を掻いた。

「ヤったか?」

「はあ?」

 俺は耳を疑った。

「あいつ処女だったろ」

 日下部の言葉と態度に、全身の血が逆流するような感覚に陥った。

「いやっ、なにも、何もしてないよ」

 俺は怒りを鎮めようと、グッと拳を握りしめた。

「ほんとか?キスも?ハグも?」

 ハグ――というか抱き着かれはした。

 俺はきまりが悪く、唇を噛みしめて押し黙った。

「ははっ、お前はそれでだもんな?」

 日下部はソファから立ち上がり、こちらに歩み寄って来る。

「なあ、俺ん中挿入れさせてやろうか?」

「は?」

 俺は近づいてくる日下部に後退り、壁に背を着けてしまう。

「いつも世話になってるお礼だよ。心配すんな。俺は処女じゃねえよ」

「――やめろって」

「カマトトぶるなよ。お前だって男だろ」

 日下部はニヤニヤと笑いながら詰め寄って来る。

「――いい加減にしろ!!!」

 俺は頭に一気に血が上り、思わず日下部を平手打ちした。

 頬が赤く腫れた日下部の顔を見て、俺は一気に冷静になった。

「ご、ごめん、大丈――」

 その瞬間、俺の顔に強い衝撃が走り、視界がグラッと傾いた。そして、視界がスローモーションになりながら、俺は床に倒れ込んだ。

 何だ?頬が痛い。――殴られた?

 口から血の味がして、天井をぼんやりと見上げていると、日下部が俺の上に馬乗りになってきた。

 そして、日下部は床に転がっている俺をまた殴った。――しかも拳で。

「ふざけるな!!!贅沢なこと言いやがって!のくせに!クソッ!クソッ!」

 日下部は何度も何度も俺を殴る。そのたびに、俺の視界は歪んでいく。視界の端に映る日下部の拳はどんどん赤く染まっていく。

「男はみんな頭ん中、セックス!セックス!女!女!――みんなそうなんだろ!?なあ、違うのか!?違うんだったら、男ってのは何なんだよ!」

 日下部は何かをずっと喚いている。何を言っているのだろう。

 日下部の声がどんどん涙声に変わっていくのだけが分かる。

「誰も認めないじゃないか!何で認めないんだよ!?なあ、俺はこんなにも、女とヤったんだぞ!いい加減認めろよ!俺のこと!!!――何でお前が男で、俺は違うんだよ!!?」

 日下部は泣きじゃくりながら、俺を殴り続ける。

 そうか、日下部、お前はずっと――。

「何で殴り返さないんだよ!?何で、……お前は黙ってるんだよ。お前も、俺を女だって――」

「――き、だから」

 日下部は、殴るのを止めた。

「君が好きだから」

 あまりにもか細い声で、俺自身がびっくりした。

 日下部は振り上げていた拳をゆっくりと下ろした。

 俺はなんて酷い人間なのだろう。俺はずっと、日下部を苦しめていただけじゃないか。身体が男のくせに性欲がない俺の存在など、日下部にとって屈辱でしかない。

 そして、日下部の真意を知ってもなお、こんな言葉を投げる自分を最低だと思った。最低だと思いながらも、日下部をだと思っているわけではないと伝えたかった。

 日下部は涙と鼻水でグチャグチャになって、酷い顔をしていた。

 俺はゆっくりと上体を起こし、呆然としている日下部を抱きしめた。

「――ごめん」

 俺はそれしか言えなかった。



 その夜は、お互い抱きしめ合って眠りについた。

 日下部にとっては、驚くほどプラトニックな夜だったと思う。そして、日下部はこの夜驚くほど大人しかった。

 お互いの体温だけが伝わってくる時間。俺はこの時間が若い頃から好きだった。

 お互いに顔を見ず、言葉すら交わさずに一夜を明かした。



 夜が明ける前に、俺は「今までありがとう。さようなら」という置手紙だけを残して、日下部の家を出ていった。

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